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10:




 ひやりと、冷たい空気が顔の肌を撫で上げた。



「…ん」



 ゆっくり瞼をあげれば、いつも通り、部屋の天井が見える。
 重い頭を無理矢理起そうと身体を捻ると、見覚えのないものが目に入った。



「?」



 枕の横、ベッドシーツの白の中でとてつもなく浮いている存在を摘み上げる。

 色々な布地をツギハギで縫い合わせた、ウサギのぬいぐるみマスコット。
 赤と青の瞳はツルツルボタンで、間抜け面の自分が映った。
 手の平サイズのそれは手作り感に溢れた、雅の好みにゴッソリ填る代物といえた。

 しかし、身に覚えがない。
 何故、こんな物が自分の枕元にあるのか。

 大体、昨日は普通にベッドに…―。

 そこまで考えて、ピタリと止まる。

―ベッドに、入った記憶が、ない。

 さあっと青ざめながら、更に記憶を辿った。

 …そうだ、昨日は白石と過ごしたんだった。

 彼にあっけなく弱みを見せてしまった事を思い出し、意思に反して顔に熱が集まる。
 結局あれから雅が買って白石が運んだ、大量の材料達で、夕食を作ったのだ。
 白石が涼しげな表情で当たり前のように披露してくれた包丁捌きに、軽く殺気を覚えたのは記憶に新しい。

 弱点はないのか己は。

 女としての自信を失いかけながらも何とか張り合って、作った料理を平らげて。
 その後は暇になったから、確か部屋を移動してトランプ大会を開いた。
 腹立たしいことに、何をやっても結局一回も勝てなかった。

 つらつらと記憶を列び立てながら、雅は徐々に眉を寄せていく。

 流石に泊まりは相手もマズイと思ったようで途中で帰る素振りを見せたのだが、無意識に引き留めてしまったらしい。



『…そんな顔しとる女の子をほってくわけにはいかんなあ』



 困ったように眉を下げて、頭に触れた優しい手。



「…絶対子供扱いしてるよアレは」



 甦る笑顔に、ムスッとした声が漏れ、反射的に手で口を押さえた。

 何も困ることなど、ないのに。

 苦笑を一つ溢して、思考を戻す。
 問題は、いつ意識を失ったのかだ。
 ベッドに入った記憶がない。
 
 しかし現に今、自分はベッドに入っている。



「…はあ」



 総合しても、考えられる可能性は一つだった。
 このマスコットにも繋がる答え。
 それを頭に浮かべるなり、大きく息を吐いた。



「…重かっただろうに」



 自分で言って、ますますショックを受ける。
 そう、考えられる答えは一つ。

―誰かが、雅をベッドまで運んだ。

 誰かといっても、この状況下では特定されたも同然だ。
 
 そこら辺にほっておいてくれればいいものをどこまで紳士なんだコンチキショウ…!

 完全に誉め言葉で悪態をついた瞬間。
 それは、聞こえた。



「ちっとも重なかったで?」



 あと、こんな時期にそこら辺にほっといたら完全に風邪ひきコースや。

 不意に返ってきた涼しげな声に、雅はハタリと止まる。
 幻聴ととるには、それはあまりにハッキリしすぎていた。
 ギギギと音が鳴りそうなぎこちなさで首を回すと、声は、リビングへと繋がるドアから聞こえている。

