◇
また、やってしまった。
目の前の光景と、じんわり鈍い痛みを伴う身体の節々に、雅はぱたりと顔をうつ伏せる。
早朝のこの時間帯から、行動を起こす気が失せてしまった。
休日なのがせめてもの救いか。
そのままの状況で数十秒後、何者かの足音が廊下を軋ませた。
この家には自分の他には一人しかいない。
ガチャリと開いたドアのその先、見えた足を睨みつける。
「すげー音したな」
「…おはよう大さん」
「何やってんだオマエ」
怠そうに首を撫でながら居間に入ってきた人物を顔だけで見上げるが、予想通り呆れたような視線が返された。
朝一で身体ごと床にうつ伏せる妻を見たなら、当然の反応だろうか。
更に、その周りに物が散乱していれば尚更だ。
「朝っぱらからこんな散らかして、何か嫌なことでもあったのかよ」
「…そんなわけない」
「冗談だって、どーせまた派手に転んだんだろ」
ほんと飽きねぇヤツ。
愉しげに喉を鳴らす音が降り、どことなくムッとする。
昔からそうだ。
何かと要領が悪く失敗の多い自分に対し、“退屈凌ぎ”と称しては隣で面白そうに笑っていた。
「オイ雅、いつまで拗ねてんだ」
「別に拗ねてないけど」
「じゃあ動けよ。腹減った」
「充電中です」
「ガキか」
「アナタにだけは言われたくない言葉だね」
ぺたり。
眉を寄せて逆方向の頬をフローリングにくっつけると、ひやりとした温度が肌から侵入する。
毎日拭き掃除をしているから、そんなには汚くない、はず。
すぐ横に転がるぬいぐるみをボンヤリ見つめていると、近くで空気が動いた。
彼が長い足を折り畳んで、しゃがんだらしい。
続いて頭にポンポンと乗る温度。
「おーおー相変わらずちっせー頭」
「…ガキ扱いは止めてよね」
「ガキだろ」
「だから大さんには言われたくないって。さっちゃんに言いつけてやる」
「何でさつきが出てくんだよ」
「保護者でしょ。お守り役」
「…あー、何かそれいつだったか言われたことあるわ」
そんなどうでもいいやり取りをしながらも、頭部に入る感覚の心地よさに、瞳を細めた。
バスケ大好きな彼のことだから、どうせまたボール感覚で触れてきているに違いない。
床が冷たく感じたのは頬が熱いからなんだろうな、だとか。
そういえばこのぬいぐるみは初デートでとってもらったものだっけ、だとか。
何だ結局私彼が大好きかこのやろう、だなんて。
ごろりと仰向けば、天井を背景に、見慣れた顔で視界が埋まる。
「まあとりあえず立てって。立つのは手伝ってやるよ」
「片づけは」
「それはダリー」
「…朝ご飯、片づけ終わり次第の準備になります」
「マジか」
「マジだ」
「…しょーがねぇな」
大げさなため息と、伸びてくる褐色の手。
グイッと力強く引き寄せられて、少しの浮遊感ののち、地面に足がついた。
相変わらず軽々となされる力業に惚けるが、ぺしりと目元を覆った大きな掌に我に返る。
「わ!?」
「折角立たせたのに寝んなって」
「いやどう見ても起きてるでしょ!?」
「あーわり。この角度からじゃオマエの目元とか確認できねぇわ」
「くそう」
流石に三十センチ以上の身長差は大きい。
出会った当初から全く変化のない頭位置に、恨めしそうに瞬いた。
やはり動きの鈍い雅に痺れを切らしたのか、青峰がゆるりと腕を上げる。
気付いた時には、額にデコピンをくらっていた。
完全なる不意打ちだ。
「いたいっ」
「で?何からどうすりゃいいんだよ」
「!おおう」
何だかんだで今回も手伝ってくれるらしい。
そう、いつものことだ。
昔から“退屈凌ぎ”と称して隣でバカにしたように笑って。
めんどくせーやらタリーやら、散々に言い散らかして。
しかし、最終的には手伝ってくれる。
彼の幼なじみ曰わく、「大ちゃんは雅ちゃんを甘やかしたくてしょうがないんだよ。素直じゃないけど!」だったか。
そんな彼女とは色んな意味で、気が合った。
にやにやと思い出に浸りながら現実に意識を戻すと、いつの間にやら愛しのぬいぐるみが大きな手に捕まっている。
…そういやオマエのセンスもさつきといい勝負だよな。
ぬいぐるみをつまみ上げて睨めっこをしている旦那の姿に、容量オーバーを実感した。
ぬいぐるみと大さん、
なんてミスマッチ。
なんでそんなに似合わないの。
超 か わ 。
三日に一回は湧き起こるその衝動に任せて、彼の腰元にタックルする。
勿論、幼少時よりスポーツで鍛えた身体には大した衝撃にもならないだろう。
当然のごとく受け止められたのち、そのままぽすりと頭に乗せられたぬいぐるみ。
「っ大さん、」
「あん?何だよ」
ああ私は今、非常に叫びたい!
(愛してる!)
(…いや、そんな今更すぎること言われても反応困るわ)
あい、の上しゃらら。
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