◇
カチャリ。
目の前に置かれたカップの紅茶が揺れ、静かな波紋を作り出す。
ありがとうと受け取る雅に、周助は穏やかに頷いた。
「いきなり押し掛けてごめん。連絡くらい入れたかったんだけど」
「ううん、会えて本当に嬉しい。それよりそっちの方はいいの?」
「暫く休暇をとることにしたんだ」
「休暇…」
長く顔を見れていなかった腹違いの弟。
再会は喜ばしいが、少し引っ掛かる。
こんなに簡単に休暇がとれるなら、彼ならばもっと早く会いにきてくれていただろう。
顔を綻ばせながらも、カップの取っ手にかかる人差し指がさ迷うようにその白い陶器をなぞった。
意図もなく指に動作を加えるのは考え事をしている時の雅の癖だ。
それを見逃さず見て取った周助は、困ったように髪を揺らした。
「…あまり不安にはさせたくないんだけど、実はちょっと不穏な動きがみられててね」
「教えて」
見つめ返してくる真剣な瞳に、話すかどうか迷っていた彼も心を決めたらしい。
慎重に言葉を選びながら口を開く。
「−今“儀式”が近いのは姉さんを含めて44人。どうやったのかは知らないけど“彼ら”に身元も居場所も全て把握されているらしい。前代未聞だよ。それで今回、姉さんを含めた儀式対象者に向けて“彼ら”が動き出したらしいんだ」
「動き出した…?」
「そう、それぞれの対象者に向けて刺客が送り込まれたと言ってもいいかな。実際、既に二人被害に遭っているんだよ」
「!」
まあ、幸い軽傷ですんだみたいなんだけどね。
滅多に見ない難しい表情で語られるその内容に、嫌な汗が背中を伝った。
“彼ら”が自分達に送ったという刺客。
その目的はきっと一つしかないだろう。
微かに震わせた睫毛を一度伏せ、動揺の色に蓋をする。
軽傷ですんだというのは本当にラッキーな話だ。
彼の話が本当ならば自分は近いうちに危険に晒されることになる。
脳内に浮かび上がるビジョンを慌てて消し去ると同時に、新たな映像が頭を占めた。
−っ今はそれどころじゃないってば…!
自分が強敵と認めた、お決まりの完璧笑顔。
チラつく白を反射的に打ち消そうとし−。
ひたり。
「−はい、そこまで」
不意に額に感じた冷たい人肌温度に首を傾げる。
現実に戻ると、クスッと柔らかな振動が鼓膜を揺らした。
「それ以上悩むと頭ぶつけるよ、姉さん」
「え?…あ、」
勢い余って机に激突しようとしたらしい。
目前に迫った紅茶に映る自分の顔に軽く青ざめて、横からナチュラルに止めてくれた弟に心から感謝した。
「ありがとう。…折角淹れてくれた紅茶台無しにするところだったね、うん」
「考え込むと一直線なのは相変わらずかな」
微笑ましげに向けられる視線に顔に熱が集まるのを感じながら、それを誤魔化すように、額に当てられた彼の手を外す。
やんわりと掴んだ手から懐かしい温度が伝わった。
それに同調するように、心地よい音が空気を伝う。
「大丈夫だよ。僕は姉さんを守るためにここにいるんだから」
いつの間にか逆に掴まれた手。
上に被さる綺麗ながらも少し角張った指に、時の流れを感じた。
−前に会った時は綺麗なだけの手だったのに。
「周助…、大きくなったね」
少し寂しげにしかし嬉しそうに瞳を細めた雅に一瞬だけ呆けたのち、柔らかな笑みを浮かべる。
「うん。いつまでも同じでいるわけにはいかないしね」
「そりゃそうか」
「姉さんは、」
「ん?」
「…いや、何でもないよ」
「変な周助」
一度言いかけたことに対して口を噤むだなんて彼らしくもない反応にキョトンと睫毛を上下させるが、そんなことよりも先に今の問題に向き合わなければならない。
一息置いて雅の瞳に強い決心がちらついたのを感じ取ると、周助も音なく顎を引いて隣に腰を落ち着けた。
使い古した木製の椅子がギシリと鳴く。
「−本題に戻るけど、最近姉さんの周りで変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
「…見たところ体調を崩してるね。姉さんも十分承知だと思うけど、“儀式”を控えたらみんな身体に異変を生じる。それは力を蓄えるために一時的に酷く体力を消耗するからだ。だけど−」
「うん、私の場合は“時期が早すぎる”」
「そうだね」
現実味を帯びてきた内容に、無意識に顔をしかめた。
“儀式”は八月。
18歳を迎える生誕日に、それは行われる。
その前に体調を崩す理由は先程周助が言った通りだが、その期間は一ヶ月前からと聞かされていた。
現在は5月で、つまりは二ヶ月も早まっていることになる。
雅が知る範囲でそのような前例はなく、彼の疑う通り何か異変が起きているとしか考えられない。
「−これはある人の体験談なんだけど、僕たちは“彼ら”の存在自体に酷く敏感らしくてね」
「…つまり、それが体調変化に関わっている可能性があるってこと?」
「あくまで可能性だけど、大きな問題だよ。それが本当なら、既に姉さんの近くに刺客が潜んでいる確率が高い」
「っ、…なるほどね」
何か心当たりはあるかな?
