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 ぼうっと天井を見上げていた雅は、ふと首を傾げた。

 此処はどこで、
 何月何日で、
 私は誰で、
 今は何時?

 次から次へと湧き出る疑問から逃げるように、視界を閉ざす。

 何も、考えたくない。
 知りたくない。

 ゆったりと仰け反ると、己の体重に耐えかねたのか、木製の椅子がぎしりと鳴いた。
 誰もいない教室でひとり。
 窓からは、鮮やかな夕日色が空気に溶け込む。

 “何となく”右手を伸ばした座面の裏側で、指先が何かを掠めた。



「…−?」



 明らかに木とは異なるその質感に眉を顰めると、それを手探りで剥ぎ取る。
 べりっと乾いた音が耳に届き、次いで手を引き戻すと、黄色いミニ折り紙が四つ折りにして収まっていた。
 端にはセロハンテープがちらつく。

 何故こんな所に貼り付けてあったのかは不明だが、畳まれた紙が手元にあれば、拓けたくなるのは人間の性だ。
 かさり。

 無心で事を進めると、真っ白な面に並ぶ文字が意識に飛び込んだ。



『オレと一緒に帰っちゃダメッスよ』



「…は?」



 唐突なそれに全く思考が繋がらず、ただ瞬く。

 男の子らしい字で書き殴られた字。
 見覚えは、ある。
 この独特な口調にも懐かしさを感じる。

 しかし、どこか朧気で、人物像が思い出せなかった。
 喉元で言葉がつっかえているような感覚にやきもきしていると、神経を尖らせる雅の聴覚に、ひどく大きく刺激が入る。

 がらっ。



「!」

「…−と、雅ちゃんこんなとこにいたんスね」

「…びっくりした、もう少し静かに入ってきてよ」



 “見慣れた”姿に、肩の力が抜けた。
 くたりと机にうつ伏せる雅を見るなり、彼は楽しそうに笑って教室内に足を踏み入れる。



「ごめんごめん、早く会いたくて走ってきたもんで」

「またまた…平気でそういうこと言うんだから−…、…?」



 軽いノリに呆れたように返すが、ふと感じる違和感。
 曖昧な引っかかりに口を閉ざすが、相手は特に気にしなかったようで、そのまま歩みを進めて目の前まで辿り着いた。

 金髪と左耳のピアスが夕日色に反射して、眩しさに瞳を細める。



「そうやって流すのも相変わらずっスね。いつも本気だって言ってんのに」

「はいはい」

「ちょ、本気で泣きたくなってきた」

「大丈夫、君ならいくらでも女の子が慰めてくれるから」

「容赦ない追い討ち!」

「あはは」



 違和感を抑え込んで、会話を進めた。
 窓から差し込む色が暗くなってきたのを感じ時計に視線を移すと、やはりいい時間帯になっている。
 
 そろそろ帰るか。

 机横に掛けてあった鞄を手に取ると、彼は待ってましたとばかりに表情を煌めかせた。



「昨日約束したッスよね。一緒に帰ろう」

「あー、うん…、」



 苦笑いを乗せて頷きかけるが、ふと右手に重みを感じる。
 瞬間に脳裏を過ぎる、言葉の羅列。



『オレと一緒に帰っちゃダメッスよ』

「!?」



 数分前は疑問で終わっていた公式が、いきなり完成した。
 何故かは分からないが、その文が彼からのメッセージで、彼自身を対象にしていることは理解する。

 それと同時に気づいてしまった、先程の違和感。
 彼は“走ってきた”と口にしたが、扉が開く前に、雅は何も聴いていない。
 足音も、気配さえも感じていなかった。

 爪先から冷えていく感覚に囚われ、紙を握り締める右手にもじわりと汗が滲む。



「どうしたんスか?」



 端正な顔に張り付く表情が急に偽物のように映り、思考が恐怖に染められていく。

 何か、言わなきゃ。
 からからに乾いた喉に鞭打って、水分不足の音を押しだそうとして。



「あの、……、ぇ?」



 更に発覚した、根本的な異常。
 自覚した瞬間に、眩暈に襲われた。

 あ、れ…?

