◇
「―…?」
読んでいた本がいきなり手元から奪われ、雅は上を見上げた。
まず目に入る、目立つ金髪。
こんなことをする人物は限られている。
自分がもたれている瓦礫の上に器用に座り、本を空中にほおり投げながら笑う姿にそっと溜め息をついた。
「…ベル。読書中なんだけど」
「ししっ、本なかったら出来ないし。諦めろって」
明らかに彼が本を返してくれれば済む問題だ。
遠回しに言えば自分を退屈させるな、ということだろう。
雅が黙って視線を元に戻したのを了解の合図ととり、ベルは雅の隣に降り立つ。
「久しぶり。任務は?」
「知るかよそんなもん。オレの自由」
「相変わらずの自由ぶりで。怒られても知らないよ」
少し呆れた表情を造ると、オリジナルナイフを手元で器用に操るベルを見た。
その変わったナイフの形状と鮮やかな手付きに目を奪われるのはいつものこと。
一体何処から出しているのか気になるのに、その現場を見れないのも、いつものこと。
しかし、雅には目もくれずにひたすら隣でナイフを操り続ける彼に、疑問を持つのはもう飽きた。
ふと現れたかと思えば、何をするわけでもなくこうして時を過ごし、いつの間にかフラリと消える。
それがいつの間にか普通になって、寧ろ来ない日の方が落ち着かない。
「お前さ」
「…ん?」
突如聞こえた声に、現実に引き戻された。
ベルから話し掛けてくるなんて珍しい。
驚きながらも顔には出さず、雅は首を傾げた。
「オレのこと恐くないわけ?一応マフィアだぜ?」
その問いに雅は一瞬キョトンとした後、あっけらかんと答える。
「恐いけど?」
「…全然そんな風に見えね」
平然と隣にいるくせに、どこを見てそう思えばいいのか。
一般人である雅なんてベルにかかれば簡単に消せる存在だ。
大人びていて冷静で、でも時々凄く子供っぽく笑う女。
そんな彼女はベルにとっては興味の対象で、また殺しの対象にもなりえる存在だった。
「恐いなら逃げろよ」
そうすればもっと愉しめるのに。
殺す理由が出来る、のに。
自分の中に沸き上がる狂気を感じながら、次の雅の反応を待った。
一拍間を置いて、フイと彼女が視線を反らす。
「まあ、それ以上にベルが好きだからね」
さも当たり前だと言わんばかりにサラリと伝えられた言葉。
ぐつぐつ何かが煮える音がする。
その得体の知れない何かを鎮めようとするベルに気付くことなく、雅は続けた。
「殺されるのは困るけど」
「…何で?」
「何でもなにも」
雅が再びベルに視線を戻す。
ドクドク鳴る心臓が、警告を鳴らした。
「死んだらベルに会えないじゃない」
悪戯っぽく笑う雅に、自分の中で何かが切れる音が聞こえる。
気が付けばナイフの落ちる音が連続で響いて。
目の前には少し驚いたような、でもムカつくくらい冷静で、呆れたように笑う雅。
「…さっきの話聞いてた?」
「聞いてたぜ」
「じゃあ…このナイフは何?」
自分の首に押し付けられた一本のナイフを指して、眉を下げる。
それに対してベルは不愉快そうにナイフを持つ手に力を込めた。
雅の首に薄く、赤い線が引かれる。
それでも本人に変化はなかった。
ただ、困ったように微笑むだけ。
「もっと焦れよ」
普通の人間ならこんな状況に陥ればもっと焦るし、命乞いする奴も少なくない。
雅のこの冷静さが、ベルは嫌いだった。
予想外の言動と表情で、頻繁に自分を狂わせるところも気に食わない。
自分の身柄上、これだけ積極的に関われば彼女が危険に晒される可能性があることも承知の上だ。
しかし彼女を守りたいなんて思ったことは一度もないし、寧ろ今のように殺意が沸くことの方が多い。
他の奴に殺されるくらいなら自分の手で、なんて気持ちがあるのかもしれない。
どれくらい時間がたっただろうか。
三秒か、あるいは数十分か、はたまた数時間かもしれない。
完全に時間の感覚が狂った世界で、雅がゆったりと笑った。
「ベル」
―また、何かくる。
察知するものの、いつも通りこれ以上力は入らない。
身体は動かない。
ムカついて、イラついて、やり場のない怒りは頭の中へ。
せめてもの抵抗で、ベルは脳内で煩く鳴り続ける警報マシーンを叩き壊した。
雅の言葉が脳に届く。
「あんまり待たせると、他の人見ちゃうかもよ」
自分の中でマシーンの残骸を踏みにじったのち、現実に戻ったベルは笑った。
やっと鎮まった高ぶりに、満足そうに歯を見せる。
「ししっ、そんなこと出来るわけねぇし」
そんなベルの表情を待っていたとでもいうように、雅も唇の端を微かに上げた。
「根拠は?」
飽きない奴。
これだからこの女は手放せない。
雅を殺せない理由がはっきりしたことで、彼女に対しての感情が見えてくる。
ますます笑みを深くしたベルは、首へのナイフはそのままに、雅を壁に押し付けた。
「オレ以外の奴を見るようなことがあったら…」
ツゥ。
ナイフが首から離れ、切れるか切れないかの境目で上へ向かって肌をなぞる。
頬を伝って、まだ上へ。
思わずそちら側の眼を瞑ると、ピタリ。
ナイフが止まった。
瞼に、冷たく硬い感触。
片眼で見たベルは、今まで見たこともないくらい愉しそうに笑っている。
「その両目、抉り出してやるよ」
過激な愛に、思わず笑った。
恋は盲目?仰せのままに。
(他の奴を映す眼なんて見たくもない。必要も、ない)
(やっぱそれくらい愛してくれないとね)
愛の証。