◇
「…これは、」
雅は、立ちすくんでいた。
場所は、見知らぬ学校の敷地内。
何のアポもなしに単独で他校に足を踏み入れるなど、普通はできないし、しないだろう。
しかし今回に限り、彼女にはそんな大胆な行動をせざるを得ない理由があった。
真面目な部類に入る雅にとって初めて訪れた学校の校門に侵入するのはかなりの苦戦を強いられたが、幸いにも違う制服の女子がちらほら出入りしていた為、思い切って流れに乗ってこられた。
生徒達が特に反応していないところを見ると、日常茶飯事なのか。
はたまた何かイベントでもあるのだろうか。
疑問に思いながらも、人が集まる体育館−その裏側に辿り着いた雅だったが、数十秒前よりそこから動けないでいた。
目の前には、誰かの所持品であろうスポーツバックが無造作に置かれている。
半開きのそこから垣間見える、チカチカ光を主張するソレに用があるのだが、流石に人様の所持品を勝手に触るわけにもいかない。
「…はぁ…」
一度閉眼して眼鏡を取り外し、深呼吸したのち視界を開いた。
現在、彼女の目には先ほどの光は視えていない。
意を決したように唇を結んで、眼鏡を耳元に引っ掛けた。
再びレンズを通した先−スポーツバックからきょろりと顔を出してこちらを窺う姿に、複雑な気分になる。
今の状況を一般人に見られたらならば、スポーツバックと睨めっこする不審者として映ることだろう。
今まで平凡な毎日を過ごしていたのに、こんな非平凡な“視力”を持っていたなんて。
他界した祖母に手掛けてもらっていた眼鏡が壊れてから、こんな不思議な生物を追いかける日々が続いていた。
レンズなどの媒介を通すことで認知できる世界。
“視る”ことに特化した自分にできることは、限られている。
同級生に託されているペンを握りしめ、対象に近付いた。
帰り道に見つけてしまってからひたすら追いかけてきたソレを、とりあえずこのバックから出すことから始めなければいけない。
ざっと周囲を見渡して人気がないことを確認すると、素早くしゃがみこんでチャックの隙間に手を伸ばした。
「あっ、…もう」
しかしそう簡単にいく筈もなく、雅を危険と判断したのか。
顔を出していたソレは、指が掠めるより先に暗闇の中に引っ込んでしまった。
こうなってしまうと、かなり厄介だ。
見知らぬ人の私物に触るなど非常識にも程があるが、このままにしておくわけにもいかなかった。
まだ知識の浅い雅には、これが無害であるかどうかの判別がつかない。
そのための無効化と追跡の機能を備えたペンである。
印さえつけてしまえば、後は緑間なり高尾なりに任せればいい。
それでも持ち主に被害が出てからでは遅いと覚悟を決め、バックのチャックを掴んだ瞬間、
「−ちょっとアンタ、何してんスか…?」
「!?」
背後から掛かった声に、心臓と肩が跳ねた。
明らかに言い逃れのできない場面である。
泣きそうになるのをこらえて、小さく息を吐ききると、そっと振り返った。
「っ、すいません、あの…」
首を回した先、高身長と明るい金髪に目を奪われる。
顔を洗ってきた帰りか、タオルを首元に引っ掛けたジャージ姿の彼は、怪訝そうな表情も露わだった。
しかし、その端正な顔立ちには何故か見覚えがあり、記憶を辿った末に納得する。
「…黄瀬くん…?」
確か、雑誌に載っていた今をときめくモデル学生だ。
友人が大ファンとのことで、たまに一緒に切り抜きなどを眺めていた。
なるほどここの生徒だったのか。
これでこの学校の女性部外者オンパレードの理由も合点がいったが、思わず呟いた彼の名前はまずかったらしい。
想像通りとでも言うように眉を顰めた黄瀬が、気まずそうに後頭部に片手を回した。
