◇
澄み切った空気で、少数の星が瞬きを増している。
漆黒の空を見上げながら、雅はひとつ溜め息を溶かした。
やはり、いつもと変わらない。
−ない。
上ばかり見て歩いていた為、前の人影が止まったことに気付かなかった。
ぱふ。
温度のある背中に鼻をぶつけて、立ち止まる。
「上ばっか見てんじゃねーよ。危ねぇぞ」
「…宮地、寒い」
「当たり前だろ、季節的に」
「いやそれは分かってるんですが」
淡々と返されるリアクションは、いつも通り。
何となくのノリで、二人でぶらっと夜道を散策している今の状況も、いつも通り。
ただ、今日は何かが違う気がした。
蜜のような髪色に瞳を細めて、本日も自分には見えない“それ”を投影する。
「…今日も夜空が輝かしいね」
彼のバックに小さな煌めきだけを見つめながら、世間話の要領で言葉を紡いだ。
いつもなら、そこで一言肯定があって、それで終わっていた会話。
しかし、やはり今日は違うらしい。
少しの沈黙が落ちてから、日常で聞くより低めの音が空気を伝った。
「…嘘つくなよ」
「何が?」
「見えねぇもんの話をすんなって」
「…なに、言ってるの宮地」
背中を向けたままの彼の言葉に目を見開く。
あまりに開きすぎて、眼孔から夜の闇が侵入してきそうだ。
見えないとは、宮地にも見えていないということか。
今日の“それ”は雲で隠れているとでもいうのか。
思わず再度頭上に視線を戻すが、雅の目にはちらちらとまばらな星が輝くばかりだった。
その動作すらお見通しとばかりに、彼の自嘲を含んだような笑いが鼓膜を震わせる。
「オマエの見てる空にはないよな、…“月”」
疑問符もなく言い切った宮地に対して、言葉は出なかった。
それが、事実だったからだ。
昔々、ある時を境に、雅自身の世界から、月が姿を消した。
初めはただ隠れているだけだろうと気にしていなかったが、流石に半年、一年と続けば異常に気付かないわけにはいかない。
周りにもさり気なく確認したが、自分以外の目には月は存在していた。
月が見えなくなったなど、一体何人が信じてくれるだろう。
結局、誰にも言えずに過ごしてきたのだ。
勿論、宮地にも伝えたことはない。
彼が、知るはずがなかった。
−戸惑う雅の視界が、不意に狭くなった。
同時に頭と背中からじわりと伝う温度に、抱き締められているのだと認識する。
「ちょ、宮地…!?」
彼らしかぬ行動に慌てて抵抗するが、加えられている力は緩やかな癖に、体勢を変えることは叶わなかった。
僅かに掠れた声が、耳の中に沈む。
「…わりぃ飴凪、オマエから月を奪ったのは…オレだ」
ぴくり。
−己の腕の中の温度が小さく身じろぎするのを、宮地はぼんやりと感じた。
“あの時”の情景が鮮明に甦る。
月の綺麗な夜、年相応の不確かな闇を抱えて家を飛び出して、辿り着いた先。
空を見上げてきらきらと煌めく見知らぬ少女の表情に、一瞬全てが吹っ飛んだ。
我にかえったその後には、羨望と嫉妬が渦巻く。
自分に足りないモノを突きつけられたようで、訳も分からず苛々した。
『…何見てんだ?』
『え?月だよ、ほら』
『月…?』
『今日はいつもより輝いてる。空が輝かしい!』
星達も眩しそう。
夜に溶け込みそうな漆黒の髪を軽やかに揺らしてクスクスと笑う。
喜びに染まる笑顔に比例して、自分の胸の中は真っ黒に塗りつぶされた。
何でそんな顔ができるんだよ。たかが月だろ?いいよな、悩みもなさそうで。上ばっかみてないでこっちを見ろよ。オレがこんなに悩んでんのに。自分がこんな顔をさせることができたら。
−月なんて、見えなくなってしまえばいい。
一斉に飛び交う感情にかき回されて、次の瞬間には両手で少女の双眼を覆っていた。
手を退けた直後の、自分を映す驚きに瞬く瞳が忘れられない。
その時はまだまだ子供で、自分のしたことの重大さが理解できていなかった。
元々偶然の出会いで、結局、彼女とそれっきり会うこともなかった。
月を失ったあの子はどうしているだろう。
心の隅でわだかまりを引っ掛けながら、もう会うこともないだろうとさえ思っていた。
だから、高校での再会には一瞬どころか半年ぐらい自分の目を疑った。
あの時と変わらず、夜空のような髪を揺らして、楽しそうに笑む彼女。
当初は、ホッとする反面、興醒めもしていた。
自分があれだけ気に病んでいたのに、当の本人は何事もなかったかのように笑っている。
結局、月は彼女にとってあってもなくてもいい存在だったのだ。
月を愛しむ表情に心奪われ嫉妬した身としては、どこか腑に落ちなかった。
しかし、もう関わらないでおこうと心に決めるや否や、それがとんだ勘違いであったことに気付く。
『雅見て見て!今日は満月だよ』
『あれ、何か今日の月変だよねー。赤みが掛かってる…』
『ちょっと、今日の月なんか口に見えるよ。空が笑ってるみたい!』
帰り道、彼女の周りが月を見てはしゃぐ度に、髪とお揃いの漆黒は静かに夜空を映し出した。
一番の輝きを目線だけで探しては、見えない筈のそれに肯定を返すのだ。
『…うん、そうだね』
数年前とは似ても似つかないその色に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
そんな悲しい笑顔をさせたい為じゃなかった。
させるつもりもなかった。
ただあの時は、自分の時間を止める程の色彩を少女から引き出す月が羨ましくて、邪魔だった。
