◇
雅は人生最大のピンチの中にいた。
暗闇の中、自分の呼吸音がリアルに身体中に響く。
じっとりと浮かぶ手汗が気持ち悪い。
じりじりと前に進むが、その井戸の底のような未知の道へ、足を進める勇気が中々湧いてこなかった。
不意に、フワフワした青い何かが目の前を横切る。
「っなあぁあああ!!!」
響き渡った雅の叫び声に、前方を歩く人影が止まった。
泣きかけの雅が勢いだけで追い付くと、かったるそうな声が上から降ってくる。
「オマエさっきからいちいちうるせーよ」
もう疲れた、なんてその場でしゃがみこむ彼氏に、誰のせいだと突っ込んだ。
「青峰が置いてくからでしょー!?」
「此処入るったのはオマエだろーが」
「う…」
図星を突かれて言葉に詰まる雅に対し、いつの間にか立ち上がった青峰はまた歩き始める。
しかしそんな彼に、怖がりな雅がハイそうですかと続けるわけもなく。
雅はすかさずその腕を掴んだ。
「止まんなよめんどくせー」
青峰が面倒臭そうに束縛された腕に視線を向ければ、必死にしがみついている雅の姿。
普段、自分からこういったスキンシップをとらない彼女が自主的にひっついてくるのは新鮮だった。
これはこれでオイシイか。
暫くの無言の後、雅を腕に引っ付けたまま進み始めた青峰だったが、幾分、彼女のスピードは遅すぎた。
「雅ー、このスピードすげぇタリーんだけどー」
「っだって何が出てくるか分かんな、ぎゃー!」
「脅かすからお化け屋敷なんだろーが。それよかオマエもっと色気ある声出ねーの?」
「んな余裕あるかー!ちょ、わたし目瞑るから青峰出口まで導いて!」
「此処に何しにきたんだよオマエは」
柄にもなく突っ込みに回るものの、雅の決心は本物らしい。
ぎゅうっと目を瞑り一層強く腕を掴む姿に溜め息を吐いて頭を掻くと、突如、その身体を持ち上げて肩に担いだ。
俗に言う俵担ぎだ。
あまりに簡単に為されたその行為に、雅が驚かないわけもなく。
「ちょ、ええ!?」
「耳元で騒ぐなって。これが一番手っ取り早ぇ」
「いやいやいやいや!」
いくら遅いからといって、お化け屋敷で彼女を俵担ぎはないだろう。
文句の一つでも言ってやろうと眼光を鋭く光らせる雅だったが、その前に、見てしまった。
自分達の後方、俵担ぎされている雅の真っ正面に見える、此処のスター達。
玩具を見つけた子供のようにその醜い顔をひしゃげて笑うそれらに、雅の顔色はどんどん悪くなる。
ゾンビやミイラ男、血まみれの女など、怖がりにはとても直視できるものではないものばかり。
次の瞬間には凄い勢いで此方に向かってきたその集団を見て、冷静でいられるわけがなかった。
「んなああぁあああッッ!!」
首は恐怖で動かない。
涙を飛ばしながらそのしっかりした背中を力任せにバシバシ叩いた。
「青峰走ってええぇえ!!!」
しかし青峰がそれに動じることはなく。
チラリと後ろに目を向けて納得するものの、興味なさそうに視線を前に戻す。
「走んのとかタリー…」
「ッ走れぇええええッッ!!!」
そのままのスピードで歩き続ける青峰に、雅の悲鳴が響き渡った。
―数分後。
お化け屋敷の前のベンチには、ぐったりした雅と、眠そうに欠伸をする青峰がいた。
結局あのままのペースで進み、雅の反応に楽しみを見つけてしまったスタッフ達が、他の客そっちのけで出口までお供してきたのである。
もう一度どう?なんてお誘いを必死に断り、今に至る。
―そもそも何故彼女が青峰と此処―遊園地に来ているのかといえば、コネによりただでチケット二枚が手に入ったのが始まりだった。
しかし一番初めに候補に上がった親友の桃井は、用事で却下。
その上、彼女は普通に爆弾宣言をかました。
「普通に青峰君誘ったらいいじゃん」
当たり前のように出てきた名前に、雅は固まる。
勿論、その選択肢は考えなかったわけではない。
が、そのことについては青峰の幼なじみである彼女が一番熟知しているのではないだろうか。
「…果たして、あのタリータリー星人が、こんないかにも人混みだらけの面倒地にお供してくれるのでしょうか」
アイツと行ったら確実に一時間持たないよ?
チケットに視線を落としながら遠い目をする雅に、桃井は笑顔で言いきった。
「それなら大丈夫よ、雅のお願いなら何だかんだで絶対聞くから」
「えぇー…何か根拠でもあるわけ?」
「女のカンよ」
「…さいですか」
女である雅でさえも見惚れるような表情で言いきった桃井に、肩を落とすしかなかった。
―むぅ。
雅は少し眉を寄せながら隣の青峰にチラリと視線を向けた。
結局、桃井の言った通り、意外にもあっさりオッケーが出て今現在此処にいるわけだが、やはりあまり動いてくれそうにない。
この際、日頃のお返しにとこれを機に弱味でも握ってやろうと思っていたのに、一発目にお化け屋敷を選んだのは間違いだった。
自分が怖がりなのを頭に入れていなかった。
結局青峰にお世話になって終りだ。
そんな雅が次のターゲットに選んだのが、ジェットコースターだった。
グルグルと螺旋を描くその形状を見ると、目を輝かせて青峰の袖をひく。
「青峰!次あれ乗ろっ」
「あー?かったりー…」
「そんなこと言わないで、ね?ほら折角来たんだし!」
「そこのクレープ買って帰ろーぜ」
やはり乗り気ではないらしい。
終いには屋台車を視線で捉え始めた青峰に、やっぱり一時間持たないじゃんかと頬を膨らませた。
「まだお化け屋敷しか入ってないんだけど」
そんな雅の表情を見てとった青峰は、ふと腰を上げた。
お?
動いてくれる気になったのだろうか。
パッと笑顔を取り戻した雅だったが、期待はあっさり裏切られた。
「じゃああのピエロから風船貰って帰るかー」
「何しに来たんだアンタ」
風船を配るピエロの方に向かおうとする青峰に、雅の突っ込みが炸裂した。
遊園地に入ってから経過47分後の出来事。
―続。
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