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 目の前の光景に、雅は絶句した。

 手を伸ばしかけていた教室のドアをこれでもかと言うほどに見つめる。
 穴でも開けてやろうかという勢いで見続けるが、それが消えるなんてことにはならなかった。



「…んん?」



 ドアの取っ手部分を伝う、未知の生物。
 どろりした半透明の桃色の本体には、似つかわしくないリアルな目玉が二つ着いている。
 あろうことかそれらと視線がかち合ってしまっているこの状況で、どう対応したらいいというのか。



「…、」



 特に深い意図もなく、真新しい眼鏡を外した。
 昨日新調したばかりである為、そのレンズの具合のせいだと無理矢理な現実逃避をこじつけたかっただけなのかもしれない。
 しかし、それがあながち外れていなかったことに気付かされる。



「…あれ、えー……、え?」



 いつものぼやける世界に、桃色は移らなかった。
 あるのは現実的な普通のドアだけだ。
 首を傾げて再びレンズを目元に掲げると…、



「…どういう仕組み?」



 いた。

 クリアな視界でぱちぱちと可愛らしく瞬きを繰り返すそれは、雅の疑問に応えるように、にんまりと笑う。
 何とも言えない悪寒に包まれ、眼鏡を瞳から引き剥がした。
 ひとまずこの場から離れようと踵を返した、次の瞬間。

 陽気な声が雅の足を引き留める。



「あっれー、飴凪さんじゃん!朝早すぎだろ。何か部活入ってたっけ?」

「高尾、うるさいのだよ。もっと声を抑えろ」

「…高尾君に、緑間君…?」



 聞き覚えのある声に、曖昧なピントを合わせようと瞳を細めた。
 その様子が滑稽だったのか、面白そうに喉を鳴らした高尾が近付きながら手をひらひらと振る。



「オイオーイ、見えてるー?」

「あ、ごめん…ちょっと見にくくて」

「だろうな。何故眼鏡を外している?」



 後から続いた緑間にも意識を向けるが、特に驚く様子もなかった。

 問題のドアはすぐ隣だ。
 何もリアクションがないところをみると、やはり非現実的なソレは自分にしか見えていない。
 そして、現時点ではこの眼鏡が原因に違いない。

 正直に言っても気味悪がられるだけだろう。



「レンズが、曇っちゃって…」

「…ふーん、眼鏡っ子は大変だよなー真ちゃん」

「黙れ高尾」



 咄嗟の言い訳に対し、高尾はケラケラ声をあげて豪快に緑間の背中を叩いていた。
 そんな同級生二人の様子をぼーっと見つめるが、ふと彼らの視線がドアへ動いた気がして、心臓が高鳴る。


−で、さっきの質問の続きだけど。


 一般的な切り出しの筈なのに、何故か脈打ちが酷く全身に響いた。



「飴凪さんは部活入ってんの?」

「…ううん、入ってないよ。今日はたまたま早く起きたから」

「マジ?オレだったら二度寝するわ」

「オマエは少し飴凪を見習え。もっと人事を尽くすべきなのだよ」

「あーハイハイ、真ちゃんはホントそればっかだよなー」



 どくん、ドクン。

 二人の会話が遠くに聞こえるような感覚。
 何となくだが、今、ドアの方を視てはいけない気がした。
 あの不思議生物と視線を出会わせてはいけない。

 本能に従って俯く雅に何を思ったのか、高尾が腰を屈めて顔を覗き込んできた。



「っ…!」



 端正な顔が視界いっぱいに映り込み、思わず一歩後退する。

 その拍子にバランスを崩すが、ひやりと手首を掴んだ温度が後ろに倒れることを許さなかった。
 継いで、腰に回された腕。
 助けられたのは分かっているのに、何故か捕らえられたような錯覚に陥る。

 恐らく、何もかもを見透かすような彼の瞳がそう感じさせるのだろう。



「あ、の…っ」

「と。ワリーワリー、吃驚したよな。眼鏡かけてない飴凪さんが新鮮だったからさ。…少し勿体無い気はすんだよなあ。コンタクトとか考えない?」

「えぇ…」

「口説くな。飴凪が困っているだろう」

「真ちゃんこそ素直になれって。オマエも絶対こっちのがいいって思ってるだろー?」

「茶化すな」

「相変わらずつれねーなあ。まあこんなとこで立ち話もなんだし、教室入るか」

「!…、」



 顔に熱が集まるのを実感しながら固まっていた雅だったが、高尾の一言で我に返る。
 何せ自分が教室を後にしようとした理由は、正にそのドアにあるのだから。


−どうしよう。


 トイレなり図書室なり、理由をつけて一人逃げるのは簡単だ。
 しかし、このままの流れでは二人はそのまま室内に入ってしまう可能性が高い。
 例の物は出逢いから不変であればドアの取っ手部分を覆っている筈だった。
 触れたとして、何も害はないのだろうか。

