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窓の雨粒模様に目をやりながら、廊下を歩く。
どんどん近づいてくる期間。
身体の気怠さも相変わらずだ。
ふと行く先によく知った姿を見つけて、慌てて意識を他に逸らす。
「おーい不二ー、教室とかまだ曖昧だよねー?この学校広いから迷子になるって絶対!移動なら一緒に行くことをオススメするよん。俺も今から行くからさ」
「…ありがとう英二、お願いしようかな」
彼もこちらに気づいたらしい。
一瞬だけ視線を交えると、声をかけてきた同級生に向き直った。
そのまま何事もなかったかのようにすれ違う。
見慣れた髪色がそっけなく通過するのを、後ろ髪をひかれる思いで耐えた。
…うーん、分かっていても結構寂しいなあ。
全く弟離れできていない自分に対し、思わず苦笑がこぼれる。
この学校の女生徒が色めき立ったのはほんの一週間前だ。
実際に見たわけではないが、教室に代わる代わる女生徒が押し掛けていたとの親友情報が入っている。
白石が天音にさらわれた今、女の子たちが新たなアイドル擬きを求めるのも無理はない。
時期はずれだとかそういう関心よりも、“完璧人間”に匹敵する転校生が来たと噂は持ちきりだった。
彼の容姿と柔らかい物腰をもってすれば当然の結果だろうが、何とも複雑な気分だ。
『−え、一緒の学校に通う?』
学校から帰って唐突に言われた台詞に、雅は買ってきたスーパーの袋を落としかけた。
それを鮮やかに回避した周助は、流れでさらった買い物袋を片手にクスリと笑む。
『うん、同じ学校にいた方が色々情報が把握できるし、対処もしやすいからね』
『学年は…』
『もちろん、三年で行くよ。本当ならできるだけ近くにいたいからクラスも同じ方がよかったんだけど』
『クラスは分けるんだね』
『大体の目星はついているとはいえ、まだ刺客については予測の域にすぎない。相手の情報収集能力も侮れないし、下手に彼らと接触したり姉さんとの関係を知られるのもマズいから』
学校ではできる限り接触を避けようと思うんだ。
「…、」
じっと見つめてくる青い双眼に、頷くしかなかった。
今は自分の命に関わる事態かもしれないのだ。
弟まで巻き込んでおいて、寂しいなどと言っている場合ではない。
他人のふりについては全く問題にならなかった。
腹違いということで、幸いにも名字は違うし容姿も全く似ていない。
接触さえ避ければ、逆にふたりの関係を勘ぐることの方が難しいだろう。
まあ、せっかく手に入れた“平和”をまた脅かすことにならなくてよかったと言うべきか。
女の子受けのいい周助と仲良しこよしでいれば、再び女生徒の痛い視線を受けることになってしまう。
嫌がらせまではいかないにしても、恋愛絡みの女の子は怖いのだ。
敵には回したくない。
以前まで嫉妬の渦の中に放り込まれていた身としては、もう勘弁願いたい。
−…今となっては、もう“彼”絡みでそんな悩みをもつこともないだろうけど。
周りから嫉妬や不満の目を向けられることなく、寧ろ祝福するかのような視線の集まる二人の姿が脳内に過ぎる。
白石の隣にいるのは、もう自分ではない。
今までが恵まれすぎていたのだ。
因縁だ何だと騒いでいた頃が、自分の気持ちを自覚してしまった今では酷く懐かしくて、滑稽で、幸せだった。
「…、はあ」
自嘲に近い表情が水滴のつく窓ガラスに映り、軽くかぶりを振る。
だから、白石のことを考えている場合でもないんだってば。
先のことを考えれば大いに関係あるのだが、とにかく彼に対して芽生えた感情は今のところ封印しておくしかない。
只でさえ危険に巻きこんでいる可能性があるのだ。
危惧する通り天音が“彼ら”の刺客ならば、自分の行動によっては彼も無事ではすまないかもしれない。
そこまで考えると、本格的に寒気に襲われた。
血の気がひく感覚と、酷くなる頭痛。
あ、これはちょっとやばいかも。
心配だからついていくと過保護さを発揮していた親友の申し出を断ったことを、今更に後悔する。
ぼーっとする頭を支えようと、左手でこめかみを押さえながらできるだけスピードを落として足を進めた。
不意に、人影が隣で止まる。
「…は!?ちょ、めっちゃ顔色悪いんやけど自分大丈夫か!?どっか具合悪いんか!?」
「!、…」
同じ喋り方に一瞬反応してしまうが、声からテンションまで似ても似つかない。
…でもいい人オーラにじみ出てる。
通りすがりで本気で心配してくれる男子生徒に、素で笑ってしまった。
「ごめ…、大丈夫だから…」
「いやいや全然大丈夫に見えやんわ!俺保健委員やから何なら保健室連れてくで!?」
このまま意地を張って騒がれても注目を浴びてしまうだろう。
何より、こういう人のために必死になれる人間は人として好きだ。
表情を緩めて、お言葉に甘えようと顔をあげた瞬間だった。
「あー…じゃあ、!?っ…」
男子生徒の肩越しに、ふと視界にちらついた色に、思考回路がぴったり止まってしまう。
まさに数十秒前に思い描いていた二人の姿が垣間見え、
−あろうことか、白石と目があった、気がした。
心なしかびっくりしたようなその顔から視線が外せなくて。
これ以上関わらない方が彼のためだ。
出逢った視線だって外さなくてはいけないのに、頭では分かっているのに。
目が合うだけで嬉しい、だなんて。
呼吸も忘れて、目元が熱くなって、そこから視界が暗くなった。
「…−、」
「っちょ!?しっか…聞こえ…−、誰か…!−」
遠くでざわめきが聞こえる。
雅の意識はそこで途切れた。
(ああ、思っていた以上に…気持ちは育ってしまっていた)