◇
カリカリ。
硬い芯が紙上で削れる音が響く。
パラリと落ちた自分の髪を再び耳にかけなおし、雅はチラリと横を盗み見た。
夕日が入り込む窓際の席には、足を机の上で組むなんて行儀の欠片もない座り方を披露する獄寺がいる。
「獄寺、もう日誌だけだから帰っていいよ?」
苦笑まじりで話しかけるが、三秒ほどこちらに視線を寄越しただけで、返答はなし。
黙ったまま視線を正面へと戻すその姿に困ったように笑う。
本日、雅は獄寺をパートナーに日直という仕事に取り組んでいた。
獄寺とはただのクラスメートで、それ以上でもそれ以下でもない。
彼に密かに恋心を抱いている彼女からすれば思わぬチャンスだったが、正直なところ、雅は一人で仕事をこなす気満々だった。
失礼だと思うものの、彼がこういう仕事を真面目にこなすタイプには見えなかったからだ。
しかし意外にも中々に律儀な性格だったらしい。
ノート集めでは回収は雅がしたものの、職員室に運ぶ前に獄寺に奪われた。
黒板消しも雅がやったが、前にたかって邪魔だった男子達を睨みで退けたのは獄寺だし、今もこうして日誌を書き終えるのを待ってくれている。
元々、何だかんだで優しい人物だということは知っていた。
誰もいない音楽室でピアノを演奏する獄寺を偶然見かけてからは、彼のことばかり目で追っていたから。
演奏したのは只の気まぐれだろう。
だが、その姿が目に焼き付いて離れなかった。
ギャップは武器だとよく聞くけれど、自分もそれにやられた口か。
その姿を追ううちに、いつの間にか好きになっていた。
「おい」
「―え!?」
不意に耳に届いた声に、急激に現実に引き戻される。
この状況で自分に声を掛けられる人物は一人しかいない。
弾かれたようにそちらを向けば、不機嫌そうな顔と目が合った。
「何笑ってやがる」
その言葉に、やっと自分が笑みを溢していたことに気付く。
「あ、ごめん」
変な子だと思われただろうかと赤面しながらペンの止まった自分の手元を見て、慌てて再開しようとページを捲った。
その瞬間に、ピリッと走る痛み。
「っ…」
反射で退いた指先に視線をやれば、赤く入った線が目に入る。
久しぶりの赤に思わず見入っていると、ガタンと立ち上がる音がした。
続いて、後ろを通る足音と、扉が開かれる音。
「…獄寺?」
気付いた時には獄寺の姿はなく、呆れられたのだろうかと、雅は視線を落とす。
いつもそうだ。
話し上手でもなければ特別秀でたものもない。
こんな自分を好いてくれる人なんているのだろうかと唇を噛み締める。
―もう、いいや。
待たせる人もいなくなったし、先生だけなら多少遅くなっても構わないだろう。
日誌とシャーペンをほおしだし机に顔を伏せると、雅はゆっくり瞳を閉じた。
◇
どれくらい時がたったのか。
ふと目を醒ました雅は跳ね起きた。
完全に、寝入っていた。
教室は薄暗く、先程までの夕日の色は確認できない。
日誌を早く完成させて提出しなければと、寝る前に退かした場所へと手を伸ばした。
「…―?」
しかし、見つからない。
代わりに目当ての物とは違う物が指先に触れた。
カサリ。
薄っぺらくて小さい長方形のそれを手にとり、目を見開く。
「絆創膏…」
勿論、思い当たるのは一人しかいなかった。
いきなり出ていった獄寺の姿が頭をよぎり、絆創膏を握り締める。
そんな中、雅の耳が音を捉えた。
―ガラ
扉を開ける時独特の音に続けて、いつも意識して他より多く拾う声が聞こえる。
「…目、覚めたのかよ」
やっぱり不機嫌そうなその顔に、クスリと笑った。
雅は嬉しそうに微笑むと、控え目に声を響かす。
「絆創膏、有難う」
その言葉には返さずズカズカと教室に入ってきた獄寺は、鞄を手にとり再び廊下に出た。
振り向かずに、一言。
「帰んぞ」
「あ、うん」
恐らく日誌も出してきてくれたのだろう。
