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 最悪だ、最低だ。

 緩い向かい風を額に受けながら、雅は地面を蹴っていた。
 無遅刻無欠席で頑張ってきた三年間を、こんなところで無駄にして堪るか。
 荒ぶる黒髪にも構わず苦手な持久走に臨むが、何分、彼女には体力がなかった。
 すぐに呼吸は乱れ、脚も怠さを主張する。

 あの電信柱までは走る…!

 目標物を決めては歩いて走っての繰り返しだ。
 疲労感もピークに達していたが、ここで諦めてしまってはそれこそ今まで走ってきた分まで無に帰る。
 無情なチャイムが鳴り響くまで、残り時間約十分。

 靴の着脱と教室までの距離を考えても、あと五分で校門まではたどり着かないとマズい。
 残り距離と自分のスピードを掛け合わせて脳内で統合した結果、全力疾走で約四分踏ん張ればイケそうだった。



「…なんとか、」



 早くも挫けそうにはなるが、やれるだけはやってみよう。
 そう決心して、手首に通していた髪ゴムで大雑把に髪を纏める。

 いざゆかん…!

 気合い十分に脚を蹴り上げるが、背後から聞こえた音によりその勢いはブレーキをかけられた。



「−あれ、えらいギリギリッスね」

「!?はいっ」



 周りに人影はなく、明らかに自分宛だ。
 唐突な呼びかけに、前につんのめるようにして急ブレーキをかける。
 勢い余ったのか、前方へ偏った体重が戻ってこない。

 あっとっと。
 
 爪先で踏ん張って奮闘していると、ヒョイと両肩にかかった温度が体重移動を手伝ってくれた。
 ぽす。

 背中に触れた温もりに驚く間もなく、頭上から声が降ってくる。



「ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」

「…黄瀬先生、おはようございます」

「おはよーッス。それにしても珍しいッスね、寝坊?」

「そんなところです」

「…、そっか」



 二カッと白い歯を見せた黄瀬を前に、雅は眩しそうに双眼を細めた。
 くそう、流石女生徒受けナンバーワン。
 キラキラ金髪に引けをとらない笑顔に思わず携帯を構えたくなるが、ふと我にかえる。



「っ…時間!」

「おわ!?」



 ぐわ。

 いきなり表情を般若のように衣替えした彼女に一瞬本気でびびるも、すぐにその意図を汲み取った。
 地味な為あまり記憶にはないが、確か教師間でも真面目な模範生徒で有名な女生徒だ。
 自分とは遅刻の重みが異なることだろう。

 ちらりと視線を空に泳がせたのち、ひとつ頷いた黄瀬は次の瞬間には雅の顔をのぞき込んだ。
 勿論、雅も人並みに思春期を迎えている。
 いきなりイケメン教師からそんなアングル攻撃を受けて、正常心を保てと言う方が酷だった。



「っぎゃ!?」

「え、その反応はちょっと傷付くんスけど!?」

「すいません吃驚して!」

「…まあいいや。それより、遅刻したくないんスよね?ここで会ったのも何かの縁ってことで、とっておきの近道教えよっか」

「えぇ!?」



 文字通り目を丸くする雅に、可笑しそうに喉を震わす。

 他の教員より、少々女生徒に囲まれる率が高いことは自覚しているが、その常連の中に彼女の姿は見たことがない。
 すれ違ったとしても、恐らく挨拶程度だろう。

 そのため1対1でちゃんと会話をしたのはこれが初めてだが、素直に可愛いと思った。
 例えるなら、小動物を連想するようなそれだ。



「−女の子撒くための通路だから、他の子には秘密ッスよ?」



 何気なく付け足せば、彼女の全身から困惑と焦燥が滲み出る。



「え、いや、助かりますけど…そんな大事な通路教えちゃっていいんですか?」

「まあ、チャイム目前にのんびり歩いてるような子だったら教えないけどね」



 マラソンレベルで頑張ってる女の子は別ッス!