「あー…、一応ファンサービスはいい方なんスけどね、さすがにそれはちょっと」
「!」
溜息混じりの言葉の羅列に、自分の置かれている状況を思い出す。
無人の場所で、他人の持ち物に手を掛けている女。
しかも、言い方からするに、このバックの持ち主はあろうことか黄瀬本人である。
彼の場合はファンが多いのは一目瞭然。
今の態度からしても、もしかしたら私物がなくなった経験などを持ち合わせているのだろうか。
勿論そんな意図は全くないが、自分以外にこの不思議な生物が見えない以上、言い訳もできない。
考えなくても分かるほどに、ヤバい状況だった。
思考停止を望む脳を叱咤し、その場に起立する。
「っ、えっと…実は、さっき落とし物を…」
「…、落とし物?」
「はい。これくらいの小ささで…周りを見ても転がってないし、他にはこの鞄しか見あたらなくて。もしかしたらこの隙間から入ってしまったかもしれないので、申し訳ないんですけど、確認してもらえないですか…?」
「…まあ、それくらいなら。なかったら諦めて帰って下さい。アンタ、他校の人ッスよね」
「…はい」
多少冷ややかさを感じる視線に、無意識的に一歩下がった。
初対面の人間に私物を触られていたのだから、当然のリアクションだ。
寧ろこんな明らかな出任せに対して、疑いながらも対応してくれるだけ有り難い。
バックさえ開けてくれれば、何とかなるかもしれない。
生物が黄瀬に何かしようとしても、この距離なら対応できるだろう。
しかし、美形の無表情は本気で迫力がある。
一刻も早くこの場を立ち去りたい思いで、意識を集中した。
屈んだ黄瀬がチャックを全開にした、その時。
−視えた!
チカリと一瞬強い光を発して、瞬く間にその狭い世界から飛び出す。
跳ね上がったソレがあっという間に横をすり抜けたのを視線で確認し、自らも踵を返した。
「っすいません、やっぱり違ったみたいです、ありがとうごさいました!お邪魔しました」
「は!?ちょっと…!」
凄まじい勢いで地面を蹴った少女に呆けるが、追う義理も必要性もない。
おっとりした見かけより速いことに驚きながら、翻る黒髪が遠ざかるのを見送った。
その小さな背中が見えなくなってからも暫くそちらを見つめていたが、ふと我に帰る。
曖昧な置いてきぼり感に、少しムッとした。
「ったく、何なんスか一体」
休憩時間に顔を洗って戻ったら自分のバックを前に屈む女はいるし、落とし物がどうとかで御託を並べたと思ったら、一方的に喋って去ってしまった。
やっぱり結局言い訳してただけかよ。
言い逃れのできない場面に出くわした割には真摯に向き合ってきた為、嘘臭いとは感じてもリクエストに応じたというのに、結果はこれだ。
どうせならもっとキツい言葉を浴びせてやればよかった。
先日から私物がよく消えることを思い出して、苛立ちがぶり返す。
ファンを警戒してわざわざ人目のない所に置いていたのが逆効果だったらしい。
気持ちを鎮めるためにも練習再開までにもうひとっ走りしてこようかと腰を上げるが、響き渡った音に動作を止めた。
ガシャーンと思い切り開かれたのは、重い体育館の扉だ。
そこから顔を出した人物に、反射的に背筋を伸ばした。
「オイ黄瀬ェ!」
「うわ、笠松センパイ!?どうかしたんスか」
まだ休憩時間内の筈だ。
練習中ならともかく、笠松が休憩中にまで口出しをしてくることは滅多にない。
素直に疑問を口にすると、何やら神妙な顔つきで黄瀬との距離を縮めてきた。
「…ここで何か変わった事はなかったか?」
「変わった事?…変な女の子がいたくらいッスよ」
「変な女の子?」
「何!?その話を詳しく黄瀬!」
女の子という単語が出現した途端に狙っていたかのように割り込んできた人物に、笠松の鉄拳が飛ぶ。
