◇
突如背後から掛けられた声に、雅は足を止めた。
「−飴凪先輩、今いいですか?」
「…どうぞどうぞ花宮君」
冷や汗混じりにそろっと振り向けば、優しげに微笑む後輩。
しかしその素顔を知ってしまった眼で視れば、それは歪んだ笑みにしか映らない。
手早く視線だけで周りを確認するなり、手頃な空き教室に滑り込んだ。
人の少ない特別棟だったのが救いだ。
続いて花宮が入ったのを見計らって扉を閉めれば、瞬間的に距離を詰められる。
「−!」
引っ張られた腕と、狭まった視界と、やや低めの体温。
急に抱き締められるのにはもう慣れたが、相変わらず心臓にはよろしくないなと眉を顰めた。
第三者から見ればまるで恋人同士のようなその行為も、当事者達からすれば一般的にいう甘い雰囲気は微塵もない。
抱き返すでもなくぼぅっとその温度に身を任せていると、苛ただしそうな音が耳元で振動した。
「…−ちっ、全然“貯まって”ねぇな。オマエ心あるのかよ?」
「うん、君にだけは言われたくない言葉だね」
先ほどの慎ましい態度はどこへやら。
どう譲っても良い性格とは言えないであろう彼に向かって困ったように笑むと、溜息と共に空気が動く。
解放された身体を緩やかに伸ばした雅は、特に意味もなく窓の外に視線を投げ打った。
そんな彼女にやれやれと首を降って、花宮もその視線を追う。
「今日も何の進展もなかっただろうが。そろそろオレの言うとおりに動けよ」
「そんな積極的になれたら今までだって苦労してないし。それに初めに言ったよね。私は別に両思いは望んでない」
「ふはっ、オレだって言ったはずだぜ?オマエの気持ちなんてどーでもいいんだよ。要は意中の男とくっつけるかどうかが問題だからな」
「はいはい、本日も素晴らしい“キューピッド”ぶりで」
どこか遠い眼をする雅の言葉は、所謂喩えではなかった。
目の前でダークにほくそ笑む彼は、正真正銘、“恋のキューピッド”と呼ばれる類のものだ。
神話などで恋の矢を射る、まさしくアレである。
大切なことなので二回言うが、喩えではない。
−学年の異なる自分の耳にも入るくらいに頭脳明晰な彼のことは、存在は知っていても面識はなかった。
そんな人物に唐突に呼び止められただけでも驚きなのに、二言目には『オマエ今好きな男いるだろ?協力してやろうか』だ。
動じない人間がいるのならお目にかかりたい。
戸惑う雅に構わず続けて落とされた爆弾が、例のキューピッド発言だった。
−え、この子大丈夫?勉強のしすぎ?
初対面とも言える間柄で衝撃の正体を明かされた時には、真っ白になった頭で彼の額に手を充てたものだ。
優等生で有名な美青年に『…熱なんてねぇよ。心配すんなら自分の頭だろうがバァカ』なんて毒を吐かれてショックを受けた記憶は、きっとこの先も消えないだろう。
しかし、一体誰が、今時そんな乙女チックなものの存在を肯定するものか。
しかもそれを宣言しているのが類い希なる秀才の後輩ときた。
加えて言うならば、その性格と職業にギャップが有りすぎだ。
新手の冗談かとも考えたが、少し会話するだけでも、相手がそんなお茶目な性格でないことくらいは理解できる。
面倒そうに説明してきた彼の話によれば、現代のキューピッドの“きゅう”には求・救・給・吸・及と様々な意味を含むらしい。
恋する乙女を救って愛を与える代わりに、その結果女性が得た“ときめき”や“充実感”を栄養価として吸収する。
つまりは女性を意中の男性とくっつけることが、彼らの使命であると同時に生きる糧となっているのだ。
数多く存在する女性陣の中から選ばれた身としては栄養摂取に協力してやりたいのは山々だが、何せ積極性もなければ、そこまで強い想いもない。
これといった進歩もなく一ヶ月を迎えようとしていた為、とうとう彼にも限界がきたらしい。
不機嫌丸出しの表情で、スルリと双眼が細められた。
「ったく、オレを餓死させる気かよ」
「…普通の食事も採れるんでしょ?」
「それとはまた違ぇんだよ。つくづくとんだ人選ミスだぜ」
「じゃあ他の人に替えたらいいのに…そもそも何で私だったの?」
愚痴も交えてポロリとこぼした問いかけは、ずっと不思議に感じていたことだった。
片思い中の女の子なんて、校内だけでもよりどりみどりなはずだ。
可愛くて積極性のある子の方がくっつける方も楽だろうに、何故よりによって引っ込み思案の平凡顔を選んできたのか。
自分自身の出した評価に軽く落ち込んでいると、ハッと嘲った音が応えた。
「恋愛経験がない奴ほど栄養価が高いからな。視た限りじゃ身近な人間ではオマエが一番栄養価が高かった」
「あはは、なるほど花宮君は私が傷付かない人間だと」
オブラートに包む努力が微塵も感じられないストレートな物言いに、空笑いを洩らす。
ひとつ謎が解けた。
確かに恋愛経験の低さが高カロリーに繋がるということであれば、自分が目を付けられたのも頷ける。
生まれてこのかた大したときめきもなく過ごし、思春期の今となってやっと憧れ程度の相手が見付かった、そんなレベルだ。
元々そういう面に対しては淡泊な性格だったのか、異性との接触にも何も感じないことが多い。
例えば彼の“蓄積栄養価”を測る為の、抱擁といった行為にも動じずに対応できている。
そもそも、このシステムも如何なものかと悩んだことはあった。
内面はどうであれ、花宮も一般的に見れば美形の部類である。
確認はとれていないが、彼以外のキューピッドとやらも同じようなスペック持ちならば、寧ろその存在自体が恋の妨げになりそうだ。
イケメンに抱き締められたら、恐らく大抵の女子はくらりとくるだろう。
全く罪作りなキューピッドがいたものだと他人事のように遠くを見つめた。
しかしながら、不意に視線を感じて顔を戻せば、じっと此方を捉える双眼とかち合う。
短い付き合いながら、この雰囲気は知っていた。
何かを企んでいる時の瞳だ。
「何かな花宮君」
「−いや、何もわざわざあの男とくっつける必要はなかったな」
「すいません今までと言ってることが180度違いますが」
キューピットらしかぬ発言と勝ち誇ったような表情に、無意識的に後ずさる。
そんな雅を逃がすまいと、その白い温度を捕らえた。
「たらたらウジウジとウザいんだよ。オマエがオレを好きになれば話は早いじゃねぇか」
「そんな横暴なキューピッドがどこにいますか」
ご利用は計画的に、恋は偶発的に
(…でも正直な話、確かにそっちの方が効率よさそうだったりして)
(今までの奴らと何となく違うことだけは分かった)
方向音痴の矢と弓と。
(お題配布元:mikke様)
←→