◇
目の前の人物に、雅はゆっくり瞬いた。
「え、こんな時間にこんな所までどうしたんですか精市様」
今までは雅から幸村のことを訪ねるのが常で、彼から来たことは一度もない。
それがどうしたことか、数時間ほど前まで一緒にいたはずの彼が現れたのだから余程の用があるのかと慌てて駆け寄った。
「フフ…いや、特に用事があるわけではないよ。ただ、会いたくなってね」
何だ今日はウサギさんですかかわいい。
通常運転な思考で思わず胸元を抑えるが、ふと首を傾げる。
ー違和感。
特に、何がというわけでもない。
いつも通りの口調でいつも通りの笑みを浮かべる姿を映しながら、軽く笑い飛ばした。
「えっと、なんか雰囲気変わりました?」
「…へぇ。何が違うのか当ててみて欲しいな」
「あれ、やっぱり何か変えてるんですか?えー、服…も髪型もいつもと一緒ですもんね。なんだろ」
キラキラ笑う雅に、眩しそうに瞳を細めた幸村がそっと手を伸ばす。
その指先が頬に触れた、その瞬間。
「ー…ぇ?」
“違う“
雅の感覚がその存在を全否定した。
反射的にその袖口を掴んで、真っ直ぐに視線で射貫く。
「すいません、ーどちら様…ですか?」
「雅?何を、」
「どうして私を知っているのかはわからないですけど…、精市様ではないですよね?」
根拠はないが、強いて言うなら今まで彼と過ごした時間の長さだろうか。
触れられた時の感覚、触り方、温度、表情、匂い。
対峙しただけでは漂っていただけだった違和感が、確かな形となって雅に訴えかけていた。
既に明らかに確信している彼女に対し、少しだけ目を見張っていた人物は、次の瞬間には愉快そうに唇を歪める。
姿形は全く同じなのに、笑い方ひとつでこんなにも違う。
彼にはあり得ない表情の作り方に一歩後ずさるが、目の前の彼にとってはそれすらも楽しみのひとつなのか。
今度は掴んでいる方とは違う方の手で、スルリと頬を撫でられた。
「結構自信あったのになぁ。いい目をしているね」
「っ、」
コトリと首を傾げて覗きこまれれば、彼とは違う色彩がチラつく。
この時点では、まだ疑問や興味の方が勝っていた。
仕草や表情、喋り方までこれだけ成りきれるということは、元々幸村に近しい存在か、そうでなくても知り合いには違いない。
さすれば彼も、神の一人なのか。
なぜ幸村の姿を借りて、自分に接触してきたのかも気にかかる。
まだ言葉を発する余裕はないものの、視線を外そうとはしない姿に何を思ったのか。
「ーなるほど、これは幸村が骨抜きになるのも分かるのう」
クツリ、とニヒルな笑みが深まったのを確認すると同時に、首筋に唇が寄せられた。
「えー…っい、た…!」
チクリと走る痛みに、ここにきて一気に恐怖心が募る。
本物の幸村相手であれば秒で挙動不審になるシチュエーションだが、想い人以外では単に急所を侵害されているだけの行為だ。
思わず強く押し返そうとするが、袖口を掴んでいたはずの手がいつの間にか逆に捉えられていてどうすることもできない。
相手の意図も次の行動も読めず、恐怖に染めあがる脳内で必死にその存在に縋った。
ー精市様…ー!
