◇
とある飲食店の一角。
雅は、目の前のメニュー表に両眼を細めた。
薄っぺらい台紙には、色彩豊かな料理がずらりと並んでいる。
いつも通りのそれならば、「雅ってば相変わらず優柔不断なんだからー」と微笑ましげな反応にさらされているのだろう。
ただし生憎、今現在、日常とは言い難い状況に置かれていた。
ちらりと視線を挙げると、赤が意識を占領する。
この“非常事態”にも冷静さを欠いていない後輩が、同じくメニュー表に落としていた双眼を雅に向けた。
「…飴凪さん、とりあえず何か頼んでみましょうか」
「そうだね、このまま固まっていてもしょうがないし。でも…ほんとに何なんだろうね此処は」
「分かりません。ただ、オレと先輩というこの組み合わせに全く意味がないとも思えませんが」
「うん。赤司君に久しぶりに会えたのは素直に嬉しいんだけどね。できれば普通に再会したかったな」
「同感ですね」
少し困ったように口元を緩める赤司は、中学時代の後輩だ。
色んな面で優秀だった彼は校内でも有名だった上、図書室にもよく通っていた為、図書委員だった雅とは顔見知りだった。
仲良くしていたクラスメートの後輩ということもあり、比較的顔を合わせる機会が多かったのも、親密になれた理由のひとつだろう。
ただ、そのクラスメートが家庭の事情とやらでバスケ部主将を彼に継いでからは、めっきり話す機会もなくなり、そのまま卒業してしまったが。
たまに廊下などで見かけることはあったものの、どこか別人のように感じて声が掛けづらかったというのも事実だ。
しかし、数分前に奇妙な形で再会した彼は、雅が知っていた頃の赤司征十郎で間違いなかった。
その事にはホッとしたものの、現状はやはり普通ではない。
解れた表情を再度引き締めて、未知の飲食店の椅子上で座り直した。
「…ごめんね、実はまだちょっと頭の整理がつかなくて。注文する前に、もう一度だけ状況確認してもいい?」
「この状況では、それが普通です。そうですね、事を進める前に一度整理しましょう」
こくりと同意を示してくれた赤司を前に、愛用の手帳を取り出す。
手ぶらも同然だったが、制服のポケットに入れておいた携帯と手帳がそのままだったのは幸いだった。
ちなみに、携帯が圏外であることは互いに確認済みだ。
お気に入りのボールペンをカチリと鳴らし、開いたメモ部分に滑らせる。
「まず、経緯からだね。私も赤司君も、目が覚めたら此処にいた。起こしてくれたけど、そんなに時間差はなかったよね」
「はい。気がついたらテーブルに突っ伏していて、対面に同じ状態の飴凪さんが見えたので。状況の把握も必要でしたが、この状態ですからね」
とりあえず、情報共有を優先させました。
淡々と語る彼の示す方向には、暖簾が掛かっている。
飲食店でよくある、目隠し用だろう。
二人が座っているのは四人掛けの席で、前後と片側は壁で仕切られており、個室に近い。
赤司の言う状況把握とは、此処から出て店内の様子を窺うことを指していたのだろうが、それを阻止する環境もあった。
暖簾に堂々と描かれた、“覗くべからず”の文字。
紺の布地に白で筆が入っているため、見えなかったなどとは口が裂けても言えない。
内容に関しては、一目で日本昔話か!と突っ込みたくなったが、そこまで空気が読めない人間でもない。
そして、異様なこの空間で、それを破れるほど無謀でもなかった。
「…うん、とりあえず今は従っておいた方がいいよね。暖簾はともかく、今のところ他は普通の飲食店っぽいし」
「はい。あとは、此処に来た原因ですが…お互い、特に思い当たる節はありませんでしたね」
「そうなんだよね。私は教室で課題中、赤司君は部室で日誌を書いている最中。途中で気を失った記憶もない」
「そうですね。どちらかと言えば場面が切り替わった、という印象です。この時点で共通点を挙げるなら、放課後の学校であったことと、一人だったこと、書き物をしていたこと」
「あとは…同じ中学出身、かな?でもこの条件なら他の人でも十分当てはまる可能性はあると思うけど」
「確かに。でも、まだ此処に来たのがオレたちだけとは限りません。知り合いに会う可能性も視野に入れていきましょう」
