◇
かちり、カチリ。
静まりかえった温度のない教室の中、不意に秒針の音がその存在を主張した。
こういうものは、一度意識に入れてしまうと中々離してはくれない。
「…う、集中力切れた…」
コツンと机に額をくっつけると、そのひんやりとした質感に視界を閉じた。
うわー癒される。
ずっと睨み合いを続けていた数式達を目の前に、ついついそのまま寝てしまいたくなる。
とりあえず頭はあげるが、脳が起きようとしない。
ぼんやりと曖昧な霧に包まれて、海底に沈んでいくような感覚。
朧気になっていた雅の意識が、扉の開閉音で引っ張り上げられた。
「−まだ残っていたのか」
「わ!?」
唐突に世界に割り込んだ刺激に、一気に覚醒する。
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がると、苦笑いの気配が空気に滲んだ。
「すまない、驚かせたかな」
「いえ!赤司先生…も、今日は遅いんですね」
「ああ、今日は鍵当番でね」
見回り中だよ。
ナチュラルに微笑を携える彼は、赤司征十郎だ。
目も覚めるような赤い髪に、端正な顔立ち。
このマンモス校で、あまり関わりのない雅でも知っている、校内でも有名な教師の一人だった。
教え方も上手いと評判である。
教室内に足を踏み入れた赤司は、そのまま窓の鍵のチェックを始めた。
もしかして教室のひとつひとつを全部確認しているのだろうか。
恐らく点検のマニュアルは決まっているのだろうが、やはり教師によって実施内容は異なるらしい。
比較的関わりの深い教師の見回りに付き合わされた時のことを思い出して、やはり彼はアバウト派だったか、と溜め息を抑える。
同じ教師でも性格でるなー。
とにかく、見回りが来た時点でもう此処には長居できないだろう。
立ったまま筆記用具を片づけていると、全て確認し終わったらしい赤司の意識が雅に向いた。
机を挟んで1対1の状況に、背筋が伸びる。
「−それで?もう下校時間は過ぎている筈だが」
不意に掘り返された事実に、心臓が跳ねた。
その話題に触れられる前にさっさとお暇しようと考えていたが、遅かった。
幸いにも、彼は存在感は凄いが優しい先生と評判だ。
本当のことを言って謝ってさっさと帰ってしまおう。
そう結論を出すなり、急いで返答を用意する。
「すいません。その、帰ってしまうと勉強できる気がしなくて…期日が近い課題があるので」
「そうか。集中するのはいいことだが、最近は何かと物騒だからね。あまり遅くなるのは感心しないな」
「はい。すぐに帰りま…あ、えっと…」
広げたままのノートに視線が落とされていることに気づいて、両手がさまよった。
目の前でノートに目を通されるのは、何というか緊張する。
相手が教師であるため変に止めることもできない。
妙な緊張感に固まって、十数秒。
「…なるほど、」
小さな頷きと共に、机上に向けられていた双眼が雅を映した。
「ノートもしっかりとってあるし熱心だ。もし分からないことがあればオレのところに聞きにおいで」
「え!?それは凄くありがたいですが…、これって確か先生の担当教科じゃないですよね…?」
「いや、担当教科以外でも構わない。努力している生徒に対しての協力は惜しまないよ」
あ。昔から全教科得意とかいう神タイプですね分かります。
紳士的な微笑みに、清々しい気持ちで首を縦に振った。
彼と一対一で直接話したのは、記憶が正しければ今現在を抜いてほんの二回程度。
担当学年も異なるためあまり関わりはなかったが、周りの友達が騒いでいたのも分かる気がする。
「よろしくお願いします、赤司先生」
控え目にはにかんだ雅を前に、赤司も緩やかに唇の端を引き上げた。
勤勉で、未完成で、素直。
何とも教師受けしそうな生徒だ。
こうして直接関わったのは“初めて”だが、普通に好印象だった。
そういえば、同僚達もいつからか勤務中の機嫌がいいことが増えたが、彼女のような生徒のお陰だったりするのだろうか。
どの職業も、人間関係や相性が仕事意欲やクオリティに関わってくる。
人により好みはまちまちだろうが、この手の生徒ならどのタイプにも一定の好感度は与えそうだ。
不快感を与えることはそうそうないだろう。
そこまで考えて、ふと思考が止まる。
−最近になって、また“交代”することが出てきたことは、何か人間関係に関連が…−?