ここまでしてもらって止める理由はない。
そのまま見送るつもりで黙って視線を送り続けていたが、獄寺が動き出す様子は見られなかった。
「?」
首を傾げる雅に、痺を切らしたかのように獄寺が振り返る。
「っ〜何ぼさっとしてやがる!早く準備しやがれ!」
「へ!?」
その内容に目を丸くしてたっぷり十秒。
やっとこさ思考回路が繋がった。
つまりは一緒に帰ろうということで。
ひらり。
手に持っていた絆創膏が、静かに指から離れた。
―あれから数分後、何とか冷静さを取り戻した雅は、獄寺と帰宅路についていた。
結局送ってくれるということらしい。
本当に律儀だと感心するものの、緊張で殆ど喋れないまま着いてしまった。
あとは一つ角を曲がれば我が家だ。
雅はピタリと足を止め、笑顔を見せた。
「此処でいいよ」
「そうかよ」
「ん、ありがとう。また明日ね」
「ああ」
『また明日』
そう口にした瞬間、何故だか酷く心細くなった。
言い様のない不安が胸を占める。
背を向けた獄寺を、訳も分からず呼び止めた。
「っ…獄寺!」
「何だよ?」
振り返る獄寺に返す言葉は見付からず、沈黙が降りる。
それに耐えられなくなった雅は一瞬視線を落とした後に無理矢理笑った。
「ごめん、何でもない」
「…また明日な」
獄寺は暫く雅を見つめた後、再び背を向ける。
その後ろ姿を瞳に映し、切なそうに目を細めた。
また明日、彼に本当に会えるのだろうか。
彼は最近欠席が多かった。
それも、雅とは比較的仲が良いツナや、クラスの人気者である山本などと一緒に、だ。
頻繁に色々なところに傷を負っているし、一度、目を見張るような大怪我を負っていた時もあった。
薄々感付いて、いる。
彼等は自分には手の届かない世界で生きていること。
いつか自分の前から消えてしまうんじゃないかと思うと、怖くて恐くて仕方がない。
でも自分にはどうする力もないことも理解しているから、気付かないふりを続けるのだ。
どうか、無事でいてほしい。
手を固く握り締めると、祈るように目を瞑って踵を返した。
その後ろ姿が愛しくて、愛しくて
―一・二歩進んで、獄寺は足を止めた。
先程の雅の笑顔が脳裏でちらついて離れない。
彼女は只のクラスメートだが、自分にとっては少々特別な存在だった。
尊敬するツナと仲がいいこともあって比較的目に入る存在であったし、どことなく危なっかしいところがあって、気が付けば目が離せなくなっていた。
いつも何かに耐えているように見えて、一人にできないと思った。
拳を握り締めると、意を決したように振り返る。
そこで目にした雅の姿に、世界が停止した。
「―…」
うつ向いた背中は丸まり、肩は震えていた。
艶やかな黒髪がその細い肩から滑り落ち、一層儚さを感じさせる。
一体、何に耐えているのか。
何となく、何となくだったが、自分が何か関係している気がして、獄寺は堪らず方向転換して雅の方へ歩き出す。
「っおい」
ぐいと後ろから腕を引っ張ると、振り向いた顔に大きく見開かれた瞳が見れた。
不安げに揺れる瞳に、我にかえる。
自分に、一体何ができるというのか。
雅の腕を掴む手から力が抜け、するりと彼女の腕が指をすり抜ける。
考えても答えが出ることはなく、不器用な自分に腹が立った。
「…しけた顔してんじゃねーよ」
自分にできることなんて、こうして声をかけることだけだ。
いつものようにそっぽを向いて、慣れない手付きで雅の頭をくしゃりと撫でた。
「―獄寺」
手を退けると、頭を触り照れたようにはにかむ雅と目が合う。
「ありがとう」
ふわりと笑って背を向けた雅の、今度はしっかり伸びている背筋に、そっと息を吐く。
小さな背中を見送った。
その後ろ姿が愛しくて、愛しくて
(その白い手が震えているのを見ているだけで)
(不器用な手付きで頭を撫でる手が、あまりに温かくて、優しくて)
泣きたくなった。