身の危機をリアルに感じ、必死に最近の出来事を映像として流し始めた脳内。
不意にツキリと痛んだ頭に、不思議な香と甘い声、亜麻色の髪がよぎった。
「…天音、優華…?」
ぽつりと音にしてから、慌てて頭を振る。
いやいやまさか。
あんな可愛らしい女の子にそんなイメージが持てずに思考から振り払おうとするが、穏やかな制止がかかった。
「−誰か、心当たりがいるみたいだね」
見つめてくる青い瞳に、微かに睫毛を伏せる。
「…多分関係ないとは思うけど。最近、入学式があって…新入生の子と少し接触が」
「新入生?」
「こう…ふわふわしてて綿菓子みたいな声で超っ絶かわいい女の子なんだけど」
「そうなんだ」
手振り身振りでわたわたと表現する姿が小動物のようで思わず口元が緩むが、ふと何か考えるような素振りをしたのち、周助は真剣な眼差しを戻した。
「体調の変化は、その子との接触からかな?」
「え!?いや、それははっきりしないんだけど…、自覚したのは最近」
「…姉さん、今更だけど“パートナー”はもう決まってる?」
「っそ、れは…」
瞬間的に再び浮かび上がったクラスメートの姿に、今度こそ動揺が露わになる。
思い切り引いた指先に引っかかり、カップがガチャンと派手な金属音をたてた。
飛沫をあげたものの何とか安定を取り戻した陶器にホッとしたのも束の間。
一気に顔を染め上げた朱は誤魔化しようもなく、はたりと目が合った周助に苦笑される。
「…候補はいるみたいだね」
反射的に視線を外すが、恐らく彼には通用しないだろう。
「こ、候補というかえっと…」
「十分だよ、姉さんのそんな反応が見られただけで。少し心配だったけど見つかっているみたいでよかった」
「そんなに心配だったの?」
「うん、あまり異性に興味を持っているイメージがなかったから」
サラリと微笑んでみせた弟に、苦い笑みで返す。
確かに一理あるが、雅から見ればそういう彼こそ恋云々とはかけ離れた雰囲気があった。
どこぞの誰かさんと同様に女の子には不自由しない性質であろうことは確実なのだが彼女ができたなんて話は一度も耳にしたことはないし、本人にもその気はないように思えた。
お互い様でしょうに。
空笑いの意図を汲んだらしい周助は一度、綺麗にキレイに表情を整えたのち、またゆっくりと深刻さを取り戻す。
「−これも一つの可能性として聞いてほしいんだけど、…その彼女、姉さんのパートナー候補に近付いていないかい?」
「!なんで…っ」
フラッシュバックする光景。
周りが羨むような、理想的な絵になる二人。
暴れる心臓を抑えつけて、酸素を懸命に吸った。
そんな雅の反応に予測が的中したことを確信し、思慮深く顎に指先を添えた周助が少し影を落としながら唇を動かす。
「僕たちの“儀式”にパートナーは必須だよね。それを“彼ら”が知っていると仮定したとするよ。…儀式を邪魔するために一番効率的な方法として、何を考えると思う?」
重々しい言葉が、働きの鈍い脳に叩き込まれた。
心臓が冷えていくような錯覚に見舞われながら、辿り着いた結論を呟く。
「…パートナー候補を、マークする…」
満ちる沈黙に肯定を感じ取り、意識が遠のく気がした。
響く秒針が鼓膜を悪戯に刺激する。
もしこれ以上深く関われば、彼までも危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
天敵だと打倒を目指した憎らしい笑顔。
心の支えになった、不意に零れる優しげな笑顔。
いつかの年相応の男の子っぽい純粋な笑顔。
いくつもの笑顔が暗闇を照らしては消えていく。
「…、」
微かに震える細い肩の傍らで青年の瞳が鋭く開き、カップの中の鏡に視線を移した。
冷めかけた紅茶に映る自分を睨むようにしてから視界を閉じ、テーブル上の拳を固く握る。
「彼らは手段を選ばない。
−僕たち“ヴァンパイア”の血を絶やすためにはね」
姉さんに手出しはさせない。
重ねられた温度を指先で握り返した。
(−もしただの人間に生まれていたら、なんて、考えたって仕方ないのに)