◇
ドン。
背後からの衝撃に、ポテチ袋を弄る手と歩む足を同時に止めた紫原はゆるく視線を移した。
しかし、振り返った先には何も見えない。
再び口を動かすことに集中しようと視点を戻すが、後ろ腰あたりにぱふぱふと与えられる刺激がそれを拒否した。
「ちょ、スルーしないで紫君!私ピンチっ超ピンチっ助けて…!」
「あ、ごめーん。飴ちん小さいから見えなかった」
ぐんと目線を下げれば、見慣れた黒髪が翻る。
何かを確認するように必死に辺りを見渡す知り合いに、紫原は首を横に倒した。
彼女は外見こそ平凡だが、非常に寛大な部類だ。
常に笑顔で、滅多に何かに対しての拒否反応は示さない。
それが、今は明らかに怯えの色が混じっていた。
自然と雅の気にする方向に興味が向く。
「珍しいねー飴ちんがそんなに慌ててんの。あっちから何か来るわけ?」
「何か!?ああうん何かだね私にも何とも言えないんだけど何かだよとりあえず私にとっては逃げる対象だからそれより誰も知らない隠れスポットとかないかな!?」
「うわー、飴ちんそれどこで息してんのー?」
「凄くどうでもいいよ!」
しまった人選ミス!
涙を散らせて頭を抱える雅を前に、紫原の好奇心は完全に刺激を受けた。
彼女のこんな姿は中々お目にかかれない。
一体何が彼女の余裕をここまで奪っているのか。
その正体を確かめるべく疑問を振りかけようとした瞬間に、それは聞こえた。
「−あ、雅ちゃんみーっけ」
ふんわりとしたソプラノが、空間に浸透する。
紫原にとっては反応する要素ではないが、一般的には男性受けするであろう、砂糖菓子のような甘めの声。
しかし注目すべきは、それに呼ばれた雅が自分に縋りついてきたことだ。
無意識だろうが、「ひ…!?」などと悲鳴に近い音が漏れてしまっている。
なるほど元凶のお出ましらしい。
しかし、明確になったその原因物に、紫原の頭は傾いた。
綿菓子のような茶髪がふわりと意識を奪う。
「…っはぁ、…もう、そんなに逃げなくてもいいじゃない」
2人の前に姿を表したのは、走ってきたのか、軽く息を切らした美少女だった。
雪のような肌は淡く桃色に彩られ、華奢な身体は儚さを醸し出している。
まさしく、男性から見れば思わず守りたくなるような理想的な女の子像だ。
問題は、そんな彼女を前にした雅が何を思って隠れようとしているかである。
現在進行系で腰にしがみついている雅に説明を求めようとするが、“彼女”の方が速かった。
ふわ。
「!?−」
視界の端で舞ったブラウンに、紫原の脳から発信された緊急警報。
思考を繋げるより先に、雅に両腕を伸ばしてその身体を抱き上げる。
「わ…!?」
ぶわ、という効果音が相応しい勢い。
唐突な浮遊感に対応し切れていない雅の身体は強ばるが、構わず更に一歩後退した。
元々小柄な彼女だ。
片腕で支えるのは二メートルを超える長身の紫原には容易く、前腕に座らせるような形で落ち着く。
勿論高さもあるため必然的に彼の首元にしがみつく体勢になるが、それでも暴れる様子はないことから、相当の対象なのだろうと理解した。
−対してそこまで警戒されている少女と言えば、今まで雅が存在していた場所に滞在していた。
初登場の場から約10メートルは離れていたにも関わらず、だ。
え、瞬間移動?いやいや黒ちんじゃあるまいし。
一瞬、存在感皆無の同期が頭を過ぎるが、明らかに全くの別物だ。
固まる紫原など視界に入らないといった様子で、少女は彼の肩口に収まる雅を見上げた。
桜色の唇が微かに開き、長い睫に縁取られた瞳が恍惚に染められる。
「−、今日も超絶可愛い雅ちゃん!サラサラの黒髪も濡れたような瞳も少なめの露出も絶好調ねっしかも何故今日は絶対領域!?興奮するじゃないのよーっ」
「………は?」
あまりのミスマッチに、間抜けな声をあげた彼を責める人間はいないだろう。
それくらい、カオスな状況だった。
頬を紅潮させた美少女が上目遣いで見上げてくるこのシチュエーション。
それだけなら大抵の男の憧れと言っても過言ではないが、現状は残念ながらそれとはほど遠いらしい。
数十秒の間を置いて、紫原から結果が弾き出された。
「よく分かんないけど…なんかキモい」
「良かった私正常だったんだね」
オブラートに包んではいるもののブレない肯定を返す雅は、既にカタカタ震えている。
未だにハァハァと隠しきれない息遣いが察知できる辺り、走った為の息切れではなかったことを遅れながらに認識した。
うん、これはオレでも逃げるかもー。
バスケでも滅多に働かない(寧ろ使う必要のない)第六感が、今まさにフル活動である。
そろそろ踵を返そうかと考えたのが伝わってしまったのか、つい先程までは雅しか見ていなかった双眼が紫原を捉えた。
「−ねえそろそろ雅ちゃんを降ろしてくれない?いつまであたしの雅ちゃんに触ってるの」
「えーやだ。なんか降ろしたら飴ちんが危なそうだし」
「紫君…!」
「っていうか太股なんてあたしも触ったことないのに…!ああでもこのアングルは新鮮でいいかも見えそで見えない感じが堪らない」
「っひぃ…!」
紫原の言葉に感動したのも束の間。
瞬間襲った舐めるような視線に悪寒が走り抜ける。
否、走り抜けるなんてものではない、全力疾走だ。
本能的に片手でスカートの裾を抑えにかかるが、それがまた興奮を煽ってしまったらしい。
恥じらいは最高の調味料!
グッジョブサインまで頂いてしまった雅は、とうとう遠くを見つめかけた。
しかし、ぽつりと空気に響いた一言に慌てて我にかえる。
「ふともも…?」
「待って紫君誘導されないで見ないでシャレにならないくらい恥ずかしいからあっち向いてて寧ろ目隠しさせてね」
「えー」
あろう事か今まで味方だった筈の紫原の視線まで大腿部に滑り始めたのを感じ、反射的に彼の視覚を奪うべくその両眼を覆った。
それに抗議の声をあげたのは、本人ではなく何故か下の美少女だ。
「ちょっと雅ちゃん!あたしには一度もそんなことしてくれたことないじゃないっあたしなんて一秒一瞬を見逃さないくらい余すことなく雅ちゃんのこと見てるのに。ああでもその小さい手が必死に頑張っているのって萌…!」
「とりあえず紫君このまま逃げて、超逃げて」
「…わかったー。でも手はどかしてね飴ちん」
さすがに見えないとムリ。
尤もな意見に、そろそろと指先を移動する。
見ないでね!
だめ押しにとヒト釘刺してから、少女から逃れるべく彼の首に腕を回した。
とりあえず爆発すればいいと思います
(…飴ちんっていい脚してたんだねー)
(紫君感化されてる感化されてる…!)
痴女、おめでたく生誕。
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