「オマエは黙ってろ森山ァ!で、そいつは?」
「あ、オレのファンっぽかったんスけど、ってイテ!」
「オマエの私情はどうでもいいんだよ!」
「何て羨ましい!」
「オイもうテメーは入ってくんな」
「…、何かあったんスか」
いつものやり取りのようで、どこか違う。
二人の上級生の纏う微かな緊張を感じ取り、表情を引き締めた。
そんな黄瀬に応えるように、森山の頭を抑え込んでいた笠松が姿勢を正す。
「−ああ、“反応”があったんだよ。しかもついさっき、唐突にだ」
「!“瞬間移動型”はここ周辺にはいないはずじゃ」
「いや、今回のは多分“カメレオン型”だな。ずっといたけど、気付かなかったんだろ。小堀が探知できなかったんだ、相当のレベルだと思っていい」
「…それで、反応場所が此処だったんスね?」
「今猛スピードで移動してるらしい。そっちは小堀と早川が追いかけてる。オレらはとりあえず出所の確認をしたかったから来ただけだ」
腕を組んで難しそうに眉を寄せる笠松を前に、黄瀬の頭の中では先ほどの少女とのやり取りが反響されていた。
ついカッとなり単に自分の私物を物色しようとしているファンかと思いこんでいたが、己と対峙したときの反応を思い返すと、何かが違う気がする。
本当にファンなら、いくら気まずい場面でももっと黄瀬に対してのリアクションをとった筈だ。
しかし、彼女は黄瀬の名前を呟いただけで、ファン独特の浮きだった空気は一切感じなかった。
それにただの言い逃れであれば、何も黄瀬がバックを開けるように誘導したり、それを見守る必要はない。
ただ一緒にいる時間を引き延ばしたいだけなら、開けた瞬間に嵐のように去ったあの対応の説明がつかない。
そう、重要なのはそのタイミングだ。
このバックに何かが潜んでいて、それを追い掛けていったのだとしたら?
“あれら”は身を守る際に力を爆発させる為、少女に見つかって逃げようとしたのなら、辻褄が合う。
さっき会話に挙がった小堀という上級生は、“察知”に秀でた詮索専門だ。
そんな彼に対してこんな距離で存在を悟らせなかったのであれば、笠松の言うとおり、かなりの捕獲レベルだったはず。
戦闘や囮といった分野で活躍する自分に、感知できるわけがない。
では、彼女は一体何者なのか。
現在自分が知り得る女能力者は、知り合いの学校のバスケ部監督やマネージャーのみで、片手で足りてしまう程度。
もし黄瀬の仮説通りならば、彼女は間違いなく詮索のスペシャリストだ。
「…あの子は…」
ぽつりと零した思考の欠片は、笠松達に届くには十分だった。
黄瀬の様子から、何かしらくみ取ってはいるらしい。
バシリと小気味のいい音をたてて、黄瀬の背中を叩いた。
「−黄瀬、とりあえず移動すんぞ。走りながら説明しろ」
「女の子について詳しくな!」
「もう黙ってろっつってんだろシバくぞ森山ァ!」
相変わらずの日常風景に笑いつつ、軽やかに舞う漆黒を思い出しながら脳裏に描く。
焦りや戸惑いを滲ませながらも、真っ直ぐ自分に向き合ってきた姿勢。
彼女の正体はまだ不明だが、もう一度会えたら、とりあえず自己紹介からし直そう。
自然体の彼女と、話してみたい。
数分前の不信感が急速に興味へと変化していくのを自覚して、単純なもんだと自嘲した。
ひっぱって、引っ張って、手繰り寄せてしまったの
(これはきっと運命の出会いになる!)
(何か面倒な事になりそうなんだよな)
(一回ビビらせちゃったっぽいし…ここはいいとこを見せるしかないッスね!)
(できればもう人とは会いませんように!)
残念、はさみはありません。
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