◇
さてどうしたものだろうか。
広い館内の中、雅は息を潜めて辺りの様子を窺った。
シンと静まりかえったこの空間に、自分以外の存在があるとは思えない。
しかし、確実にこの館の主は屋敷内にいるはずだ。
家族や友人の身の安全と引き替えに“彼”と契約した事項は二つ。
この館に住むことと、血の提供。
ただし、後記については抵抗を許されている。
決められたいくつかの部屋内では絶対手を出さないと約束してくれているし、攻撃するのも構わないと言う。
余裕に裏付けられたその条件を口にした時の優雅な微笑を思い出して、思わず眉を顰めた。
「…吸血鬼にどうダメージを与えろと」
そう、相手は俗に吸血鬼と呼ばれる類のモノだ。
造り物のような端麗な姿に、逆らうことを拒絶するオーラ。
何よりも、全てを見透かすような双眼が苦手だった。
彼ならば何をせずとも女性に−血に困ることなどないだろう。
そんな彼が、何故自分に執着するのかが理解できない。
とりあえずは、手出し禁止に指定されている自室に向かうのが先決だ。
幸いにも今は己以外の気配は一切感じなかった。
もしかしたら仮眠をとっているのかもしれない。
呼吸を半ば止めながら辿り着いた、自室のドアノブに手を伸ばす。
勝利を確信した、その瞬間。
―ぞわり。
一瞬にして背筋を駆け抜けた悪寒と、肌に触れる冷気。
背後に感じる空気は、明らかに変化していた。
一歩でも室内に踏み入れば安全なのは分かっている。
しかし、彼の存在を感じ取ってしまった身体は金縛りにあったように動きを止めてしまった。
急速に温度を失う指先が、後ろから伸びてきた白い手に浚われる。
同時に抱きすくめられるように首もとに回された腕と、ひやりとした温度に、反射的に肩をすくめた。
「−お帰り、雅」
「っ赤司さ…」
恐怖を感じる程の優しげな音域に戸惑うのは、いつものことだ。
わざわざゴール直前で捕らえたのも、恐らくは赤司のお遊びだろう。
結局は全ては彼の掌の上か。
ぼんやりと思考を辿る雅が唇を開くより先に、ゆるりとした生暖かさが首筋を伝った。
「惜しかったね、今日も俺の勝ちだ」
「っ…、…」
直後、チクリと針でつつくような痛みが肌を刺激し、無意識に強く視界を閉ざす。
実際ならもう少し痛みそうなものだが、毎回牙を立てる前に舌を這わすあたり、唾液に痛覚を麻痺させるような作用があるのかもしれない。
数十秒もすると満足量に達したのか緩やかに温度が離れた。
空気に触れ寒さを主張する部位を撫でつけるが、やはり今回も既に傷は見当たらず、本当に吸血行為があったのかと首を傾げそうになる。
そんな雅に対し愉しそうに口角を上げるだけの赤司は、きっと説明を求めれば丁寧に解説してくれるのだろう。
ただ、雅は一度も問いかけたことはなく、これからも聞くつもりはなかった。
確認したところで現状が変わる内容でもないし、吸血鬼について質問することで彼に深入りしてしまいそうで嫌だった。
しかし、今日はひとつ返答が欲しい疑問を持ち帰っている。
「…赤司さん」
「何だい?」
「私の血って、普通ですよね」
「ああ、これと言って特別なことはないな」
「世の中にはもっといい血もあると小耳に挟みましたけど、何故私みたいな普通の血を求めるんですか?」
契約当初から不思議に感じていた。
初めに彼のターゲットとなるはずだった友人は、同姓の自分から見ても美人だった。
見た目麗しい女性を捕虜として手元に置いておくのなら理解できないこともないが、自分は至って平凡だ。
特にこれといって秀でた才能があるわけでもない。
考えれば考えるほど、己の残念さに落ち込むだけだ。
それでも何か血液に特殊さがあるのだろうかと、期待をしなかった訳ではない。
面倒事に巻き込まれるのは御免だが、他人にはない特別さに憧れるのは人間の性だ。
しかし、それすらも本日の“偶然の出会い”によって打ち砕かれた。
『あれー?思ったより…ってか全然フツー。相変わらず赤ちんの考えってワケわかんない。どうせならもっといいの飲めばいいのに』
間延びしたゆるゆるの台詞の、攻撃力の高さと言ったら。
今思い出しても、何となく沈んでしまう。
自ら望んで血を捧げているにはないにしても、あからさまに落胆の眼差しを向けられれば流石に傷つく。
私が一体何をした。
遠い目をする雅の耳に、静かな溜息が届いた。
「…紫原か、仕方のない奴だ」
「っえ!?なん……、ってそうじゃなくて!」
相手を言い当てられた事に驚愕するが、欲しい答えはそれではない。
珍しく身を乗り出す彼女に対し、赤司はただ薄い笑みを張り付ける。
「俺は自分の好きなようにしているだけだからね、誰にも口出しさせるつもりはない」
「あの、答えになってないんですけど」
「そのうち分かるさ」
む。
納得いかないと眉を顰めると、再度ナチュラルに手をとられ、前髪を揺らした。
「赤司さん?」
「…そんなことより、中に避難しなくていいのか?」
「はい?」
「此処は手出し禁止領域に含まれないが」
不意に唇を寄せられた薬指に、昼間の感覚が甦る。
“彼”に出会う前にあった傷は、今は完全に塞がっていた。
やはり彼らの唾液には現代医療に提供してやりたいくらいの秘密が隠されているらしい。
そんな見当違いな思考で現実逃避をするが、限界だった。
いつもは首元に受ける感触が指先に伝ったのを認識するなり、ミサイルも真っ青なスピードで手を引っ込める。
同時にドアノブを捻り、勢いもそのままにタックルする勢いで居室内へ転がり込んだ。
「!っおやすみなさい」
バタンッ
騒々しい空気の揺れを感じ終えると、フッと音を漏らして口元が弛む。
「…おやすみ」
最大級の慈しみを込めた音は、雅の鼓膜へと届いただろうか。
雰囲気を和らげる反面、彼女の指先に纏われた微かな痕跡を思い起こして静かに瞼を下ろした。
脳裏に浮かび上がるのは、ラベンダー色と見上げるほどの長身。
長い付き合いと言えるその人物に向かって、心の中でそっと呟く。
−今回は傷の治癒という名目で目を瞑っておくが、次はないよ…敦。
次に扉を捉えた双眼は、左右異色の光を宿して妖艶に輝いた。
掴んだ手を手放す術を知らない、知るつもりもない
(“味見”についてはもう少し厳重に注意が必要か)
(未来を考えるなら…この気持ちを認めるわけにはいかないから)
赤、紅の行方さきざき。
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