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『―あそこで助けに入れるのは飴凪さんのええとこやけど』
暗闇の中で、声が響いた。
文化祭の時、助けられた後に言われた台詞。
また、これか。
恐らく顔をしかめているだろう自分の目の前に、困ったように笑う白石の顔が映像化する。
映画館のスクリーンのような画面に、いっぱいいっぱいに映るそれ。
『飴凪さんは女の子や。あんま無茶したらアカンで』
そう、このアングルだ。
少し屈んで、覗き込むようにして言われたのだ。
何度目か分からない映像と台詞のリピートに、雅は暗闇の中で叫んだ。
うるさいってば!…―ッ―!
段々、自分の声も聞こえなくなる。
ふと、意識が違う空間に飛ばされた。
「―、…!雅!」
徐々に明確になる自分を呼ぶ声に、雅はそっと瞼を上げる。
「…ん」
目を開けると、あからさまに呆れた視線を送ってくる金江と目が合った。
前にもあったな、こんなこと。
どうやら寝てしまっていたようだった。
プチデジャウに眉を潜める雅に、金江は鮮やかなデコピンを喰らわせる。
「っ…。いた」
「少しは目、醒めたかー?」
うっすら赤く色付いているであろう額を抑え、恨みを込めて睨むが、相手にもされない。
軽く流した上に更に二発目を準備するその手を慌てて掴むと、溜め息が返ってきた。
「にしてもまあよく寝る子だねアンタは。よくこんな時にこんな場所で寝れるよ」
「こんなところ…?」
「さっさと精神を呼び戻しなさいな」
両手を顔の横に位置させ、ヤレヤレと首を振る友人を隣に、雅の周りに音が戻り始める。
賑やかな音楽に、大きな歓声、騒がしい応援。
地面に接地するお尻が、その固さに痛みを訴え始めた。
ここは、学校のグラウンドだ。
自分も金江も、視界に入る全ての人の服装は、ジャージ。
ここまで材料が揃えば、寝惚けている雅にも理解できた。
「状況把握は済んだかな?」
膝を台に頬杖をついてニヤリと笑う金江に対し、ジトリと目を据わらせる。
「…体育祭真っ最中」
「正解ー」
思い出した。
体育座りで自分のクラスを応援中だったのだ。
本当に、こんな中で寝れるなんてどうかしている。
これから特技はどこでも寝れることにしようか。
本気でそう考え込む雅だったが、その思考回路は直ぐに断ち切られた。
『きゃああぁああ』
歓声が、一段と大きくなる。
否、歓声というよりは女子独特の黄色い声だ。
何だ何だと顔を上げるが、どことなく予想はしていた。
こんなに女子が騒ぐ対象なんて、この学校には一人しかいない。
横から伸びた手によってぐわしと掴まれた肩に、確信した。
「ちょ、雅!白石君出るよ!」
ああ、見りゃ分かる。
はしゃぐ金江の弾む声を聞きながら、雅もその声援が集まる一点へと焦点を合わせた。
ここのところ何かと頭を占めるその姿に対し、眉間にしわが寄るのが分かる。
邪念を送るかのように、天敵を見つめた。
余裕の笑顔が、また憎い。
「…ーえ?」
不意に、視線が交わった、ような気がした。
反射的に目を反らして視界から完全に外すが、びっくりした心臓の音は自分には隠せない。
ちょ、睨みキャッチセンサーでもついてんの!?
まさかの出来事に反応してしまった心臓が落ち着かず深呼吸するが、よく考えてみれば、この人数の中でそんなワンポイントで目が合う筈がないのだ。
気のせい、気のせい。
言い聞かせるように頷くと少し脈がスピードを緩めた。
あと少しで正常に戻るというところで、周りのざわつきが増した。
密かに首を傾げるが、自分には関係ないと腹をくくった雅はひたすら地面とにらめっこ。
そういえばと疑問が頭を霞める。
―これ、何のレースだっけ?
金江に確認しようと顔を上げて彼女の方を見るが、彼女と目が合うことはなかった。
前方を向いたまま固まる金江に、何となく、嫌な予感が胸をよぎる。
「…、かな」
その名を呼び終える前に、自分に覆い被さった影。
ぎこちない動きで金江と同じ方向に首を動かせば、予感的中だった。
「ナイスな髪型やなあ飴凪さん、協力頼むわ」
ニコリと綺麗な笑みを浮かべる白石を目の前に、白くなりかける頭を必死に働かせる。
さりげなく取られた手だとか、引っ張られて走りだしたことだとか、周りの女子が煩いだとか、色々な情報が思考を邪魔した。
しかし、一気に理解する。
周りでも沢山の人が行き交っている。
我が校の体育祭名物の一つである、借り『者』競争だ。
先程の台詞から考えると、白石の引いた紙には『三編みの子』とでも書かれているのだろう。
今日に限って、気分を変えて真面目っ子でいってみよう!なんて考えた自分に鉄拳を喰らわしてやりたい。
あーだこーだしているうちに、審査員の前に到着する。
ここで合格を貰うのがゴール条件だ。
「では紙を見せて、証明して下さい」
髪型なんだから見れば分かるだろう。
黙って立っていた雅だったが、審査員に紙を渡した白石が振り向いた。
「飴凪さん、笑顔や」
―はい?
唐突な指示に一瞬呆けるが、笑顔と聞いて雅が退くわけがない。
疑問とかそんなものより先に、脳が指令を下した。
ニッコリ。
瞬時に最高の笑顔を叩き出した雅を見て、審査員は満足そうに頷く。
「素晴らしい笑顔ですね」
「有難うございます」
最近バイトに顔を出す機会も減っていたため、久し振りの誉め言葉に思わず頬が緩んだ。
しかし、気付く。
「…ん?」
お題は三編みではないのか。
何故に、笑顔?
困惑する雅に、審査員からお題の紙が返された。
目に入った文字に、絶句する。
『笑顔が素敵な子』
女の子の実行委員が書いたのだろう。
可愛らしい癖字で書かれた文字に視線が釘付けになる雅の横から、笑う気配が伝わった。
「ナイス笑顔やったで」
心臓が、また暴れ始める。
強く握りすぎて、手の中の紙がくしゃりと音を立てた。
(…誉め言葉として、とっておく)