「おお…」
ゆったり相槌をうちながら話を進める彼は、心強いの一言に尽きる。
目覚めた時に一人であれば、確実にパニックに陥っていただろう。
まさに赤司様さまである。
本当に年下かと疑いたくなる心境を抑えつつ、目の前の課題に視点を戻した。
書き出した箇条書きに最終確認で目を通してから、ボールペンを置く。
「ありがとう、大体大丈夫。…じゃあ店員さんを呼んでみましょうか」
「はい。初めは適当に飲み物を注文します。オレが対応するので、飴凪さんは何かおかしな点がないか、観察をお願いしても?」
「うん、了解」
互いに頷き合うと、雅が近くの呼び出しボタンに手を掛けた。
指先に力を込めると、ピンポーンと軽やかな音が響きわたる。
目覚めてから、己以外の存在は赤司しか目にしていなかった。
本当に、人間が来てくれるだろうか。
そんな非現実的な想像をしながら、そわそわ待つ雅の目に、正面の赤司越しにポスターが映る。
一般的な、ビールの宣伝だ。
こうしていると、ただ食事に来ただけのような感覚に陥る。
それだったら、どれだけよかったか。
そのままゆっくりと周りを見渡していると、不意に異質な空気の振動が混じり込んだ。
ぎ…ギギ…ガコン。
「…、」
「…、…」
「…赤司くん」
「はい、来たみたいですね」
「うん。でも…なんで機械音?」
「もしかしたら、想像していた以上の規模の事が起きているのかもしれません。もし嫌な予感がしたら、見なくて大丈夫です。万が一危険だと判断したら、分かるように合図しますから」
「それは、大丈夫…多分。見ないと観察できないし」
「そちらは余裕があればでいいので。くれぐれも無理はしないで下さい」
「うん、ありがとう」
赤司の心遣いに胸を打たれるが、今は緊張の方が度合いが上だ。
暴れる心臓を押さえつけ、掌の冷や汗をスカートで拭う。
初め同様、メニュー表を広げて一心に見つめた。
張りつめた緊張の糸に、音が乗る。
うぃん。
すぐ目の前で止まった気配と、暖簾の下から覗く足。
ハッと息を呑んだ瞬間に、布が翻った。
『ゴ注文ハオ決マリデショウカ』
「!」
油不足のロボットのような錆びたリズムを生み出す物体。
しかし、割に聞き取りやすいそれに、考えるより先に視線を上に辿った。
「う…っ、わ」
『ゴ注文ハオ決マリデショウカ』
同じ言葉を繰り返すそれは、一言で言えば鶴である。
ただし、頭だけだ。
首から下だけを見れば、人間の身体をメカニックにしたような風貌。
つまりは、異様だった。
思わず固まる雅の手から、音もなくメニュー表がさらわれる。
無意識に追った先で、赤い双眼とぶつかった。
−大丈夫です、落ち着いて。
アイコンタクトだけで雅の気持ちを宥めた赤司は、そのまま注文を口にする。
「…すいません、メロンソーダと烏龍茶をひとつずつ」
『カシコマリマシタ』
かっくんと頭を前方に傾けたのち、そのまま去ろうとした鶴ロボットを、落ち着いた声が引き留めた。
「あと、もうひとつ。今回初めて利用したんですが、この店の形式は?」
表情も崩さずにさらりと続けた彼に、瞠目する。
鉄の心臓である。
これは、相手側にも予想外だろう。
何かリアクションを起こしてくれるのだろうか。
心臓が飛び出さないようにと片手で口元を覆って見守っていると、不意打ちに見舞われた。
じっと固まっていた鶴の頭が、360°回転したのだ。
「ぎゃ!?」
「飴凪さん、落ち着いて下さい」
ぎゅんとでも聞こえてきそうなその勢いに反射的に仰け反るが、赤司の声に我に返る。
壁に張り付くようにしてコクコクと首を振ると、微笑が返ってきた。
安定の心臓である。
雅が深呼吸で心を落ち着けている間に、鶴が動き出した。
『ガガ…失礼シマシタ。当店ノ形式デスガ、タッチパネル、デノ御注文ニナリマス。以降ハ、タッチパネル、ニテ御注文クダサイ』
「タッチパネル…?」
そんなものがどこにあっただろうか。
首を傾げて見渡すが、残念ながら見当たらない。
そんな雅の行動に応えるように、鶴がぎこちなく頷いた。
『初メノ食事ヲシテイタダイタ時点デ、“開始”トナリマス。尚、此処デノ食事ハ全テ無料トナッテオリマスノデ、御安心クダサイ』