 目の前の人間の名前が、出てこない。
 知っている筈なのに、モデルでバスケをしていて女の子にモテてでもヘタレで…。

 名前は?
 クラスは?
 私との関係は?

 存在以外は、何も思い出せなかった。

 完全に固まる雅の肩に、冷たい温度が触れる。
 服の上からでも分かる異常な手の体温に、反射的に後ずさった。



「ひ!?」

「ちょ、ホントにどうしたんスか。何かあったら言ってっていつも言ってんのに。もしかしてまたファンの子が何か言ってきたとか?」

「そんな、何…も、」

「じゃあ何でそんなに怯えてんの?オレは雅ちゃんを守るためなら何でもするッスよ。困ってることがあったら言ってよ」

「…、ん」



 真剣な言葉の数々に、少しだけ、警戒心が緩む。
 一方的に怯えていることに罪悪感を感じて、とりあえずは真摯に向き合おうと笑顔を取り繕うが、それも長くは続かなかった。



「ところで雅ちゃん、」



 彼が小柄な自分に合わせて屈み、顔を覗き込んでくる。
 睫毛の長い特徴的な双眼が、ゆったりと笑った。












「− そ の 右 手 に 持 っ て ん の 、 何 ッ ス か ?」






 愉快そうに囁かれたその一言を理解した瞬間に、身体は動いていた。

 思い切り彼の手を振り払い、その身体を押しのけて教室を飛び出す。
 無我夢中で走ってハシってはしって。
 立ち止まった時には、激しい己の鼓動しか聞こえなかった。

 後ろを振り返るが、誰もいない。
 無意識に抑制されていた呼吸が再開され、求めた酸素の勢いに対応しきれずに咳き込んだ。
 壁に身を預けて来た方向を睨みつけるが、彼が追ってくる様子はない。

 歪む視界の中で、緩やかに意識が落ちていった。







−…白い靄のかかる、ミルク色の世界。

 遠くに聴くざわめきに、徐々に意識が引き上げられる。
 鮮明になる雑音に瞼を押し上げると、机にうつ伏せていた身体をゆるゆると起こした。
 眩い光が差し込む、灯りの消えた朝一の教室内。
 耳に捉えた音は、窓の外から聞こえる運動部のかけ声だったらしい。

 何を、していたんだっけ?

 夢を視ていた気がするが、思い出せそうで思い出せない。
 ぴたりと机に頬をつけると、ひやりとした温度が肌から浸透した。

 “何気なく”伸ばした右手が座る座面の裏側に触れ、そこで指を滑らせた雅は固まる。
 頭の中で何かが引っ掛かった。

 そのまま恐る恐る椅子の下を覗き込むと、何かが貼り付けられている。
 緑色のそれに、感じるデジャヴ。
 頭痛にこめかみを意識しながら、丁寧にセロハンテープを剥がした。

 拓いた折り紙には、整った文字が行儀よく整列している。



『ラッキーアイテムは受け取るのはいいが、持ち歩くことはオススメしない。すぐ捨てるのだよ』

「っ!あ…、」



 “また”か。

 そう思った瞬間に、全てを思い出した。
 夕暮れの教室での出来事が一気に蘇り、同時に激しい頭痛と、疑問に悩まされる。
 あの時、廊下で気を失ったはずだ。

 私は、どうやって教室に戻ってきた?
 朝と言うことは、一晩此処で明かしたのだろうか。

 ぐわんぐわんと揺れる世界に、思わず視界を閉じた。
 それを見計らったかのように、空気を揺さぶる音。

 ドアのスライド音の後の微かな足音に薄目を開ければ、緑色が強烈に意識を乗っ取った…−。








 …−雅は悶絶していた。

 お馴染みの教室の席で、ぼんやりと窓を見詰める。
 外は闇色に染まり、鏡と化した硝子には困惑で彩られた表情が映り込んでいた。

 一体、此処は何?
 わたしは、なに?

