◇
−変だ、絶対可笑しい…!
自分の心臓の脈打ちが、全身に響きわたる。
隅から角まで血液が巡っている筈なのに、指先は酷く冷たかった。
閑散とした校舎内の一室で、雅は呼吸を堪えてうずくまる。
今まで隣にあった筈の温度は、なかった。
握り締めた携帯を震える指で必死に操作する。
“give up”の文字を選んで、決定ボタンをタップした。
いつもであれば、『ミッションを中止ししますか?』の確認文章が現れる筈だ。
しかし、暗闇の中でぼんやりと薄光を放つ画面はerrorの表示を突きつけるだけだった。
何度試しても変わらない結果に、世界が滲む。
「っなんで…、なんで“目覚めない”の…!?」
悲痛な叫びを聞き入れてくれる存在はなく、震える音が虚しく空気に溶け込んだ。
こんなことならば、大人しく普通に寝ていればよかった。
後悔の渦に放り込まれるが、今更どうにもならない。
まずは、現状の整理からだ。
一呼吸置くと、再び携帯に意識を戻す。
中止は無理でも、他の機能は生きているかもしれない。
まずは初心に戻ろうと、“説明書”を開いた。
漆黒の背景に、相反する白い文字が浮かび上がる。
『この度はドリームミッションをplayいただき、誠に有り難うございます。このgameはタイトル通り、“夢の中で”“ミッション”をこなしていただく内容となっております。最先端の技術を駆使し、リアル感を追求した新感覚アトラクションゲームです。以下のルールをご理解の上、お楽しみ下さい』
「…、」
現在話題沸騰中のこのゲーム。
何でも、人間の脳の研究をしている教授達の協力を得て開発したらしい。
脳へのアプローチがどうやらこうやら、得意げに話していた中年男性のインタビューを思い出すが、内容なんて華麗に聞き流した為覚えていなかった。
ただ、睡眠中に気軽に楽しめるという事で幅広い年齢層にウケている。
初めは脳への影響はないのかだとか、子供が寝坊しては困るなどの意見も聞かれていたが、話題が話題を呼び、いつの間にやらそれらの疑問は消えていた。
雅も、好奇心に勝てずに友人と始めたクチだった。
−とうとうバグでも出たのかな…災難すぎる…。
ぼんやりとした頭で、箇条書きのルール説明に視線を滑らす。
・耳にクリップを挟んで寝て下さい。このクリップが外れると、脳への電磁波が遮断されるため、内容も中断されます。
・ミッションは二人で行われます。パートナーは同じ時間帯にplayしている方からレベルの近いplayerがランダムで選出されます※毎度変化しますが同じ組み合わせとなることもあります。
・ステージやミッション内容も毎度異なります。
・ミッションをクリアすれば経験値が溜まり、レベルが上がっていきます。レベルが上がれば、特殊能力が使えるようになることもあります。詳細パラメータはmenuからみることができます。
・何らかの理由で途中棄権したい場合は、menu欄よりgive upを選択して下さい。
・タイマーをつけることも可能です。設定時間になると自動的に中断されます。その場合はセーブが可能ですが、対象は経験値と獲得能力のみとなります(ステージ情報やパートナーは対象外となり、データは残りません)。
・クリップの外れによる中断や棄権により途中終了した場合は、そのステージで得たモノはリセットされます。そのパートナーは一人となりますが、ミッションを続行することは可能です。
・同ステージに複数のチームが存在することもあります。ミッション内容によっては協力したり競争することもあります。一定の距離内にいるplayerとは通信可能です。
ひたすら流れる文を見つめていた雅のスクロールの手が、ふと止まった。
“同ステージに複数のチーム”“通信可能”。
二つのキーワードが、脳内で反響する。
理解した瞬間に、searchをかけていた。
元々ゲームなどには疎く、最低限のことしかしてこなかった為、今までは使ったことのない機能だ。
ただ、今の状況ではこれしか縋るものがない。
祈るように睨み付ける検索中の文字が、不意に停止した。