 扉自体は閉まっている為姿は確認できないものの、恐らくその端正な顔にはお得意の笑顔が浮かんでいることだろう。



「起きたんやなあ、おはようさん。入ってもええかな?」



 その言葉に慌てて身なりを確認するが、流石に服は昨日のままだ。
 私服だしまあ良いかと一人頷くと、軽く髪を撫で付ける。



「…、どうぞ」

「ん、お邪魔するわ」



 柔かい声と共にガチャリと取っ手が動き、白石が顔を出した。

 しかし、その瞬間に感じる違和感。
 明らかに、嗅覚を刺激する存在があった。
 不意に鼻を擽る匂いに、お腹が反応しそうになるのを必死に堪える。



「…もしかして朝食作ってくれた?」



 雅の問いに、白石はニコリと綺麗に笑って部屋に足を踏み入れた。

 その手には、二つ分のお盆が乗っている。
 慌ててミニテーブルを出す雅に礼を言うと、ゆったり彼女の前にしゃがみこみ、コトリとお盆を置いた。



「台所使わせてもらったで。口に合うかは分からんけど」



 苦笑混じりに言われた台詞には頭を下げるしかできない。

 昨日、台所と冷蔵庫の使用許可をとってきたのはこれのためか。

 納得といった顔で頷くと、有難く朝食を頂くことにする。
 いただきますと手を合わせて、白石の笑顔を確認してから一口。
 モグモグ咀嚼しながら数十秒。

 ごっくん。



「…」

「…飴凪さん?」



 嚥下が終わってからも無言の雅に、白石は心配し始める。
 やはり口に合わなかったのだろうかと思わず彼女の箸を持つ手を止めた。



「口に合わんかったなら無理することないで?」



 自分の手に重ねられた白い包帯に包まれた手をボンヤリ見ながら、雅はポツリと呟く。



「―、美味しい」

「じゃあ何でそんなムスッとしてんのや」



 かわええ顔が台無しやんか。
 眉を下げて微笑む白石を見て、ますます雅の口がへの字に結ばれた。



「…何でこんなに美味しいの?」

「……………ん?」



 てっきり文句を言われると思っていた白石は、まさかの誉め言葉に軽く首を傾げる。
 そんな彼には構わず眉をしかめた雅からはつらつらと言葉が流れ出た。



「同じ材料使ってるのにここまで差が出るなんておかしくない?」

「…」

「昨日も思ったけど包丁捌きも上手すぎだよ」

「…」

「あの出来が違う料理並べるのだって苦痛だったんだから」

「…」

「大体、何でそんな手慣れて…何笑ってるの」

「ッ〜」



 白石の無言に不審を抱いた雅が落としていた視線を上げれば、肩を震わせて必死に笑いを堪える彼の姿。
 更にトーンの下がった声に流石にマズイと思ったのか、生理的に浮かんだ涙を拭いながら雅に向き直る。



「堪忍、飴凪さんが可愛かったんや。ホンマ素直でええなあ」

「ッ〜ば…!」



 カアアア。

 そんな効果音がつきそうな勢いで顔を染めるが、目の前に並んでいる朝食達の危機を察し暴れるのは抑えた。
 その様子を微笑ましげに眺め、頬杖をつく。



「手慣れてんのは、ただきっかけが多いからや。それに、俺は飴凪さんの料理好きやで」



 十分、美味かったわ。

 キラキラ輝く笑顔に、敵わないと視線を反らした。



「…それは、どうも」



 気恥ずかしさからいたたまれなくなって箸を再開させた雅だったが、不意に何かを思い出すとテーブルを揺らさないようにして立ち上がる。
 白石の見守る中でベッドに足を向け、何かを掴んで戻った。

 その手の中の物を見て納得したように笑う白石に、ズイとそれを付き出す。



「聞くまでもないと思うけど、これは白石の?」



 真面目な顔で白石の目の前に突きつけられたのは、ウサギのマスコットキーホルダーだった。
 その片耳を軽く指で畳みながら、白石は口元を弛める。



「ええ子の飴凪さんに、サンタからのプレゼントやな」

「…それは完全に子供扱いだよね」

「いやいや、俺は飴凪さんのことは女の子としてしか見たことないで?」



 あまりにサラリと言われた言葉に、思わず固まった。

 何だかどさくさに紛れて凄い事を言われたような。

 それはどういう意味でとるべきなのかと白石の方を窺うが、返ってくるのはやはりいつもの完璧な笑顔だけだ。
 言葉の真意を掴みかねている雅に追い討ちをかけるように、白石はウサギの耳から指を離して優しげに目を細める。



「まあ手作りで悪いんやけど、大事にしたってな?」

「てづ、くり…?」



 口をポカリと開ける雅の手の中、耳を離された衝撃で、ウサギが微かに揺れた。






(…私、もう女として生きていく自信がありません)






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