◇
ザァ。
心地よい風に身体を晒ながら、黄瀬は足を進めた。
いつもの場所、校庭の大きな木の下から覗く黒髪に、軽く深呼吸してから声を掛ける。
「…雅センパイ?」
「んー?」
「今いいッスか?」
「どうぞ」
毎回律義だねー、なんておかしそうに返ってくる返事を聞くなり、ヒョイとその幹を覗き込んだ。
木漏れ日の落ちる、女生徒の制服が目に入る。
顔はうつ向いたまま動かず、その黒髪だけがふわりと揺れた。
相変わらず絡まない視線に黄瀬が少し寂しそうに笑うと、聞き慣れたソプラノが耳を通過する。
「部活は?」
「なんと今日はオフなんスよ!」
「珍しいね」
「でっしょ?これはもうセンパイに会いにくるしかないとっ」
「暇人」
「ヒドッ」
それが大事な後輩に言う台詞ッスか!?
涙しながらのリアクションに大袈裟だと笑って、雅は自分の隣をポムポムと叩いた。
やはり此方は向かないものの柔らかく微笑む姿に笑顔を返すと、黄瀬は指示通り彼女の隣に腰を降ろす。
「今日も平和ッスねー」
「黄瀬の頭の中みたいだね」
「…オレ、センパイに何かした?」
「冗談だよ」
顔を伏せたままケラケラ声を上げる雅を横目に、黄瀬はそっと睫毛を伏せた。
―彼女と出会ったのは、高校に入ってすぐだった。
この容姿と肩書きは何処に行っても目立ったし、声を掛けられるのは当たり前。
目立つのは嫌いではなかったが、流石にずっと囲まれているのはキツイものがあった。
安息を求めて足を踏み入れた、授業中の校庭。
誰もいないはずのその時間、その場所に、彼女はいた。
遅咲きの桜に囲まれて、ただそこに立っていた。
ただ、綺麗だと思った。
別に、特別秀でて美人なわけではない。
とびきりの笑顔を向けてくれたわけでもない。
ひたすらに、桜を見上げているだけの姿 。
その表情に、雰囲気に、
―彼女の全てに、惹き込まれた。
どれだけ時がたったのか。
『入学二日目にしてサボり?いい度胸してんね』
『!』
突然空気を震わせた音にハッとするが、声が、出なかった。
此方を見ようともしない姿に無性に腹が立って、その反面酷くホッとして、そしてこれからも見ていたいと思った。
気になって、仕方がなかった。
『…っ、また、来ていいッスか?』
やっと絞りだした言葉に対して返ってきたのは、桜に向けられたままの彼女の笑みだけだった。
◇
ナデナデ。
「…?」
不意に頭を刺激し始めた白い手に、現実に引き戻された黄瀬が不思議そうに雅を見つめる。
じっと落としたままの視線にも、もう慣れた。
彼女は他人を見ようとはしない。
目を遭わせようとは、しない。
いつもどこか懐かしそうに、寂しそうに一点を眺める。
その理由を、黄瀬は知っていた。
こんな雅が無名であるわけもなく、校内ではかなりの有名人だった。
聞かなくても、望まなくても、噂によって勝手に耳に入ってきた情報。
「黄瀬、この髪色似合ってる」
「…ありがとッス」
「うん」
撫でる手も止めずに瞳を細める雅に、黄瀬は嬉しそうに笑いかける。
憧れの人物に褒められて嬉しくない筈がない。
しかし、黄瀬は分かっていた。
その言葉も、『彼』と自分を重ね合わせたものだと。
けして、自分に向けられたものではないと。
それを理解した上でも尚、彼女の言葉に歓喜している自分がいる、と。
「…センパイ、」
少しうつ向いた黄瀬の呼び掛けに、雅も僅かに顔を上げる。
何を言われるのか、何となく察しがついた。
ザワザワ擦れる葉の音を押し退けて、黄瀬の声が鼓膜を揺する。
「やっぱまだ忘れられないんスか?…―『彼』のこと」
ザワリ。
全身の身の毛がよだった。
見え隠れする『彼』の顔、フラッシュバック。
止めて。
そう叫べないのは、怒りをぶつけられないのは、きっと相手が黄瀬だからだ。
自分が彼を利用してるという自覚があるから。
恐らく全てを知りながらも、こうして側にいてくれる優しさを、失いたくないから。
初めて会った時から、かき乱されて仕方なかった。
その雰囲気も、髪色も、笑顔も、あまりに最愛の彼に似すぎていた。
「―、うん。忘れられない」
ゆったりと微笑んだ雅の返事に、黄瀬は予想通りだと悪戯っぽく歯を見せる。
そのまま力が抜けたように木の幹にもたれ掛ると、それを見計らったかのようにスルリと雅の手が頭から離れた。
急に離れた温度に、軽く身震いする。
その手を追うように向けた視線の先で、黄瀬の時間は止まった。
「…私なんかに、囚われてちゃダメだよ」
瞳に映るのは、風に舞う黒髪と、切なげな笑顔。
初めてのアイコンタクト。
感動だとか驚きだとか、そんなものよりもただ思考が奪われる。
「私なんかより憧れる対象は山ほどいるでしょ?」
ああどうしたらちゃんとした笑顔にできるんだろう。
こんな泣きそうな顔じゃなくて、心から笑わせてあげられるんだろう。
グルグル廻る思考回路の中で、雅の言葉の処理もする。
黄瀬は確かに、雅に憧れを抱いていた。
出会ったこともない雰囲気に惹かれた。
『飴凪先輩、一年前に事故で彼氏亡くしてんだってさ。すげぇ仲良くて、校内でもかなり有名なカップルだったらしいぜ』
…−そういや、オマエその先輩に似てるっつー話があって、
同級生から聞いた話にも動じることはなくて、寧ろ納得した。
何故、彼女が自分だけにあんな表情を向けるのか。
それでも、構わなかった。
彼女の側にいられるのなら。
だから、『憧れる』ことにした。
「―黄瀬、だからね、…」
そこで、雅の言葉は途切れた。
不意に唇に押し付けられた人差し指に、目を瞬かせる。
いつもより幼いその動作が可愛くて、黄瀬は思わず笑った。
「そうッスね」
伏せがちになった瞳は何かを決意していて、雅の第六感が、警報を鳴らす。
「だから、」
反射的に立ち上がろうとする雅の手首を掴んだ黄瀬は、再び彼女を瞳に映した。
少しトーンの落ちた声。
黄瀬の表情に、目が反らせなかった。
どんな気持ちになったら、こんな瞳ができるのか。
「―憧れるのはもう…やめる」
ずっと、どこかでぼんやり気付いていた、無意識にふうじた恋心。
見開く瞳に愛しそうに微笑んで、華奢な身体を引き寄せた。
君の心に銃口を向けます、どうかどうぞ覚悟あれ
(これからは『先輩』じゃなく、一人の女の子として)
(ああ煩い心臓、こうなるのが怖かったからこそ、遠ざけるべきだったのに)
ばきゅん、音鳴り耳鳴り。
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