雅が反応するより先に、ランプが点滅する。
「え!?」
一拍遅れて伝わった振動に危うく携帯を落としかけるが、持ち前の反射神経で持ち直した。
慌てて確認した画面には、着信中の通達が出ている。
表示されている名前は“カズナリ”。
自分以外のプレイヤーだと認識した瞬間、通話ボタンに指を滑らせていた。
「っもしもし…!」
『お、繋がった繋がった。いきなりでワリーんだけど今大丈夫か?』
鼓膜を揺らした声に、じわりと水の膜が張る。
抑揚のある音は、確かに人間独特のものだ。
数十分の孤独がまるで何十年にも思えて、震える喉を叱咤した。
「っはい!それより今のこのゲームって…」
『おう、まさしくその話。その感じからするとそっちも大体同じ状況みたいだな。ちなみにパートナーは?』
「それが…、いきなり消えちゃって…」
『それも一緒だわ、オレも今一人。とりあえず合流した方がよさそうだな。幸い、今回のステージは場所分かりやすいし』
「そうですね。今は何階にいますか?」
『…と、確か三階。そっちは?』
「えっと…二階の…一番端っこの教室です」
『了解、行くからそこで待ってろよ』
「あ、はい」
『何があるか分かんねーし、一応繋いだままでいいよな』
「出来ればその方向でお願いします」
機械を通して感じる存在感に、じんわりと指先の温度が戻ってくるのを感じる。
自分と同じ境遇の者がいるか否かでは、天地の差だ。
よかった、これで何とかなるかもしれない。
浅い呼吸を繰り返しながら、覚束ない脚で立ち上がった。
とりあえずは分かりやすいように廊下に出ていた方がいいだろう。
携帯を耳元に構えたまま廊下へと踏み出した瞬間に、思い出したかのように言葉が追加される。
『…あ、あとあんま無闇に教室から出ない方がいいぜ』
「え?それってどういう…」
『何つーか既に普通じゃねぇし、
ざ…ザザ…
−もうゲームは始まってんだから』
「っひ…!?」
突如として強調されたように直接頭の中に響く音。
否、喩えではなく、実際にその音は酷く大きかった。
声の音域は変わらない筈なのに、抑揚が消えたそれは不気味な余韻を雅にねじ込む。
希望だったはずのモノがガラガラと音を立てて崩れ、思わず取り落とした携帯をただ見詰めた。
温度のない廊下に転がった無機質な個体から漏れるのは、淡い光と、狂ったような笑い声。
機械の向こうの“彼”は味方ではなかったのか。
そもそも人間ではなかったのか。
それでは、これから何を頼りにすればいいというのか。
一気に思考を塗り潰す絶望色に泣きたくなるが、ショックが強すぎて涙すら出ない。
「…どう、すれば……」
とにかくは耳障りな音を遮断しようと、思い切って携帯に手を伸ばした、その瞬間。
雅の指先が触れるより先に、ぷつりと全てが停止した。
画面は落ち、笑い声も途絶える。
「…え?」
恐る恐る拾い上げて操作するが、機能には問題なかった。
姿を現した通常通りの待ち受け画面表示に息を吐くと、辺りを見渡す。
数分前と変わらない静寂が、夜の校舎というステージをより不気味に仕立てていた。
ぶり返す恐怖に足が竦むが、この場に留まっていても事は動かない。
あまりのリアリティに忘れそうになるが、これは所詮は夢なのだ。
そう開き直ると、意を決して廊下の奥を見据えた。
手探りだが、こうなってしまっては進むしかない。
先の見えない暗闇に目を凝らす雅の聴覚が、不意に、変化を感じ取った。
「−…、…?」
微かな、幽かな空気の振動。
初めは極限状態からの空耳かと思ったが、徐々に鮮明になるそれに、異常を確信した。
鼓膜を通して刻まれるのは、かの有名なベートーベンの某曲だ。
それが、
…鼻歌で聞こえる。
例えばこれがピアノなどであれば、明らかな怪談現象としてそれなりのリアクションをとっただろう。
だが、鼻歌ではどう対応していいのか分からない。
どんどん近付く、何とも形容し難い音。
上手いような、微妙に外れているような。
そもそも、こんなシチュエーションで呑気に鼻歌など歌う“人”がいるとは思えない。
でも万が一、プレイヤーだったら?
