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 ザァ。
 心地よい風に身体を晒ながら、黄瀬は足を進めた。
 いつもの場所、校庭の大きな木の下から覗く黒髪に、軽く深呼吸してから声を掛ける。



「…雅センパイ?」

「んー?」

「今いいッスか?」

「どうぞ」



 毎回律義だねー、なんておかしそうに返ってくる返事を聞くなり、ヒョイとその幹を覗き込んだ。
 木漏れ日の落ちる、女生徒の制服が目に入る。
 顔はうつ向いたまま動かず、その黒髪だけがふわりと揺れた。

 相変わらず絡まない視線に黄瀬が少し寂しそうに笑うと、聞き慣れたソプラノが耳を通過する。



「部活は?」

「なんと今日はオフなんスよ!」

「珍しいね」

「でっしょ?これはもうセンパイに会いにくるしかないとっ」

「暇人」

「ヒドッ」



 それが大事な後輩に言う台詞ッスか!?

 涙しながらのリアクションに大袈裟だと笑って、雅は自分の隣をポムポムと叩いた。
 やはり此方は向かないものの柔らかく微笑む姿に笑顔を返すと、黄瀬は指示通り彼女の隣に腰を降ろす。



「今日も平和ッスねー」

「黄瀬の頭の中みたいだね」

「…オレ、センパイに何かした?」

「冗談だよ」



 顔を伏せたままケラケラ声を上げる雅を横目に、黄瀬はそっと睫毛を伏せた。




―彼女と出会ったのは、高校に入ってすぐだった。

 この容姿と肩書きは何処に行っても目立ったし、声を掛けられるのは当たり前。
 目立つのは嫌いではなかったが、流石にずっと囲まれているのはキツイものがあった。
 安息を求めて足を踏み入れた、授業中の校庭。

 誰もいないはずのその時間、その場所に、彼女はいた。
 遅咲きの桜に囲まれて、ただそこに立っていた。

 ただ、綺麗だと思った。

 別に、特別秀でて美人なわけではない。
 とびきりの笑顔を向けてくれたわけでもない。
 ひたすらに、桜を見上げているだけの姿 。

 その表情に、雰囲気に、
 ―彼女の全てに、惹き込まれた。

 どれだけ時がたったのか。



『入学二日目にしてサボり?いい度胸してんね』

『!』



 突然空気を震わせた音にハッとするが、声が、出なかった。
 此方を見ようともしない姿に無性に腹が立って、その反面酷くホッとして、そしてこれからも見ていたいと思った。
 気になって、仕方がなかった。



『…っ、また、来ていいッスか?』



 やっと絞りだした言葉に対して返ってきたのは、桜に向けられたままの彼女の笑みだけだった。






 ナデナデ。



「…?」



 不意に頭を刺激し始めた白い手に、現実に引き戻された黄瀬が不思議そうに雅を見つめる。
 じっと落としたままの視線にも、もう慣れた。

 彼女は他人を見ようとはしない。
 目を遭わせようとは、しない。
 いつもどこか懐かしそうに、寂しそうに一点を眺める。
 その理由を、黄瀬は知っていた。

 こんな雅が無名であるわけもなく、校内ではかなりの有名人だった。
 聞かなくても、望まなくても、噂によって勝手に耳に入ってきた情報。



「黄瀬、この髪色似合ってる」

「…ありがとッス」

「うん」



 撫でる手も止めずに瞳を細める雅に、黄瀬は嬉しそうに笑いかける。
 憧れの人物に褒められて嬉しくない筈がない。

 しかし、黄瀬は分かっていた。

 その言葉も、『彼』と自分を重ね合わせたものだと。
 けして、自分に向けられたものではないと。
 それを理解した上でも尚、彼女の言葉に歓喜している自分がいる、と。



「…センパイ、」



 少しうつ向いた黄瀬の呼び掛けに、雅も僅かに顔を上げる。
 何を言われるのか、何となく察しがついた。

 ザワザワ擦れる葉の音を押し退けて、黄瀬の声が鼓膜を揺する。



「やっぱまだ忘れられないんスか?…―『彼』のこと」



 ザワリ。

 全身の身の毛がよだった。
 見え隠れする『彼』の顔、フラッシュバック。

 止めて。

 そう叫べないのは、怒りをぶつけられないのは、きっと相手が黄瀬だからだ。
 自分が彼を利用してるという自覚があるから。
 恐らく全てを知りながらも、こうして側にいてくれる優しさを、失いたくないから。

 初めて会った時から、かき乱されて仕方なかった。
 その雰囲気も、髪色も、笑顔も、あまりに最愛の彼に似すぎていた。



「―、うん。忘れられない」



 ゆったりと微笑んだ雅の返事に、黄瀬は予想通りだと悪戯っぽく歯を見せる。
 そのまま力が抜けたように木の幹にもたれ掛ると、それを見計らったかのようにスルリと雅の手が頭から離れた。
 急に離れた温度に、軽く身震いする。

 その手を追うように向けた視線の先で、黄瀬の時間は止まった。



「…私なんかに、囚われてちゃダメだよ」



 瞳に映るのは、風に舞う黒髪と、切なげな笑顔。
 初めてのアイコンタクト。
 感動だとか驚きだとか、そんなものよりもただ思考が奪われる。



「私なんかより憧れる対象は山ほどいるでしょ?」



 ああどうしたらちゃんとした笑顔にできるんだろう。
 こんな泣きそうな顔じゃなくて、心から笑わせてあげられるんだろう。
 
 グルグル廻る思考回路の中で、雅の言葉の処理もする。

 黄瀬は確かに、雅に憧れを抱いていた。
 出会ったこともない雰囲気に惹かれた。



『飴凪先輩、一年前に事故で彼氏亡くしてんだってさ。すげぇ仲良くて、校内でもかなり有名なカップルだったらしいぜ』

…−そういや、オマエその先輩に似てるっつー話があって、



 同級生から聞いた話にも動じることはなくて、寧ろ納得した。
 何故、彼女が自分だけにあんな表情を向けるのか。
 それでも、構わなかった。
 彼女の側にいられるのなら。

 だから、『憧れる』ことにした。



「―黄瀬、だからね、…」



 そこで、雅の言葉は途切れた。
 不意に唇に押し付けられた人差し指に、目を瞬かせる。
 いつもより幼いその動作が可愛くて、黄瀬は思わず笑った。



「そうッスね」



 伏せがちになった瞳は何かを決意していて、雅の第六感が、警報を鳴らす。



「だから、」



 反射的に立ち上がろうとする雅の手首を掴んだ黄瀬は、再び彼女を瞳に映した。
 少しトーンの落ちた声。
 黄瀬の表情に、目が反らせなかった。
 どんな気持ちになったら、こんな瞳ができるのか。








「―憧れるのはもう…やめる」



 ずっと、どこかでぼんやり気付いていた、無意識にふうじた恋心。

 見開く瞳に愛しそうに微笑んで、華奢な身体を引き寄せた。







君の心に銃口を向けます、どうかどうぞ覚悟あれ



(これからは『先輩』じゃなく、一人の女の子として)

(ああ煩い心臓、こうなるのが怖かったからこそ、遠ざけるべきだったのに)



ばきゅん、音鳴り耳鳴り。