◇
「っスイマセン!」
突如空気を震わせた音に、雅はびくりと肩を跳ね上げた。
反射的に顔を音源に向けると、最近よく話すようになった後輩が狼狽えながら固まっている。
知り合いの先輩が、人気のない場所で目から水を流していれば、当然の反応だろうか。
やれやれよっこいしょ。
壁から背中を離して、壁に預けていた自重を戻す。
濡れた瞳や頬を拭うようなことはせず、ポケットから常備している容器を取り出した。
「落ち着いて桜井。これ、目薬だから」
「目薬…ですか」
「うん。恥ずかしながら私、目薬注すの苦手でね」
控えめに微笑んで、目薬をしまい込む。
苦し紛れだとか、最早そんなレベルですらないけれど。
敢えて潤いを拭わないのは、未だに涙腺が水を絶賛量産中だからだ。
いくら目薬が苦手な人間でも、ここまで顔を水浸しにはできないだろう。
しかし、優しい彼のことだ。
そんな嘘に付き合ってくれるのは想像に容易かった。
「あの、これまだ使ってなくて綺麗なので…目薬拭いて下さい」
目の前まで歩んできだ桜井が、おずおずと差し出すタオルを見つめる。
綺麗に畳まれたそれは、確か彼がつい先程まで首に掛けていた筈のものだ。
しかしその言葉通り、使用した形跡はなかった。
場所や時間的にも顔を洗う予定で、そのお供に連れてきたのだろう。
さっきの今で、瞬時にここまで畳める女子力は相変わらずだ。
何だか変に負けた気分に陥った雅は、ふるりと首を振った。
「ありがとう、気持ちだけ受け取っとくね」
「え…でも、結構濡れてますよ?」
「桜井、顔洗いにきたんでしょ?早く洗って戻らないと怒られるんじゃないかな、こわーい先輩に」
「いえ、まだ休憩時間はあるので大丈夫、だと思います」
「…今日は珍しく強気だね」
「え!?あああスイマセン生意気でしたかスイマセンッ」
「いや断じてそういう意味ではなく、つか危ない…」
恒例の謝罪と共に、九十度の勢いで身体を折る桜井に対し、反射的に仰け反った。
弟のように可愛がってはいるが、仮にも彼は男で、身長は170p以上ある。
近距離である現状では、下手をすれば頭突きお見合いの完成だ。
−人間に備わる素晴らしい能力のお陰で彼との衝突は避けられたが、背後の壁のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
思い出したのと、後頭部への衝撃はほぼ同時。
っごん。
「っい!?」
「うわあああ飴凪先輩!?スイマセンスイマセン自分のせいで…もう自分とかミジンコ以下っす!」
「いやいや…そ、こまで自分を卑下する必要ないからね…あー」
「脳震盪とか起こしてないですか!?とりあえず座って…、」
「ほんと、大丈夫。桜井のせいじゃないから。私のヌケ具合知ってるでしょ」
鐘突きのような鈍さが反響する後頭部を抑えつつ、壁に寄りかかるようにズルズルと座り込む。
痛みのお陰で、泣く理由が正式に出来た。
生理的な涙に紛れこませて、先ほどまでの鬱憤も流すべく、目尻に泉をため込む。
なみなみと揺れる視界。
ぼんやりと映る己の膝小僧に、水がひとつふたつ、弾けた。
同時にクリアになった世界を、不意に苺柄が襲撃する。
ぽふり。
「っ、ぷ…!?」
続いて暗くなる視界と、柔らかい感触アンド柔和剤の香り。
タオルを押し付けられたのだと理解するのに、時間は掛からなかった。
力は入れていないだろうが、畳まれたままの厚さのある布地。
それで顔面全体を覆われたため、一瞬息まで止まる。
恐らく、こちらの本格的な涙に動揺したのだろう。
それにしても、中々に大胆というか、大雑把というか。
彼の動揺具合がよく分かるが、何も見えないこの状態でどう動けというのか。
固まる雅に我にかえったのか、タオルを彼女の顔面に押し付ける両手から、力が抜けた。
「っあ、スイマセンッつい…!」
「…わざとだね?」
「そそそんなことは」
「せめて目元だけを優しく拭うとかできないかな桜井クン」
「そ、そうですよねスイマセン!」
慌ててタオルを引き戻そうとする手を、手探りで捕まえる。
そのまま彼の手ごと、タオルを自分の顔側へと引き寄せ直した。
びくりと彼の指先が揺れるが、戸惑いつつも振り払う様子はない。
大きめの硬い手は、やはり男の子なのだと実感する。
「…せ、先輩?」
「−桜井から見て、私は弱い?」
「え?」
ああ、見えなくても、きょとん顔が目に浮かぶ。
こんな質問、誰だって吃驚するに決まっている。
笑い飛ばして取り消そうとするが、桜井の方が早かった。
彼にしては珍しい、芯の通った声が被さる。
「…いえ、飴凪先輩は弱くないですよ」
「…、そうかな」
「強くも、ないですけど」
「それは、うん」
「ただ、…不器用、ですよね」
少しだけ、笑った気配。
一瞬、すべての音が息を潜めた。
一拍置いて、世界が動き始める。
そっか、私は不器用だったのか。
考えてみれば、そうかもしれない。
彼の手を解放して、手元に残ったタオルからチラリと目元を覗かせる。
「−、…そりゃ、あんな可愛い弁当作れる桜井に比べればね」
「ええ!?そそういう意味じゃないですよ!?なんか生意気言ってスイマセンスイマセンッ」
「分かってるから、冗談だよ。でもね、」
涙を拭うくらい私にだってできるよ
(あんまり甘やかしすぎるとダメになるから程々にして)
(分かりました。あ、明日の弁当は何がいいですか?)
ぽとり、目薬のゆううつ。
(お題提供元:確かに恋だった様)
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