 初めにこの世界で目覚めてから、いくつかの“時間”を経験してきた。
 共通点は、必ずとある教室の同じ席で目覚めることと、座っている椅子の座面の裏側から、メモを秘めた折り紙が入手できることだ。
 そして、メモに目を通したのを見計らったかのように、伝言を書いたであろう本人が現れる。

 その存在は知っている筈なのに、決まって名前や関係性などの情報は全く思い出せなかった。

 思考回路を疾走しようとする度に、頭蓋骨に酷い音が反響して邪魔をする。
 不可解なのは、みなが皆あちらから近づいてくるくせに、紙上では自分との接触を否定するような指令を出していることだ。

 一回目は黄色の折り紙で、二回目は緑色の折り紙。


 三回目は、桃色の折り紙『私とは何も約束しないで』
 四回目は、青色の折り紙『屋上に差し入れよろしく。オレには近づくな』
 五回目は、紫色の折り紙『おかしくれるのはいいけど受け取るのはやめといた方がいいよー』
 六回目は、赤色の折り紙『何を聞かれても“知らない”と答えるように、頼むよ』


 そして、七回目現在。

 雅の手の中には、水色の折り紙が握られていた。
 勿論、今までと同様のルートで入手したモノだ。
 ただ、内容は異なった類のものであった。
 
 小振りな整った字で綴られた文章は、『23時59分まで教室から動かないで下さい』。

 避けるような意図だった六枚と比較して、この繰り返し空間に変化をもたらす期待を感じる。
 ちらりと時計に視線を移せば、一刻一刻と近寄る指定時間。

−5、4、3、2、1…。



「…−、?」



 何も、起こらない。

 教室内を見渡しても変わった様子は見つけられず、首を傾げた。
 拍子抜けもいいところだ。
 もう一度文章を確認しようとしたその瞬間、カチンとという金属音と共に、生ぬるい風が頬を撫でる。

 巻き上がった己の黒髪が元の位置に納まるまで、動けなかった。
 視界の端に捉えた、水色。

 え、一体−…。



「っいつから、そこに?」

「時間ぴったりに来ました。驚かせてすいません」



 直ぐ隣で淡く空気が微笑む。

 窓に手をかけた彼の名前は、やはり分からなかった。
 何故窓を開けたのかも理解しかねる。

 しかし、確かに自分は彼を“知っている”のだ。
 この気配なく隣に佇むスキルも、空気に溶けるような笑みも、クリアな雰囲気も。

 リアクションに迷う雅を優しげにみつめたのち、不意にその白い手が彼女の肩に伸びた。



「…−え?」



 とん。

 気が付いた時には、一変する景色。
 何がどうしてこうなったのか。

 浮遊感に晒される上半身と、不安定な下半身に眩暈がした。
 命綱は、彼が掴んでいる両の手首のみだ。
 窓縁にかかる膝裏に、冷たさと少しの痛みを感じる。

 肌を撫で上げる下からの風と、ひゅぉおおと耳を打つ効果音が、この教室が一階ではなかったことを物語っていた。

 こんな状況に追い込んだ目の前の彼は、相も変わらず穏やかな視線を送ってくる。
 呼吸もままならない精神状態で、固まる声帯を叱って音を絞り出した。



「な、にを…」

「手荒な方法になりますが、許して下さい。−あなたは、“ここ”にいてはいけないんです」

「っ意味が、…っぁ!?」



 雅の言葉を待たずに、その手首から氷のような温度が消える。

 浮かぶ、
 落ちる、
 墜ちる、
 オチている。

 離されてじんわりと熱を帯びた自分の手首と、遠ざかる窓と、寂しそうな笑み。
 意識が覚えているのは、そこまでだった。

 全てが漆黒に包まれ、呑まれ、染まる。



『−“彼ら”の為にも、戻って…さい−、ボク達−で…キミが…事ですから』



 ただ、混濁した頭の中で、透明な声が鼓膜を悪戯に揺らした。









 目覚めた所は、病院のベッドの上だった。

 目を覚ますなり涙を携えて抱きついてきたのは友人の桃井さつきで、普段からは考えられない表情で周りを囲んでいたのは、慣れ親しんだ同級生達。
 闇色に慣れた視界には、色彩豊かなそれらは中々に強烈だった。