 どうにか彼らを教室から引き離せないかと必死に思考を巡らせるが、焦りで上手く考えが纏まらない。
 カタカタと微かに震える振動が伝わってしまったのか、未だに雅の手首に触れたままの高尾の瞳が静かに細められた。



「…飴凪さん、顔色よくねーけど。やっぱ教室入って休もうぜ?」

「その方がよさそうだな」

「っあ、待って!」



 心配からかこちらの顔を窺う緑間の手が白い扉に向かって伸びた瞬間、堪らず叫ぶ。
 普段から大人しく振る舞っているせいか二人がギョッとしてこちらを凝視したのを感じるが、構っている暇はなかった。

 せめて、安全が確認出来れば。

 恐怖で冷え込んだ指先を叱咤して、先程解放されたばかりの腕を持ち上げる。
 眼鏡をセットするなり恐る恐る焦点を扉に合わせ…、



「…あ、れ…?」



 数回、ぱちりぱちりと瞼を上下させた。

 全ての輪郭が明確で、より色彩鮮やかな世界。
 そこに異質な存在は見当たらない。
 もしや、寝ぼけていただけだったのだろうか。
 記憶が鮮明すぎて腑に落ちないが、現実でなかったのならそれが一番いいに決まっている。

 体内の力が一気に抜け床にへたり込みそうになるが、それこそ変な子だ。
 脚に力を入れて踏ん張っていると、労るような音が鼓膜を揺らした。



「…飴凪?」

「へ!?」

「大丈夫かー?」

「あ、うん。いきなり大声出してごめんね?ちょっと寝不足で」

「ぶは!寝不足だと大声あげんの?いやー、でも飴凪さんもあんな声出せるんだな」

「出来れば忘れてほしいかも…」



 落ち着いてきた今、思い返すと羞恥心で発狂してしまいそうだ。
 耐えきれず、苦笑いをこぼしながら視線を落とす。

 落とした先−すぐ足下に、パタリと何かが広がった。



「…−え?」



 それが何かと認識するより先に、無意識的に天井を見上げる。
 それが、失敗だった。
 吐きかけていた安緒の溜め息が逆流し、ヒュッと喉が鳴る。

 次の瞬間、雅の唇からは水分不足の悲鳴が掠れ出た。



「っひ…!?」



 何故今まで視界に入らなかったのか。

 頭上いっぱいに疼く、桃色の物体。
 数分前に視たソレであることは確かだが、明らかに大きさと形状が異なってきていた。

 愛らしく瞬いていた両目は見開いて血走り、なかった筈の大きな唇からは不揃いの歯がギラリと覗く。
 餌を前にした獣のように大きく開いた口から、唾液のようなものが滴っていた。
 先程落ちてきたのの正体はこれらしい。

 石のように硬直する身体に反し、頭は割と冷静に働いていた。
 もしかしてこのまま降りてきて食べられたりするのだろうか。
 他人事のように考える反面、急速に回転した頭に、ソレを認識していないであろう二人の存在が過ぎる。

 その瞬間、雅の意識は彼らを探した。
 どちらにしろ此処に滞在するのは危険だ。



「っ…っ!ぁ、」



 変な収縮が入り使い物にならない声帯に、視界が滲む。
 何とか彼らに伝えなければ。
 焦れったさと恐怖と消失感で、脳内が塗りつぶされた。

 ぎゅっと視界を閉じた一瞬、同時にふわりと温度に包まれる。



「−そのまま、じっとしてな」

「た、かおく…?」



 トン。

 背中が壁に着き、反射的に開けた視野は漆黒で染まっていた。
 それが高尾の学ランだと気付くのに時間は掛からず、庇うように被さられていることを知る。

 慌てて見上げると、いつもの軽い笑みはなく、鋭い視線が上を睨みあげていた。



「…え、見えて…?」



 雅の疑問に答えるように、視線が戻る。
 ニッといつも通り唇の両端を吊り上げた彼に安心するも、状況が呑み込めなかった。
 そんな雅の心境を察したのか、高尾は少しバツが悪そうに口を開く。



「まあ…厳密に言うとぼんやりとしか見えねーんだけどな。“捜索専門”のオレでもこんな調子だから真ちゃんなんかはホントに影か気配くらいだと思うぜ」

「捜索…?っあ、緑間君は!?」

「詳しい説明は後ですっから。ちなみに真ちゃんはあっち」



 高尾の示す方向−先程まで自分がいた位置に平然と佇む緑間を確認し、目を見開いた。



「え、危な…!」

「平気平気、ここは真ちゃんに任せとけって」



 ああ見えて超強ぇし。

 どこか楽しげな彼の言葉に耳を傾けていると、肌に空気の振動が伝った。
 パァン、と何かが弾けるのを感じるも、肝心なモノが認識できない。
 曖昧で確かなそれに目を見張る雅の前で、桃色の物体が波打った。