え、これは待つべきですか逃げるべきですか。
思わず固まる雅の前に、それは姿を現した。
同時に、堪らず突っ込む。
「っそれは予想外!」
叫びながら迷わず背を向けた。
暗闇から出てきたのは、人間どころか、生き物ですらなかった。
額縁に入った、噂の有名人。
学校の怪談などでは外せない音楽室滞在のその人が、物憂げに“エリーゼのために”を口ずさんでいる。
学校にベートーベン。
王道なチョイスだが、少々惜しい。
確かこれについては「肖像画の目が光る」だの「演奏を四回聴いたら死ぬ」だの様々な説が詠まれているが、こんな説は聞いたことがない。
経験してしまったからには、世の中のマニアのためにも新たに加えるべきだろうか。
“ベートーベンの肖像画が、鼻歌を歌いながら迫ってくる”
「…何のために!?」
斬新すぎるわ。
形状が形状だけに追いつかれたところで危害が及ぶとも思えないが、逃げる以外の選択肢が持てない。
階段を直前にしてどちらに行こうか迷う雅の頭を、ふと電話の内容が過ぎった。
“−…と、確か三階。”
「っ…は、…下!」
最早実在している人間かも怪しくなってしまったが、わざわざ恐怖を植え付けた存在の元に向かう気にもならない。
咄嗟に一階への階段を選択し、薄明かりの中、勢いに任せて駆け下りた。
何歩譲っても運動神経がいいとは言えない雅だが、これが火事場の馬鹿力というやつか。
ただし、躊躇なく落ちるように降段した為、融通はきかなかった。
一階フロアに佇む、ぼんやりと曖昧な人影に気付くものの、時既に遅し。
「っ−ぇえ!?」
「!」
どんっ。
鈍い衝撃と程良い堅さに、身体が強張る。
じんわり伝わる温度から、接触したのがただの物体でないことは明らかだ。
勿論人間であれば大歓迎だが、“カズナリ”の件もあり、警戒心が少々強固になっている。
確認するのは怖かったが、後ろに控えているものを考えると時間が惜しい。
意を決して瞼を押し上げると、何とも愛嬌のある瞳とかち合った。
「…、」
「あの、すいません。受け止めきれませんでした。怪我はないですか?」
「は!ごめんなさいっ直ぐ退くので!」
思わず呆けていた雅だったが、控えめな声掛けに我に返る。
冷静になってみてみれば、えらい状況だった。
受け止めようとしてくれたのであろう彼が後方にバランスを崩し、その上に乗っかっている状態。
認識すると同時に慌てて腰を挙げようとするが、無茶をしたせいか中々思うように動けない。
焦りが重なり真っ白になる頭を、手に触れた温度が冷やした。
「…ゆっくりでいいですよ」
握られた手の冷たさに一瞬どきりとするが、こんなシチュエーションだ。
恐怖も緊張も当たり前で、己と近い体温に、同じ境遇者であろうことを予測する。
「立てますか?」
安心させるような微笑を前にこくこく頷いたのち、彼の手も借りて何とか体勢を立て直した。
そこで思い出して音速で階段を振り返るが、ベートーベンが追ってくる気配はない。
いつの間にやら、例の鼻歌も消えていた。
しかし、いつ次の怪異が襲ってくるか分からない。
しきりに周りの気配を探る雅に対し、黒子テツヤと名乗った彼は“説明書”の異常を指摘した。
やはり予測に違わず、今度こそplayerの一人だったらしい。
互いに自己紹介を済ませると、同じ学年であることが判明する。
安心感から内心へたり込みそうにながらも、何とか耐えた。
震える指で説明書を開くと、数分前には目にしていなかったリンクが視界に飛び込む。
タイトルは、“変更ルール”。
『恐れながら、“gameの開始”にのっとりルールが一部変更されましたので、ご報告させていただきます』
・途中棄権はできません。
・三名でひとつのチームとします(いちステージにつき三名のplayerが滞在)。
・ミッションは複数同時発表され、条件をクリアすれば新しいものが追加されていきます。ミッションによっては報酬もあります。
・ミッションに失敗した場合、ランダムでplayerのライフポイントが減少します(※リタイア者が出ても、メンバーの補充はありません)
