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 頭に乗る大きな温度に、雅は瞳を細めた。



「どうだ、困ってることはないか」

「…、」



 この国の主権者のひとりである木吉の気遣いに、そっと微笑む。

 音にならない、喉元に詰まる言葉にはもう慣れた。
 彼に恋して払った、この世界に存在する為の代償は想像以上のものだった。
 喋れなくても、会って傍にいられればよかったはずなのに。

 彼の背後に見えた人影に、反射的に睫毛を伏せる。



「−鉄平」

「ん?リコか」

「日向君が凄い勢いで探して…あ、ごめん。今大丈夫だった?」

「ああ、平気だよ」

「アンタに聞いてるんじゃないわよ。…昨日はよく寝れた?」



 にこりと安心させるように微笑みかけてきた相田に、笑みを返した。
 彼女のことで知っていることと言えば、フルネームと、木吉の“婚約者”ということだけだ。
 二人は元々知り合いだったとのことだが、以前雅の起こした行動が後押しをしてしまったらしい。

 ただ、唐突に現れた見知らぬ自分を妹のように可愛がってくれるところから、彼女の人柄は窺えた。
 あの出来事がなくても、二人は一緒になる運命だったのかもしれない。
 悔しいが、自分から見てもお似合いだ。

 未だに頭に乗っている温度に控えめに触れると、そろりとその焦がれてやまない手を降ろした。



−行ってあげて。



 ぎこちないながらも指先の動きで伝えると、今度は二人分の温度が髪を撫でる。



「ありがとな。じゃあ行ってくるよ」

「また後でね」

「…、−」



 ふう。

 二人の姿が消えたのを確認するなり、静かに息を吐き出した。
 ぐるぐる回る感情が、気持ち悪い。
 自分は一体これからどうなるのだろう。
 前髪がはらりと雅の目元を隠し、

 −、不意に、空気が揺れた。

 反応するより速く、異様に明るい声が鼓膜を掠める。



「よう。雅ちゃん元気にしてるー?」

「!…−…」



 前触れもなく唐突に現れた彼は、別に見知らぬ人ではない。
 しかし、彼が現れたということは、何かが動くということだ。
 伝達だろうか。

 雅からの警戒のオーラを感じ取ったのか、長い前髪で双眼を覆う男−原は、いつもの軽い調子でへらりと笑った。



「…そんなびびんなって、別にちょっかいかけにきたわけじゃねーし」

「…」

「あ、それ信じられねーって顔。まあいいや、ほい」

「!?」



 いきなり手に握らされたそれに、反射的に後ずさる。
 振り払おうともしたが、両手でがっちり押さえ込まれては手離すこともできなかった。

 どん。
 気がつけば後ろは壁で、ひやりとした無機質な温度が肌に浸透する。
 恐怖か、寒さか、力の入れ過ぎか。

 カタカタと震える雅の両手を見て、その手を覆う原は愉しそうに唇を歪めた。



「花宮から伝言。“日付が変わる前に、木吉を消せ”。それができたら声も返すし、オレらの世界への存在権も戻してやるってよ」

「っ…」

「こっちも雅ちゃんいないんじゃ退屈だし、その声も案外気に入ってるから。さっさとやって帰って来いよ」



 耳元に落とされる低い音に、身震いする。
 彼も、あの人も、本気だ。

 時間が止まったかのような空間の中に、人の声と足音が紛れた。
 瞬間に、呆気なく拘束が解ける。



「おっと、人来たわ。じゃーな」



 ぱん。

 原特有のフーセンガムの割れる音とと共に、彼の存在も弾けた。
 手元に残った冷たい温度と輝きに、何かが背中を這い上がる。
 冷えた指先で、ずしりと重いナイフを握りしめた。







 ごぽり。

 深い広い何処かで、気泡が生まれては消えていく。
 それらを横目に、退屈そうに片目を細めた男が、ゆっくりと腰を上げた。
 それを見届けた古橋が、視線だけでその動きを追う。



「…行くのか、花宮」

「ああ。予想はしていたが、あのバカ“世界”から出やがった」

「それは、迎えに行かないと消滅だな。でも木吉には手を出していないんだろう?」

「それができてりゃ何も文句ねぇんだがな。まあ条件満たしてねーから約束のもんは返せねぇけど」



 やれやれと首を振る動きは、どこかわざとらしい。
 花宮という男を知る側からすれば、一目瞭然。
 これは、事が思い通りに進んだ時の表情だ。



「じゃあ存在権がない状態で匿うのか」

「別に問題ねーだろ、黙認されてるだけでそこら辺にも結構いるぜ?」

「…まあ、文句はないさ。彼女がどうリアクションするかは分からないけどな」

「ふはっ、そりゃ拒否するだろうな」

「やっぱり、そこまで分かってての行動か」

「当然だろ」



 冗談めいた肩をすくめる動作を見せたのち、花宮はその空間から去った。
 一人で思案に耽ろうとしていた古橋だったが、入れ違いで人が侵入したことに気づくと、今度は身体ごとそちらに向ける。