まさかとその考えを振り払おうとするが、途中で急激に意識が遠のいた。
強烈な睡魔にも似た、この感覚は知っている。
最近のこれは、あってもごく短時間であった為にあまり気にしていなかったが、タイミング的にまさか彼女が理由なのだろうか。
曖昧になる現実感の境で、己の表情が意志に関わらず変化するのを感じた。
穏やかに歓喜を乗せた唇が、場を見計らいながら開く。
「…−そういえば、君とこうして話すのは久しぶりだ。君さえよければ、近くまで送ろう」
−いきなりの申し出に一瞬思考が遅れた雅だったが、ほぼ反射的に首を振った。
待って今の流れで何がどうしてそうなった。
気遣いは有り難いが、教師生徒の立場上それはマズい気がする。
具合が悪いならまだしも、見ての通り健康体だ。
「え!?いえいえ、まだそこまで暗くないですし、大丈夫ですよ」
「ボクの意志だ。遠慮することはない」
「…−?赤司先生?」
優しく微笑んでいるのに、有無を言わさぬ絶対的な雰囲気。
あれ、何だろうぐいぐいくるな。
ほんの1コンマ前から、彼の纏う空気が変わった気がする。
まるで別人のようなそれに違和感を感じるが、少しの思考後、それは違うと結論付いた。
今目の前に居るのは、自分が前々から知っている彼だ。
空き教室や中庭などで偶然出会い、ほんの少し話した時の記憶を辿る。
どちらかと言えば、今まで話していた方の彼に違和感を感じるべきだった。
自分が接した上では共に穏やかで喋り方も似ているが、言葉には言い表せない何かが異なる。
軽い困惑の中、リアクションに困って固まっていると、赤司が自身の目元から額にかけてを手で覆った。
眩暈でも起こしたようなその仕草に、思わず手を伸ばす。
「先生?」
「っ…、すまない、」
彼の片手から覗いた双眼に、無意識に肩の力が抜けた。
何となくだが、“戻った”のだと感じ取る。
「大丈夫ですか?もしかして体調が悪いとか…」
「いや、大丈夫だよ。それより、そろそろ本格的に日が落ちてくる。早めに帰った方がいいね」
「あ、はい」
「特に心配はないと思うが、オレはもう少し残るから、万が一何かあった場合は戻ってくるか学校に連絡するように」
「分かりました、ありがとうございます」
礼と共に伸ばした手をやんわりと戻され、慌てて離れた。
いつの間にやら、とても近い。
間近に見た整った顔立ちに意識が持っていかれそうになるが、何とか踏みとどまって鞄を手に取る。
放置していたノートを放り込んで、帰る準備完了だ。
失礼しますと一礼してから踵を返し、扉に手をかけたところで振り返った。
静かにこちらを見送る瞳とぶつかり、少し考えてから、あどけなく口元を緩める。
「−先生もゆっくり休んで下さいね。前も言わせていただきましたけど、睡眠不足はよくないですよ」
「!…。ありがとう、そうさせてもらうよ」
何かが意外だったのか。
一拍置いての返答に頷き返すと、今度こそ教室を後にした。
また勉強で分からないところは遠慮なく彼をたずねてみよう。
短時間で目の当たりにした二つの雰囲気を頭の中で並べ、小首を傾げるが、足取りは軽い。
窓の外の空に視線を移すと、黒と蒼の狭間、端にちらつく赤色に目を細めた。
イトの屑で蝶々むすび
(そうか、彼女は…−、しかし立場上区切りはつけなくては。これは暫く気が抜けないな)
(赤司先生には変わりないんだろうけど…やっぱり疲れてるのかな。どっちにしろ頼りになりそうだけど)
入れ替わり、立ち替わり、キミへ。
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