◇
ざー。
じんわり染み渡る温度に浸る雅の耳が、変化を感じ取った。
シャワーの音に紛れて、脱衣所の扉が閉まる音が鼓膜に届く。
…お、帰ってきたな。
蛇口を捻って脱衣場に出ると、やはり、半開きだったはずの扉がぴったりと閉まっていた。
雫の滴る髪をかきあげて素早くタオルを身体に巻き付けると、そっと扉を開ける。
隙間から見えた姿に、顔が綻んだ。
「幸男ー、おかえりー」
「おう、ただい…!ばっ、服着るまで開けんじゃねえ!」
「はーい」
反射的にこちらを見てしまったらしい。
思い切り反らされた顔に、真っ赤な耳。
これだから、ついつい。
満足そうに歯を見せた雅は、手早く肌着を身につける。
最近買ったワンピースに袖を通して、今度こそキッチンへと身を乗り出した。
既に上着を脱いで、黙々と夕飯の盛りつけをし始めている彼の横に移動する。
相変わらずよくできた旦那である。
「ありがとユキ」
「別に、こんくらい何でもねーよ。それより髪乾かしてこい」
「んー」
「あと、風呂入るときはドアしっかり閉めろっつってんだろーが」
「え、見苦しいもん見せるなって?」
「違ぇ!…もういい。髪」
「冗談だよー」
ケラケラ笑いながら、再度脱衣場へと進んだ。
洗面台でドライヤーをセットしつつ鏡を覗くと、想像以上の己のにやけ顔が映る。
−彼は、今時珍しいくらい純情だ。
学生時代から、びっくりするほど女性慣れしていなかった。
今となっては大分マシになってきたものの、その初々しさは健在である。
直向きさと体育会系の男らしさ、それに対する可愛さのギャップが、雅を落とした所以だった。
そのため、時々今回のようなイタズラ心が働いてしまう。
初めて脱衣場の扉を半開きにしてしまった時は意図などなく、本当に偶々だったのだが。
何かの拍子に隙間から“見えてしまった”らしく、着替え中に扉の向こうから、激しくどこかにぶつかる音を耳にした。
以降は、雅がわざと脱衣所の扉を開けていても、そっと閉めていく。
紳士なのか、ウブなのか。
恐らく両者なのだろうが、どうしたらこんな風に育つのか、彼の家族には是非ともコツを教えていただきたい。
…今度は女性ものの下着とか置いといてみようかな。
雅が真面目な顔で次の作戦を企てながらキッチンに戻ると、彼女に気付いた笠松が呆れたように笑った。
「オマエ…まだ半乾きじゃねーか」
「あとは自然乾燥でいけるよ」
「風邪ひくだろーが。来い」
「えー、また?」
腕を引っ張られて、洗面台に逆戻り。
言動から察するに、直々に髪を乾かしてくれるらしい。
されるがままに待っていると、湿ったスイッチの音が鼓膜に触れた。
ぶぉおお。
吹き付ける熱風と、遠慮がちに頭皮を掠める指先と、鏡越しの真剣そのものの表情。
ぎこちなさが彼らしい。
「あー…なんて言うか、成長だねえ」
「意味分かんねぇよ」
「初めの頃は私の髪にすら触れなかったのにね」
「いや、そりゃまあ…」
泳ぐ視線に、満たされたハズの気持ちが再発した。
冷風に変わり仕上げに入った頃を見計らって、舞い上がる髪の中、彼の片手を捕まえる。
「−幸男さん、今日は背中でも流しましょうか?」
「ああ!?オマ、何…っ」
「妻なんだからそれくらい普通だよね、うん」
「や、いい!」
「今更そんな照れなくても」
「照れてねえ!」
先程までとは一変。
ドライヤーをほっぽりだして逃げ出しそうな勢いに、逃がすものかと目を光らせ、思い切り振り返った。
握った彼の手はそのままに、流れで抱きつく。
「!」
相手は、完全に思考が停止したらしい。
ドライヤーを落とした手が、どうすることもできずにさまよっていた。
最早石のようだ。
「じゃあ私もユキの髪乾かす」
「…」
「背中流すのとどっちがいい?」
「…、髪で、頼む」
「よっしゃ、じゃあまずは夕飯食べようか。今日は気合い入れたんだよー肉じゃがだし」
「…、…おう」
髪、ありがとね。
彼の胸に顔を押しつけるなり、伝わってくる脈打ちの速さに笑った。
何たって、この音を聴くために生きている
(よし、次はデコチューでもかましてやろう)
(冷静なんか保てるか!)
おたまじゃくし、お揃いで。
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