「…遅かったな、原」

「あり?もしかして入れ違い?」

「ああ、花宮がさっき出て行った」

「メンゴ。帰る最中寄り道しちった」

「別にいいんじゃないか。花宮のお使いはできたんだろう」

「まあね。つーか花宮もマジえげつないわー。いい子ちゃんの雅ちゃんにあんなのできるわけないっしょ」



 あー、肩こった。

 首を横に倒しながら、気怠げに隣を通り過ぎる原を横目に追った。
 彼もまた、彼女の帰還を望むひとりだろう。
 花宮からの指令に一番ノリノリだったのは、本人にも自覚のあるところだと思いたい。

 どさりとソファーに体重を落とした原が、空間を見渡すなり首を捻った。



「そういや瀬戸と山崎は?」

「別件で外出中だな」

「ふーん。…あ、ガム切れた」

「…花宮が出て行った件については聞かないのか」

「え、そんなの聞かなくても内容分かるじゃん。それよりオマエとふたりとか超退屈なんですけど。雅ちゃん早く帰ってこねーかなー」



 ギシ。

 背もたれを利用して思い切り仰け反る姿を確認したのを最後に、瞼を下ろす。
 ここに戻ってきた彼女は、どう変わるだろうか。
 恐らく以前と同じようにはいられないだろう。
 自分たちとの関係も、立場も、態度も、

−それぞれの気持ちも。

 人懐っこさと聡明さと緊張を混ぜて優しさで割ったような彼女独特の笑顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんで消えた。







 白。

 見渡しても、踏んでみても、触ってみても、何も感じない。
 息ができているのかも分からない−、無の世界。
 何度来てもあまりいい感じはしない。

 微かに眉を寄せた花宮は、迷うことなくその方向に向かった。
 音もなく進み続けると、不意に無の中に色がちらつく。

 ここまでの無の中だからこそ、認識できる程度の存在感。
 既に消えかかっている気配を繋ぐべく、その身体を引き寄せた。



「−チッ、思ったより進んでやがるな」

「…−」



 触れ合ったところから、まるで温度が移るように、徐々に気配も濃密になる。
 己と並ぶくらいまで存在が取り戻されたのを確認すると、腕の中の顔をのぞき込んだ。

 双眼は開く様子はなく、意識も戻らない。
 目元に残る赤みが、彼女のここに至るまでの葛藤を花宮に伝えた。
 何を思うでもなく、その跡に指を滑らせる。

 白い肌をなぞり終えるなり、ぐっと少女の頭を抱え込むようにして顔を伏せた。



「…悪かった…、」



 酸素に溶かすように言葉を落とし、

−次の瞬間には、歪んだ笑みで顔をあげる。



「−なーんて、微塵も思ってねぇけどな」



 今までの何の感情も滲まない表情から一変。
 捻くれ曲がった狂喜が渦巻き、ふはっ。と彼独特の笑い声が反響した。



「わざわざアイツを幸せにしてたまるかよ、バァカ」



 今までため込んでいたモノが、一気に溢れ出る。


−彼女があちらの世界に行きたいと願う前から、木吉と雅、双方の気持ちは花宮に筒抜けだった。
 花宮の水面下での動きを知らない雅は疑いもしなかったが、相田リコは、木吉鉄平の婚約者などではない。
 巧みな策による、情報操作と状況作り。
 花宮の思惑通りのシナリオに導かれていることに、雅が気付くことはない。

 多少手間はかかったが、これで木吉と雅の中は裂け、彼女は自分の元へ帰ってくる。
 あちらへの心理的ダメージも大きいだろう。


−不意に、覚醒の空気を察知した。
 込みあげる笑いもそのままに、震える睫毛を見下ろす。



「…、っ−」

「目ぇ覚めたかよ。ひでぇ顔だな、不細工にも程があるぜ。気分はどうだ?」

「…、…」

「勝手なことばっかしやがって。どうだった、最悪の結末だっただろ」

「…−」

「まあ話は後だ。とりあえず帰るぞ、そのボサボサ頭も何とかしてやる」

「っ…!」



 “帰る”という単語が予想外だったのか。
 驚きに見開く瞳の訴えなど、聞く気もなかった。
 そのまま横抱きにすると、来た道を引き返す。

 暫くの沈黙ののち、ぎゅっと服の裾を掴んだ頼りない指先に、密やかにほくそ笑んだ。







泡になれなかった人魚姫の結末


(今更、どこにも逃がさねぇよ)
(私が欲しいのは自由ではなくて…−、)


魔女の導き、ちちんぷぷい。