・ルールは予告なしに変更、追加されますのでご了承下さい。
「なに…これ」
容赦のない文字の羅列に、爪先から凍っていくような感覚に見舞われた。
やはり、ゲームのバグだろうか。
とりあえず理解したのは、異常事態に巻き込まれていることと、もう一人仲間を集める必要があるということだ。
「−、もう一人って…」
ふと脳裏を掠めた存在に、携帯に視線を落とす。
しかし、“彼”の変貌ぶりを考えれば、明らかに除外対象だ。
温度のない声色と狂ったような高笑いが蘇り、指先の体温を奪った。
思わずふるふると頭を振る雅に何かを感じ取ったのか、黒子が前髪を揺らす。
「何か思い当たる節があるんですか?」
「え、っと…数分前なんだけど、」
「−…」
「…−」
数分後。
雅から一通りの説明を受けた黒子は、少しの沈黙を作ってから、静かに口を開いた。
「…ひとつ気になる点があるんですが」
「なに?」
「確か、彼の様子が変わる瞬間に少しの間が空いたんですよね?」
「あ、うん。ザザーッと一瞬砂嵐みたいな音が…」
「なるほど。その後は、彼が一方的に笑って通信が切れた」
「そう」
「…もしかしたら、電波に紛れて何かが二人の会話を邪魔したのかもしれません」
「…確かに、そう言われると不自然だったような…」
『あんま“無闇に教室から出ない”方がいいぜ』
『何つーか“既に普通じゃねぇ”し、』
明るめの軽い口調だったが、どこか真剣味を帯びた声。
思い返しても、途中までは−
−彼が彼であるうちは、気遣いの気持ちで構成された台詞だった。
彼は、一体何を体験して、何を伝えようとしていたのか。
いくらパニックに陥ったからと言って、一方的に敵だと決めつけてしまったことに罪悪感を感じる。
あれから音沙汰がないが、彼は大丈夫なのだろうか。
searchの存在に思い当たって再び検索をかけてみるが、引っかかったのは隣にいる黒子のみだった。
もしもあの時、恐怖に打ち勝って会話を続けていたら、何か変わっただろうか。
それよりも、廊下に出ずに大人しく教室で待っていたら…。
又は、階段で三階を選んでいたら…。
ぐるぐる目まぐるしい思考回路に酔いそうになるが、パンッと耳元で弾けた空気に意識が引き戻された。
音の発信源に焦点を合わせると、手を構える黒子が穏やかに瞬いた。
「…黒子君?」
「彼なら大丈夫だと思います。此処でじっとしていても仕方ないですし、とりあえず一度三階に行ってみませんか」
「!そうだねっ」
さり気ない気遣いに心温まりながら動こうとするも、突如その場の空気を割いたメロディーがそれを止めた。
所々音の外れたシンプルな音楽。
出所は、二人の携帯だった。
反射的に画面を見ると、ミッション欄にnewマークが付いている。
本格的にgameとやらが始まるらしい。
隣に視線を移すと、小さく頷きが返ってきた。
彼の方はもう確認したようだ。
意を決して指を滑らすと、三つの吹き出しがテンポよく並ぶ。
【仲間を集める2/3】
【ベートーベンと三回出会う1/3】
【人体模型を完成させる1/5】
「…うわあ」
ステージから十分予想の範疇だったが、見事に学校の怪談系のミッションだ。
二つ目は、考えるまでもなく先ほどの出逢いがカウントされているのだろう。
しまった、逃げるんじゃなくていっそのこと確保しておくべきだったベートーベン。
数ミリ程度の後悔の念を飛ばす雅に、冷静な質問が降りかかる。
「飴凪さん、三つ目の項目ですが、人体模型に心当たりはありますか?」
「…、うーん、ないかなあ。黒子君は?」
「ボクもありません」
「ってことは、」
「はい。もしかしたら、例の彼も既に動いてるのかもしれませんね」
「よかった!そうと分かれば早く合流を…、」
「…飴凪さん?」
心配そうな黒子の呼びかけが、遠く遠くに聞こえた。
目覚ましに救出を求む
(ががが骸骨で心臓が全力疾走のこっちに…!)
(落ち着いて下さい、ひとまず逃げましょう)
あいまいみー、曖昧me!
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