 悪戯っぽく前髪を揺らした黄瀬に、瞬いた。
 一体いつから見られていたのか。

 そもそもこの先生は徒歩通学だったのか。
 それこそ女生徒達の待ち伏せの餌食のような気がする。
 そういえばうちの学校は駐車場も設置されていないし、教員は全員住宅が近場であるとの噂だ。
 じゃあやっぱり徒歩か。

 と、そこまで思考を繋げて、やっと気付いた。
 ああ、だから秘密ルートが必要なんですね。



 ひとり百面相を披露する雅を面白そうに眺めていた黄瀬だったが、本日彼が彼女に声を掛けられたのは偶然の賜物だった。
 いつも朝礼寸前滑り込みが当たり前なのに、何の気紛れか今朝は珍しく早くに自宅を出たのだ。
 ぶらぶら散策しながら出勤しようとしていたのだが、その途中、自分の学校の制服が視界に入り込んだ。

 女生徒であることを認識するなり慌てて身を翻すが、至極真面目そうな風貌であった為、足を止める。


 めちゃくちゃ朝早いッスねー、感心感心…



「って、そっち!?」



 このまま行けば明らかに一番のりであろう時間帯に感嘆するのも束の間、すぐに気付いた違和感に思わず突っ込んだ。
 あっと口元を片手で覆うが、ある程度距離があった為、相手には気付かれなかったらしい。


−女生徒は、明らかに校舎とは反対方向へと歩んでいた。


 真面目と見せかけてまさかのサボリ!?ギャップに騙されたッスわー。

 なんて頭を抱えていると、微かなソプラノを鼓膜が捕らえる。



「…で、……なんで、………か?」

「−?」



 独り言にしてはボリュームが大きめだ。
 物陰から窺うように見つめると、死角にもうひとつの人影を見た。
 相手が老女であり、女生徒の手に風呂敷が掴まれている様子から、荷物運びを手伝っているという結論に至る。



「…朝から人助けッスか」



 今時そんな絶滅種みたいな子がいたんスねー。

 初めは物珍しさから何となく後を追っていたものの、老人と和やかに会話を進める姿を見詰めるうちに自然と足取りは速くなる。
 相手と別れた瞬間に血相を変えて逆走してきた時には何事かと思ったが、こちらに気付く素振りもなく完全スルーで過ぎ去っていった彼女には、ショックと斬新さで90%は持っていかれた。
 女生徒受けの良さを自負しており昔から女の子からの待遇に恵まれていた黄瀬にとって、それは衝撃だった。

 勿論、全てが全て自分を好いてくれるとは思っていない。
 中には興味のない異性もいるだろう。

 しかし、まさかリアクションすら貰えないとは。
 こんな空気のような扱いを受けるのは想定外だった。

 そしてもう一つ、



「…ってバテるの早!?



 彼女の持久力のなさも、予想の範疇を超していた。
 走り出したと思ったら、次の瞬間には電柱に手をついて肩呼吸している。
 そのお陰で黄瀬は歩きながら尾行ができたわけだが、このまま傍観していれば、確実に二人とも遅刻コースである。

 明らかに彼女自身に興味を持ち始めていたのに加え、まさか本当に自分のことを知らないのかと、そんな疑問も解決すべく声を掛けた。
 彼女の口から出てきた己の名前に、本気で安心したのは心の内に秘めておく。

 彼女の遅刻ギリギリの原因を知っていながら敢えて聞いたのは、“ただ何となく”だ。
 しかしながら、人助けを言い訳にしない何とも潔い返答に自分が満足したのは明白だった。

 あっぱれなお人好しぶりッスね。

 破滅的な体力も含め、影の薄い同期職員と勝手に重ねて頷いていると、くいくいと服の裾を引っ張られる。
 意識が引き戻された瞬間に、鮮やかな黒髪と落ち着きのない表情が視覚に語りかけた。






「−先生、時間時間!」

「あ、そうっスね。こっち…」



 パッと華奢な手首を掴んで誘導しようとするが、ふと我に返る。
 身体能力が、違いすぎる。
 ここに来て、決定的な算段ミスに気がついた。

 昔から恵まれた身体と抜群のセンスを兼ね備えていた黄瀬にとって、運動は全く苦にならない。
 そんな彼の近道といえば、一般的な通路とは言い難かったのである。



「…先生?」



 動作停止している黄瀬に小首を傾げると、やや深刻そうな視線とぶつかる。



「…と、ごめん。結構険しい道だけど大丈夫ッスかね?」



 何なら抱えるんで。
 申し訳なさそうにモデルのようなスマイルを披露した黄瀬に、雅の頬は引きつった。



「…え?」







彼のお決まりお寝坊コース


(結局遅刻コースですかそうですか)
(最悪、赤司っちに頼むしかないッスねー)


ああ無情に響くチャイムよ。