◇
「…へ?」
黄瀬は教室の扉に片手を掛けて立ち尽くしていた。
できればそのまま閉ざして見なかったことにしたかったが、当事者の片方が知り合いであった為にその選択肢は虚しくも消え去る。
放課後のため空き部屋と化した、夕日色に染まる一室には二つの影。
それだけならロマンチックとも言えなくもないが、第三者の視点から見るに、それは明らかに一方的な展開だった。
「−雅ちゃんマジ天使。髪サラサラよね黒髪ストレートとか日本人の鏡だと思うのよ色白だし」
「いやいやいやちょっと待って待って待ってとりあえずまずこの体勢はおかしいと思うんだけど一旦落ち着こう!?」
「あたしはいつでも冷静よ?クールにいかなきゃ雅ちゃんの危機に対応できないもの」
「今まさに最大の危機みたい!ちょ、黄瀬君いつまで傍観者でいる気なの見えてるでしょ助けて助けて助けて助けて」
「えぇええ!?」
そう、今まさに、知り合いである女子がピンチに見舞われていた。
教壇の上、座り込む形で壁際に追いやられ、迫られている。
彼女ー飴凪雅は、今の黄瀬にとって、視界に入れば目で追ってしまう程度には気になる存在だ。
特に目立つところはないが、誰よりも人の変化に敏感で、いつも一番に体調を気遣ってくれる女の子。
異性として、興味と好意を抱いている。
もしも今彼女に迫っているのが男であれば、我も忘れて引き離しに動いたに違いない。
ただ、残念ながら今回はそれには当てはまらなかった。
雅の縋るような視線にどう応えればいいのかと葛藤する中で、一対の意志の強い大きな瞳がグイと睨みつけてくる。
その瞳と同色の柔らかそうな茶髪も、オレンジに染まる滑らかな白い肌も、150センチ満たない華奢な身体も。
噂と違わない美少女−。
そう、片想いの少女を襲っていたのは女の子だった。
しかも、違うクラスの自分の耳に入るくらいの、華やかな容姿の女生徒である。
そして、記憶が何者かに操作されていない限り、その美少女は“笑顔の可愛い天使みたいな子”の筈だ。
…あれ、可笑しいッスね大分誤差があるみたいだけどああもしかして人違いかな美少女なんて何もひとりじゃないしね。
1人自分を説得する黄瀬に向かって、少女がうっすら桜色に色付く唇を開いた。
「…いつまでそこに突っ立ってるの。雅ちゃんが吃驚してるじゃない」
声は砂糖菓子のようだが、響きや口調にはかなりの棘を含んでいる。
先ほど雅に向けていた音とは似ても似つかない。
一癖ありそうな人物だと腰が引けかけるが、想い人の懇願するような視線を無視して去るわけにもいかなかった。
「あ…っと、ごめんごめん。邪魔するつもりはなかったんスけど、ちょっと話があって。今いいッスか?」
ニコッと表情をモデル仕様の笑顔に切り替えて、教室内に足を踏み入れる。
この二人を対象とするならば、自分が用があるのは明らかに雅だ。
しかしそのまま彼女を指名しようものなら、隣から溢れ出るおどろおどしいオーラの持ち主の逆鱗に触れるのは確実だろう。
姉を持ち、恵まれた容姿と才能で女性に囲まれて育ってきた黄瀬にとって、経験を生かしたその判断はごく自然のものだった。
「…−、前から気になってたんスよ、一度ちゃんと話してみたいと思ってて。よかったら今日一緒に帰らないッスか」
意識は本命の雅に向けつつ、隣の彼女を捉えて瞳を細める。
とりあえず雅から引き離すことができれば目的達成だ。
お誘いさえ成功すれば、後は適当に合わせてさよならすれば任務は完了。
あわよくばその後雅と一緒に帰れたら万々歳。
そんな黄瀬の企みを一喝するように、少女の茶髪がふわりと揺れた。
「生憎だけどあたし雅ちゃんと帰るつもりでいるから。二人の時間を邪魔しないくれる?」
「は!?いやいやオレがっ」
雅ちゃんと一緒に帰るんスけど!