今思えば、ただの幼稚な独占欲だ。
そんな一時の身勝手な感情で、
−彼女から、月を奪った−。
「−…知ってたよ」
涼やかな笑いを含んだソプラノに、一気に意識が引き戻される。
思わず腕の力が弱まり、見計らったかのように彼女との間に空気が入り込んだ。
先程とは打って変わり、小さな頭をガン見する。
「……は?」
「嘘だけど」
「ふざけんなよコラ、轢くぞ」
「あははは」
拍子抜けとばかりに肩を落とした宮地の胸元に視線を留めたまま、雅は薄く微笑んだ。
懐かしむように、双眼が細まる。
「でもね、昔一度だけ…宮地と会ったことは覚えてるよ」
「…マジで覚えてんのか?」
「覚えてる。満月と、噴水と、公園と、同じ年くらいの男の子」
並べ立てたキーワードに、彼が息を呑んだ。
再会した時に自分が胸躍らせたことなど、相手が知るはずもないだろう。
数年間、忘れた日などなかった。
夜を感じる度に脳裏を掠める、月を受け継いだような髪。
あの夜、いつも以上に夜の世界が輝いて見えたのは、心奪われていたのは、一人の少年の影響だった。
確かに月とのかくれんぼが始まったのは、彼と出会って別れたあの日。
実は少年が月の分身で、彼がいなくなったから本体も隠れているのだと、そんなファンタジックなことも考えていたのだけれど。
「まさかほんとに宮地が月の分身だったなんて」
「いや、意味分かんねーんだけど」
「うーん、こっちの話」
これはまだ言わずにおこう。
見上げるなり悪戯に歯を見せると、面食らったような顔をしたのち、視線を反らされた。
「オマエは…怒んないんだな。月、ないと寂しいだろ?」
「うんまあ…物足りないっちゃ物足りないよね。でも困るほどでもないかなあ」
「そんな返事なら返してやんねーぞ」
「え、返してくれるの?」
「オマエが望むならな」
「ふーん…私は、宮地がいてくれるなら月はどっちでもいいよ」
「…何言ってんだ」
呆れたような、期待に染まるような、不可解そうな、様々な気持ちの入り交じった視線。
彼の瞳は、まるで絵の具を乗せたパレットのようだ。
落ち着いているように見えて、実は誰よりも激しい感情を常に秘めている。
様々な想いをぶつけ合っては、内に留めて、その全てが自分の生み出すモノなのだと受け入れている。
正直、一目惚れから始まったような恋だが、今となってはそんな強さが彼の輝きの源なのだと理解していた。
手を伸ばしても、届きそうで届かない。
月に対しての憧れは、昔も今も変わらない。
そして、彼はそんな月に似ている気がする。
その輝きも、儚さも、力強さも。
「…私にとっては、宮地が月みたいなもんだから」
今度はわざと視線を横にズラしてから呟いた。
案の定、逆に宮地の目線がこちら側に向いたのを視界に捉える。
ここぞとばかりに焦点を合わせると、眉を顰める姿と巡り会えた。
不機嫌そうにしているが、うっすら赤らむ肌が伝えるのは、恐らくその逆の感情だ。
「オマエな…恥ずかしくねぇのかよ」
「あれ、照れてるの?」
「……別に」
些細なやり取りができることが、堪らなく嬉しい。
照れ隠しだろう。
再びはぐれてしまった視線を取り戻そうと、服の裾をちょいちょい引っ張った。
「そうだ、月が見えないと困ることひとつあった」
「何だよ?」
「返せるなら返して今」
「唐突だなオイ」
驚き半分、呆れ半分といったところだろうか。
どちらにしろ、雅が拒否しない限りは“返す”つもりだったのだろう。
彼女の意志を受けるなり、宮地は少しだけ唇の両端を引き上げた。
−やっと、やっとだ。
ずっと返し損ねていた、彼女の大切なもの。
名残惜しいながらもその華奢な身体を完全に解放すると、背中に回していた手は肩に移動する。
幼い時とは異なり、大きく男らしく成長した手。
今では、片手で彼女の双眼を覆えてしまう。
右手で雅の世界を閉じると、掌にあたる睫毛が微かに震えた。
指先に集った熱が彼女の瞼の方へと移ったのを確信して、ゆっくりと触れる温度を手放す。
与えた熱の所為か、視覚を遮断している彼女の睫毛には潤いが滲んでいた。
柄にもなく動揺する自分を叱咤して、冷たくなった指先で左目の雫を攫う。
「−返したぞ。目、開けろよ」
その言葉に応えるように、ゆるりと瞼が押し上げられた。
酷くスローモーションに思えるそれは、第三者から見ればどうなのだろうか。
現れた黒眼が、宮地を通して夜空へと投じられる。
ぱちりと瞬いた瞬間に、右目から一筋の涙が頬を滑り落ちた。
「…見えたか?」
「…−うん、見えた。今日は満月だったんだね」
「ああ。悪かったな、何年も」
「大丈夫だよ。それより宮地、」
「ん?」
右頬の涙跡を親指で拭ってやっていると、その手が白い温度に捕まる。
きらきら。
濡れて月の光を反射する鏡のような黒に、時間を止められた。
そこに映り込む自分の髪色が、まるで−…。
「−『月が、綺麗ですね』」
彼女の唇の動きに合わせて、空気の振動が鼓膜に伝染する。
ストンと、身体中の細胞に溶けて解けて吸収された音。
いつかの焦がれて止まなかった表情がそのまま自分に向けられたのを認識して、考えるより先にその腕を引き寄せた。
ああ、あの時と何一つ変わるものか。
(だって、月が見えなきゃできない告白法でしょ?)
(次はオレに言わせろよ)
それは月とお星様の話。
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