「…なるほど」
「?、?」
申し訳ないが、さっぱりである。
納得したように頷いて、鶴を下がらせた赤司を見つめるしかなかった。
「…ごめん、私理解できなかったんだけど」
やるせない気持ちでおずおずと切り出すと、赤司は柔らかく瞳を細める。
「インパクトが強かったので、そちらに意識を奪われたんでしょうね。今から言うのは、あくまでオレ個人の解釈ですが」
「お願いします」
「はい。まず、もう此処は飲食店としてはみない方がよさそうです」
「まあ普通じゃないのは今のでよく分かったけど。全部無料とかあり得ないし」
「そうですね。“食事をしたら開始”とも言っていましたから、どちらかというと、ゲームのような感覚の方が強いような気がします」
「確かに。そういえばタッチパネルどうって言ってたよね。未だに見つけられないんだけどな」
「それも、注文品がきたら変化があるかもしれません」
「ああ…食事で開始ってことは、料理に口をつけたら何かしら反応があるってことか」
「その可能性は高いですね」
空間と互いを交互に見据えながら、会話が進む。
雅の心臓が落ち着きを取り戻してきたあたりで、再び機械音が鼓膜を刺激した。
ぎ…ギギ。
暖簾が翻り、先ほどの店員がお盆を差し出す。
「オ待タセ致シマシタ。“逆さまジュース”ト“天の邪鬼ティ”デス」
「…さかさ?あまのじゃくって…」
「ありがとうございます」
「ゴユックリドウゾ」
商品名だけが流暢だったのもひとつだが、それを抜きにしても突っ込みどころは満載だ。
バコンと腰を折り畳んで丁寧なお辞儀を披露した鶴の姿が消えるなり、二人の視線は置き去りにされたグラス達に向けられる。
シュワシュワと炭酸が立ち上るクリアグリーンの液体と、涼しげに揺れる焦げ茶色の液体。
両方ともに見た目は一般的な飲料水だった。
「…見た感じは普通にメロンソーダと烏龍茶だよね」
「そうですね。味は飲んでみないと分かりませんが」
「未知すぎる。えっと、逆さまジュースと…天の邪鬼ティだっけ」
「はい。まずはオレが、」
特に表情を変えることもなく、赤司がお盆を引き寄せる。
しかし、それが彼の方に動くことはなかった。
がっしりと掴まれているお盆に、白い指先を辿る。
「飴凪さん?」
「うん、ストップ。赤司君ならそう言うと思った。とりあえずここは同時に飲もっか」
ニッと歯をちらつかせた雅に一瞬きょとんとするも、すぐに納得したように頷いた。
「…分かりました。確かに、食事に口をつける事が開始の条件なのであれば同時に飲んだ方が安全かもしれませんね」
「え。うんそうなんだけどそうじゃなくて。私まだそこまで口に出してないんだけど。何なのエスパーなの」
「飴凪さんの考えることなら大体分かります。−どちらを飲みますか」
「嬉しいような複雑なような…。じゃあソーダもらいます」
「ではオレは烏龍茶で。違和感を感じたら吐き出す心構えで飲んでください」
「はーい…」
秀麗で育ちもよい彼の前で飲み物を吐き出せる女子がいるのなら見てみたい。
そんな見当違いであろう思いをよぎらせながら、緑の液体を唇の内側に染み込ませる。
口内に滲み入った水を舌の先でつつくが、味も食感も至って普通のメロンソーダだった。
赤司の方も同じだったらしい。
こちらを真っ直ぐ見て頷いた姿を確認し、思い切ってゴクリと喉奥まで押し込む。
口を開こうとするが、変化の介入の方が早かった。
ウィーン。
唸るような音と共に、窓際側−テーブルの一部が開き、タッチパネルが出現する。
瞬間的に視線が交わった。
「“終わった”みたいですね」
「”ねよだとこてっ始開“」
「「…」」
何が起きているのか、理解するのに時間はかからなかった。
動きを止めた二人の間で、愉快そうな笑いを含んだ音声が響く。
『本日ハご利用誠にアリガトウございマス。−ゲーム、スタート』
ようこそいらっしゃい非日常へ。
(何はともあれ、赤司君は無事に返してあげないと!)
(とりあえず、怪我をさせないようにしなければ)
あなたもわたしも、ぱらっぱ。
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