反射的に対抗しかけた言葉を寸前で喉の奥へと押し込む。
ここで自分が雅目当てであることがバレれば話にならない。
黄瀬からすれば異性にこんなあっさりと断られた経験がない為多少戸惑うが、迷っている時間はなかった。
ここまできたら手段は選んでいられない。
個人的なプライドも拍車をかけ、何とか雅から意識を反らさせようと、半ば意地になりながら次の交渉に移る。
「じゃ、じゃあ明日は?土曜だし休みッスよね。何も予定がなければ一緒にお茶でも…」
「明日は雅ちゃんとデートだから無理ね」
もしも他の男性達相手であればキュン死させられるかもしれない、甘い表情。
さも当然とばかりに空気に溶け込んだ台詞は、発した当人以外は聞き流せないものだった。
「え、そんな約束してな」
「デート!?」
「超可愛い私服を拝めるのは休日の特権よ」
「いや、だからそんな約そ」
「そんなのオレだって見たいッス!」
「…………、」
あれ、黄瀬君?
雅は呆気にとられた。
救世主だった筈の彼まで会話に乗っているこの状況はどうしたらいいのだろうか。
そもそも、明日は本当に出掛けなければいけないのか。
しかし目の前の彼女ならば冗談抜きで家まで押し掛けてきそうで怖い。
勿論、一度も招待したことなどないが、自宅住所を知られているだろうと確信する自分がいた。
ああ、平和な休日終了のお知らせ。
雅が明後日の方向を見始めたのに気付いたのか、自分の失言に気付いたのか。
慌てたように雅に向き直った黄瀬は、小柄な彼女に合わせるように少し屈んだ。
「冗談ッスよ!?いや半分は本気と言うか…うん、忘れて。とりあえず何とか隙は作るんで、その間に」
言いたいことは分かる。
ヘタレだが優しい友人は、何とか自分を逃がそうとしてくれているのだろう。
その涙ぐましい自己犠牲に胸打たれながら、それに甘えようと頷きを返した、次の瞬間。
小悪魔の呪文が空気を伝った。
「−ちょっと、いつまで雅ちゃんに耳打ちしてるの。いくら小さくて可愛い耳だからって」
「…耳?」
「いや注目しなくていいからそんなマジマジと見て楽しいもんでもないからほらあっち向いて…!」
黄瀬の焦点が彼女の言霊に誘導されたことに気づくなり、慌てて両手で耳を覆う。
しかしそれすら逆効果だったようで、何やら興奮した少女が両手拳にうっとりと熱視線を送ってきた。
「っ流石雅ちゃん、照れる度に真っ赤に染まるその耳に激萌。いつかはその色白で可憐な耳元に私とお揃いのピアスをつけさせてね」
「ごめんちょっと黙って!」
「………、…」
「黄瀬君は何か言ってお願い黙り込まないで」
我慢の限界だったのか水の膜を張り始めた雅の瞳に、黄瀬は我に帰る。
頬を紅潮させて涙目で両耳を抑える姿に正直グッとくるが、現状が現状なだけにそんなことを考えている場合ではない。
いくつかやり取りしている間に確信した。
少女は雅しか見ていない上、自分の雅への気持ちと企みすらお見通しだ。
いくつかパターンを考えたのち、結局は一番シンプルな方法をとった。
「っ雅ちゃん、逃げるが勝ちッスよ!」
「え!?」
驚きの声をあげる雅に構わず、彼女の肩を引き寄せるなり、一気に抱え上げる。
バスケで日々鍛え上げている黄瀬にとって、小柄な部類の彼女を抱えて動くのは可能範囲だった。
「っあの、黄瀬く」
「ちょっと、いきなり雅ちゃんに何するのよ!」
「うん、私重いしさすがにこれは恥ずかしいから降ろし」
「きょどる雅ちゃんが可愛すぎて辛いじゃない…!」
「黄瀬君とても申し訳ないんだけどこのまま全力疾走でお願いします」
「そのつもりッス」
せめて彼のファンに目撃されないことを祈って。
心の底から平和を願いながら、ちらつく金髪を眺めた。
あ、ちょっとお遣い頼んでもいいですか海外まで
(…ところで雅ちゃん、オレのピアス一個余ってるんスけど)
(正常黄瀬君カムバック…!)
痴女、今日も暴走。
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