ー瞬間、一気に視界が白すぎる白色に浸食されて、その眩しさに瞼を強く閉じる。
胸元が熱を持っているのは、以前彼に渡されていたペンダントが関係しているのだろうか。
パニック状態でもどこか冷静に分析している自分もいて、しかし不意に耳元を掠めた声と慣れすぎた香りには、驚きを隠せなかった。
ふわりと寄り添うひんやりとした温度は、紛れもなく自分の知っているそれだ。
「ー…雅、無事かい?」
いつの間にか手首の圧迫感は消え、心配そうに眉をひそめる幸村と視線が混じった。
「…せ、いいち様…?どうやって、」
「!」
恐怖がいつの間にか極限まで達していたのか。
高まっていた涙腺が安堵と驚きにより一気に緩み、意思に関係なく左目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。
それを見た幸村の表情が瞬時に険しくなり、ついでにめざとく首筋にも視線が流れた。
「ー随分、好き勝手してくれたようだね」
触れていた雅の両肩からそっと手を離すと、距離感はそのままに身体を反転して彼女の姿を隠す。
雅から顔は見えなくなったが、温度の籠もらない声に肌が粟立った。
聞き慣れた、春の日差しのような音とは似ても似つかない。
庇われた今視界を占めるのは彼の背中だけだが、恐らくその先には先ほどの人物がいるのだろう。
「俺の姿を象るのは別に構わないよ。ただ…」
一拍置いて、更にトーンが落ちた。
「彼女を傷つけるのは、ー…いくら君でも万死に値する」
ついで周りを取り囲む空気があからさまに変化していく。
何となく己付近は守られている感はあるが、それでも肌を突き抜けるような、真冬の氷水に浸っていくようなじわじわ迫る圧迫感。
これを直で向けられているであろう人物の精神力はきっと鋼に違いない。
「この代償は高くつくけど、分かっているよねー…仁王?」
「っ…ぐ、」
仁王と呼ばれた人物の呻き声が耳に届いた時点で、我に返った。
彼の今までに見たことのない豹変ぶりは、どう考えても自分のためだ。
このままにしてはいけないと、全身から警報が鳴り響く。
「っ精市様!」
「っ、雅…?」
変な収縮が入る声帯をむち打ち、声を絞り出した。
そのまま目の前の温度にめいいっぱいの力でしがみ付く。
「私は大丈夫なので…っあの、よくよく考えてみたら絵面的にはオイシイ体験だったというか…!」
精市様本人でなかったのは非常に遺憾ですが。
心の声は据え置いて、とりあえず今の状況を鎮めることに全神経を注いだ。
「なにより、精市様には精市様でいて欲しいので…」
名前を呼んだことからも知人であることは間違いない。
植物にありったけの愛情を注ぐような優しい彼に、自分のために人を傷つけてほしくはなかった。
伝えたい言葉が溢れすぎて、逆に形にできない。
あまりのもどかしさに彼の腹部に回す指先を強く握りこむと、それを宥めるように温度が手を覆った。
「…うん。君がそう言うなら俺の出る幕ではないね。分かったから、そんな顔をしないで」
そろりと見上げれば、少しだけ振り返った幸村がどこか困ったように微笑んでいる。
いつもの柔らかい声と共に、瞳の縁に残った涙を冷たい指先が攫っていった。
慣れ親しんだ雰囲気に安心して回していた腕も外そうとするが、何故かしっかり手を覆われたままであったためにそれは叶わなかった。
「うん?」
「ーということだから雅の温情に免じて今回は見逃すよ。俺はまだ許していないから、深く反省するように」
あれ。あれ?
びくともしない己の腕を何とか引き戻そうと葛藤する雅を傍に、幸村は再び意識を例の人物しに向ける。
さすがに雅もそれには興味はあったため、早々に諦めてその体勢のまま少しだけ身体をずらしてのぞき込んだ。
「…怖い怖い。そう怒りなさんな、すまんかった」
さっきの殺気は本気だったな。
クックッと喉で笑いながらのそり立ち上がるその姿を認識して、無意識的に感嘆のため息を吐く。
月光に光る銀色の髪をたずさえる男には、幸村に匹敵するであろう美しさがあった。
口元のホクロが更に色気を助長している気すらする。
なるほどこの容姿なら、幸村の姿よりも余程先ほどのニヒルな笑みが似合うことだろう。
「君が何を面白がっているのかは分からないけど、今後雅にちょっかいをかけた場合は問答無用で対処するからそのつもりでね」
「プリッ」
「仁王」
「分かったぜよ。…お前さんも、怖い思いをさせてすまんかったな。助けてくれて感謝する」
なんだか独特ななやりとりだと聞き流していたが、自分宛の謝罪とお礼が向けられていることに気がついて更に頑張って顔を覗かせた。
その動きがツボに入ったのか。
片手で口元を覆った仁王が、思い出したように付け足す。
「のう雅。おまん、見破るまでの早さは見事だったが…その後は隙がありすぎじゃき。今後は、違和感を覚えたなら相手を知ろうとするより先に逃げることを優先しんしゃい」
「あ、はい。ありがとうございます…?」
「雅、君がお礼を言う必要はないよ。けど、仁王のおかげで今後の対策はたてられそうだ。忠告は感謝する」
「ああ。じゃあな」
片手を上げて背を向けるなり、仁王はユラリと陽炎のように姿を消した。
2023/09/30