 思わず凝視すれば、所々に陥没した部分がある。
 まるで透明な銃弾を撃ち込まれたかのような痕−。

 そう考えるのと、その凹みが修正されていくのはほぼ同時だった。
 みるみる平らになるその姿に、溜息と舌打ちが交差する。



「あーあ、やっぱそう簡単にはいかねーか」

「ちっ、これだからスライム型は厄介なのだよ」

「スライム型…」



 忌々しそうに落とされた呟きに、まじまじと対象物を眺めた。
 確かに、その密着してへばり付くような独特な性質は、スライムと呼ぶに相応しい。
 それにしても、見れば見るほど違和感の塊だ。

 クリアピンクと色だけなら綺麗と言わざるを得ないのに、それを相殺して余るほどのリアリティ溢れる目玉と唇。
 そしてやっぱり、あちらとは執拗に視線が絡む。
 妖しく煌めく茶色眼が笑った気がして、どこかから沸き起こる嫌悪感に眉を顰めた。

 その睨めっこに対し、クツクツと耳元で空気が震える。



「おーおー、見てる見てる。オレらなんか眼中にもねぇってか。つかアイツ飴凪さんのこと見すぎだろ!」

「攻撃を受けながら完全無視とはな。つくづく勘に触る」

「…あの、」



 ギャハハと、高尾の盛大な笑い声が廊下に響いた。
 何がそんなに面白いのか理解不能だ。
 あまりの彼のツボりように、真意を汲み取ろうと未知生物から高尾へと焦点をずらす。

 それを見計らったかのように、天井に向いていた筈の漆黒眼が戸惑う雅を映し出した。



「−…ところで飴凪さんさ、“アレ”が視えんのその眼鏡のせいだと思ってんだろ」

「え!?違う…の?」



 完全にそう確信しつつあった雅は、その否定的な台詞に動揺が隠せない。

 実際にこれを掛ければ非現実的なモノが存在するし、裸眼で見れば日常に戻る。
 誰がなんと言おうと、その経験は事実だ。
 現に、この眼鏡に代えるまで、こんな変なモノなど見たことがなかったのだから。

 雅の言いたいことは既に汲み取っているのか、高尾は日常会話のノリで前髪を揺らした。



「今日会った時から気になってんだけど、眼鏡代えたよな?」

「うん、今まで使ってたの壊しちゃったから…」

「“壊した”、ねぇ…。因みに今までの眼鏡とその眼鏡、作った奴違うんじゃね?」

「確かに違う、けど…」



 吟味するような復唱と確信じみた問いかけに、無意識に警戒心が芽生える。
 彼のその読みは間違っていなかった。

 小学生で視力が落ち眼鏡が必要になった雅の眼鏡は、当時から眼鏡屋を営んでいた祖母がずっと面倒をみてくれていた。
 しかし、去年その祖母が他界したのだ。
 急な病死だった。

 彼女が最後に手掛けた眼鏡も形見だと大事にしていたが、とうとうガタがきたらしい。
 朝、掛けようとした瞬間にいきなりレンズに皹が入った時の衝撃は、記憶に新しかった。
 もう手掛けてくれる祖母はいない為、泣く泣く近くの眼鏡屋に初来店したのだ。

 そこまで思い出して、ふと過ぎる違和感。
 彼の言わんとしていることが分かった気がした。



「…何となく気付いたと思うけど、特殊だったのは寧ろ前までの眼鏡なんだよ。普通の眼鏡になったことで、本来の飴凪さんの“視力”に戻っただけの話」



 何でも、レンズなどを通すことで不可思議なモノを視る瞳があるらしい。
 しかし媒介を通さなければ一般人と変わらぬ視力である上、基本的には年を重ねるごとに力は弱化していく為、一生気付かずに終えていく人間もいるのだとか。
 そして、その能力を抑える媒介を創れるのは、同等の能力を持つ人間だけ。

 そこまで聞けば、困惑している今の頭でも理解できた。

 予測が確信に塗りつぶされていく。
 薄く笑う彼の話に、眩暈がした。
 そういえば、祖母は霊感が強かったと母から聞いたことがあった気がする。

 ぼんやりと記憶を起こしながら歪む桃色を眺めていると、頬を伝う水分を冷たい温度が攫った。



「貴重なんだぜ、その眼は。特に俺の眼と相性いいから飴凪さんがいればぶっちゃけ死角なしなんだわ。まあ今後のことは後々決めるとして、…今はアレ何とかすんのに協力してほしいんだけど」



 オレらが絶対守るから。

 その言葉に頷いてしまったのは、彼らの真摯な瞳のせいか。
 とりあえず、今日は帰ったら夕食を自棄食いして逆上せるまでお風呂で温まってベッドにダイブして爆睡しよう。

 そんな未来図を描きながら握り返した手は、じわじわと熱を伝えた。







逢わなくちゃいけなくて
(俺たちが出会うのは運命だったのだよ)
会いたくて
(まあぶっちゃけ一目見た時からこうなんのは分かってたんだけどな)
遭いたくなかった
(日常カムバック!ついでにおばあちゃんも帰ってきて)