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 ミーンミーン。

 夏の象徴ともいえる合唱を遠くに近くに聞き流しながら、雅はノートと睨めっこをしていた。
 クーラーの効いた図書室内であり、暑さはそこまで気にならない。
 お昼休憩中であり人気もないため快適に課題をこなしていたはずだったが、不意に彼女のシャーペンが動きを止めた。



「どうしたの飴ちん」



 隣で退屈そうにうつ伏せていた紫原がもぞりと動くが、雅は眉をひそめて固まっている。
 未返答が耐えられなかったのか、気だるさを滲ませながら身体を起こしてその顔を覗き込んだ。
 珍しく口をへの字に結んで、何かに耐久しているらしい。

 ちょっかいを出してこようとする大きな手を退けると、複雑そうにピッタリ閉じていた唇を緩めた。



「…蚊に献血したみたい」

「どこ?」

「薬指。指って微妙すぎて辛い」



 示された左手に視点を移すと、成る程しっかり痕がついている。
 白い指に、淡く色付きぷっくりとふくれた部分を確認するなり、紫原の表情が僅かに変わった。
 猛烈で曖昧な皮膚の違和感と闘う雅に、それに気付く余裕はなく。



「ふーん…、貸して」



 何を、と聞く前に、それは起きていた。



「ん!?」



 あっという間に攫われた左手首。
 彼の唇の裏側に隠れた指と、じわりと肌から浸透する生温い温度に目を見開いた。

 元々突拍子もないことをする存在ではあったが、長い付き合いもあり大概の行動には対応できる自信がある。
 しかし、これは久し振りに思考がついていかないと片目を細めた。



「ちょっと、意図が分からない」



 手ぶら沙汰な右手でぺしりぺしりとその頭を刺激してみるが、離してくれる様子はない。

 かぷり、かじかじ。
 歯は立てられるが、甘噛みにもならない程度。
 その絶妙な刺激に、痒いのか痛いのか擽ったいのか、もはや解らなくなっていた。

 感覚がかき乱され、堪らず手を引き戻そうとするが、彼に力で勝とうとするのが無理な話だ。
 早々に諦めて諭そうと、叩いていた刺激方法を撫でる方向に変更する。



「もしもーし。なに、飴なくなったの?」

「…」

「紫原、一回離そうか。それはお菓子じゃないんだけども」

「…、」

「紫原家の敦君?飴、あげるから」



 自由な片手で鞄を弄り巾着袋を取り出した。
 ラベンダー色のそれを開くと、色とりどりの飴玉が自己主張をする。

 好きなの選べ。

 眠そうな双眼前に突き付ければ、やっと興味が反れたのか。
 ゆったりと解放された部分が唇から離れることで外気に晒され、ひやりと皮膚温を下げた。
 しかし手首の温度と圧迫感はそのままで固定されてしまっている。

 雅の片手を拘束したままちゃっかり飴を選出した紫原は、拗ねたようにそっぽを向いた。



「…飴ちんはオレのじゃん、盗られんのムカつく」

「うん、キミのじゃないからね。そもそも蚊相手に嫉妬とか小さすぎるよ器が」



 この負けず嫌いが。

 蚊に対する対抗心だったらしいことに気付くなり、呆れたように息を吐く。
 彼の独占欲が他に比べて強いのは理解していたつもりだったが、人間以外も対象になるのは新発見だ。
 蚊に血液を提供する度にこんな状態では身が持たない。
 早い内に何とか忍耐力をつけてもらえないだろうかと脳を絞ってみるが、いい案が浮かぶ筈もなく。

 とりあえず蚊の弁護を試みた。



「…それにほら、彼らだって生きるために致し方ないんでしょうに」

「それでもやだ」

子供か

「飴ちんが油断しすぎてるんじゃないの?蚊なんかに血採られないでよ」

「んな無茶ぶりな」



 確かに彼の反射神経はずば抜けているが、だからこそ同じにされては困る。

 悩むように視界を閉じると、不意に掴まれたままの腕が引っ張られた。
 突如加わった引力に逆らう術もなく、そのまま紫原の方へと倒れ込む。



「!?ぶっ」



 ぽすりと彼の胸元に埋もれ一瞬酸素が奪われるが、ほぼ同時に耳に届いた音に瞼をこじ開けた。

 バァン。

 すぐ後ろから伝わる空気の振動が鼓膜を執拗に刺激する。
 慌てて投げた視線の先には揺れるテーブルと、見慣れた手が吸い付いた。
 煙の幻が見えそうな勢いに、結構な力で叩きつけた事が窺える。

 流れ的に、彼の手の下ではこのシチュエーションを作り出した真犯人がぺったんこにされているに違いなかった。
 懲りもなく雅を狙おうとした蚊を見逃せなかったというところか。
 闘志心丸出しの彼氏に苦笑を零す。



「−全部ひねりつぶす」

「…期待してる」



 でも、図書室では静かにね。

 懇願の籠もるソプラノは、戻ってきたざわめきに溶けて消えた。







ちらつきジェラシーにご用心


(とりあえず、…今回の被害が指でよかった)
(もう一滴も渡さないし)


白、あと、痕、あか。