 ぼんやりとした頭で曖昧に笑うと、揃って怒られた。

 「笑い事じゃないッスよ!」から始まり、「こっちの身にもなるのだよ」とか「起きるの遅いんだよ!」とか「まだ寝ていた方がいいです」とか「あ、飴ちん寝ぐせー」…だとか。
 最終的に赤司が簡単にまとめた一言は、「あまり心配をかけるな」とのことだった。

 彼らの話によると、事故にあって一週間、意識が戻らなかったらしい。

 医師から許可がおりて、食欲も戻ってきた時分。
 お見舞いの林檎を頬張りながら、毎日のように顔を見にくる集団の雑談に耳を傾けていた。



「でも無事でよかったです」

「ほんとだよー、心臓止まるかと思ったんだから!」

「さつきとかぶっさいくな顔してたしなァ」

「何言ってるの、大ちゃんだって『いつまで寝てんだよ…』って目赤くしてたじゃない!」

「ば!泣いてねーよ!」

「青峰っち、墓穴ッスよそれ」

「そういう黄瀬ちんもずっと帰らないってぐずって大変だったよねー」

「何でバラすんスかーっ!」

「うるさいのだよ!飴凪は病み上がりだ、身体に障るだろう」

「緑間の言う通りだ。騒ぐなら外に出てやれ」



 賑やかなこの空間が、何故か酷く懐かしく思える。
 ぽっかり空いた穴を埋めていく何かに浸りながら、ただその光景に目を細めた。



「…飴凪さん、楽しそうですね」



 黒子の一言で、我に返る。

 無意識に頬が緩んでいたらしい。
 心配をしてくれる人がいるとは何とも幸せなことだ。

 感謝の気持ちを伝えようと口を開きかけるが、次の台詞に動きを止めた。



「−そういや、不思議な夢視たんッスよね」



 思い出したように零した黄瀬に、心臓が音をたてる。
 不可解なことに、彼が言いたいことが理解できる気がした。



「っ−」



 思い出せとばかりに襲う軽い頭痛。
 それに気を取られている間に、周りが先に反応する。



「−夢、ですか」

「オマエの夢などロクなものでないだろう」

「ヒド!?それはないッスよ緑間っち…」

「…それで、どんな夢だったんだい?」

「あれー、赤ちんが興味持つなんて珍しいねー」

「いや、そんな注目されると何か言うのハズいんスけど」

「いいから言え、話が進まねぇだろーが」

「…前からだけど皆つくづくオレの扱い酷いよね。まあいっか。−誰もいない教室で、ある席の椅子の裏に何かを貼り付けるんスよ」



−っ!?



 その内容に、思わず呼吸を忘れる。
 一気に蘇った記憶が脳をダイレクトに揺らした。

 無意識に握ったシーツに、シワが寄る。
 見開いた瞳が乾燥する。

 こみ上げる何かを抑えつけて黄瀬に続きを促そうと顔をあげるが、その必要はなかった。
 息を呑んだのが、自分だけではなかったことを理解する。



「…きーちゃん、それ、私も視たよ」

「え!?」

「ボクも視ました」

「んー、オレもみたかも」

「マジッスか!?」

「…偶然とは言い難いな。その反応からすると、緑間と青峰もだろう?」

「否定は、しないのだよ」

「オマエもかよ、赤司」

「ああ。不思議なこともあるものだね」



 どこか遠くを見つめるように呟いた赤司と、視線が交わった。

 いつもどおりの聡い双眼に捕らえられて、何を返すでもなく苦笑する。
 色んな意味で秀逸な彼は、何となく感じ取ったのかもしれない。

 そして、自分もうっすらと確信した。
 細かい原理や理由は謎だが、無事に“戻ってこれた”のは恐らく皆のお陰だ。



「…ありがとう」



 空気の粒子と結びついてしまいそうな呟きだったが、七人分のよく似た表情が返された。







キミ再来、アナタに逢える幸せよ


(そういえば、みんなは私の“癖”を知っている)


ゆめゆめうたがうことなかれ、なかれ。








追記:癖=座位で無意識に座面の裏側を触る。意識のみパラレルワールドへ。