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 落ちてきそうな月を見上げながら、雅はゆったりと瞬いた。
 恐怖を感じるほど空が美しいと感じるこんな日は、どうあがいても脳裏に彼の姿がちらつくのだ。
 高鳴る心臓の意図は、自分にも分からなかった。

 不意に、ゆらりと背後の空気が動く。



「ーこんばんは、雅さん」

「!あ…、」



 身体が揺れた拍子に手からすり抜けてしまいそうになったミルクティーを、己とは違う温度がキャッチした。
 指先ごとその冷たい温度に覆われて、缶の温かさとの差に無意識に唇を結ぶ。



「…すいません、ありがとうございます赤司さん」

「驚かせてすまない。なんとなく、オレが訪ねることを悟っていたように感じたものだから」



 つい。と微笑を浮かべる赤司は、今夜も格別に美しかった。
 真っ赤な髪と双眼は、夜に溶けるような漆黒の服に反して、月の光だけで充分すぎるほどに目を惹く。
 こうして唐突に雅の前に現れるのは、別に珍しいことでもない。

 ただ、彼の“存在意義“を知ってしまっている身としてはそれを素直に喜べるわけでもない。



「今日は、“お仕事“ですか?」



 やや視線を逸らしながら声を震わせると、少しの間の後に吐かれた息が空気に沈んだ。

ー…オレが言えたことではないが、

 一旦途切れた言葉に見上げると、困ったように眉を下げる彼と目が合った。



「そんなに身構えなくてもいいよ。何も君の魂を狙ってきたわけじゃない」

「私以外の人の魂でもないですか?」

「ああ。そもそも仕事のついでなんかに会いにくることはしないからね。君に会う時はちゃんと時間をとって来ることにしている」



 ゆったりと弧を描く唇を見つめながら、ぼんやりと思考する。

 彼と初めて会ったのは、大好きな祖母が亡くなる時だった。
 冷たくなる手を必死に握って、安らかな笑みを涙でぼやける視界の中焼き付けて。



『…驚いたな、視えるのか』



 いつの間にか隣に佇んでいた男に対してよりも、意外に冷静な自分に驚いた。



『あなたは、死神…?』

『そう呼んでくれて構わない。肉体から魂を回収する存在を、人間はそう呼ぶのだろう?』



 否。驚く暇も与えないくらい、既に心が奪われていたのかもしれない。
 淡々と答えながらも、祖母の魂を壊れ物のように抱く姿は、数年たった今でも鮮明に思い出せる。



『…おばあちゃんを、よろしくお願いします』



 ぼろぼろ泣きながらぐちゃぐちゃの顔で笑った自分に何を思ったのか。
 一瞬だけ目を見開いて、擽ったそうに頬を緩めて涙を攫ってくれた。
 それから間もなく、神出鬼没に目の前に現れてくれるものだから。
 雅としてもいつ自分が死ぬのか、周りの人間が死ぬのかと気が気ではないのだ。

 毎度のように仕事なのかと尋ねてみるが、決まって返事は同じ。
 “魂を迎えにきたわけではない“のだと。



…ー、その応えに感じるのが安堵ではなく落胆であると自覚したのは、いつからだっただろうか。
 もし他の誰かの魂を目的にきたのなら、嫉妬すらしてしまうかもしれない。
 命の終わりを望むだなんて大事に育ててくれた祖母に顔向けできないが、年老いていく姿を彼に見られるくらいなら今のこの姿のまま逝きたいとすら思う。





「…死に際じゃないのなら、」



 ポツリと零せば、恐れて焦がれてやまない視線がこちらを捉えるのを感じる。



「赤司さんは、なんで私に会いに来てくれるんですか?」



ーいっそうのこと、魂ごと連れ去りに来てくれたならよかったのに。 

 続く言葉は空気の振動には乗せずに、酸素と一緒に呑み込んだ。
 会うたびに大きくなるこの気持ちは、会えない時間にはち切れそうな想いは、どうすればいいというのか。
 相容れない存在だということは考えなくても分かる。
 彼が人間だったらいいのにと願うよりは、自分が彼に近づく方が現実的だということも。

 赤司にこの魂を迎えに来てもらうまでに、あとどれくらいの時を待てばいいのだろう。



「ー、雅さん」



 そんな思考を知るはずもないだろうに、何もかもを見透かすような透明な赤色が前触れもなしにぐっと近づいた。



「っ、あの!?」



 その瞳の中に、映る己の表情が認識できてしまう距離。
 自分は一体いつからこんな泣きそうな顔をしていたのか。
 見えない涙を拭うように、赤司の親指がするりと雅の肌を滑った。

 祖母との別れの時とは、また違う色を乗せて。



「オレも一人の男だからね、会いたい人に会いに来るのは至極当然のことだと思うが」



 細められる眼差しにちらつく感情には、憶えがある。
 喜び、不安、切なさ、諦め、羨望、嫉妬、愛しさ…。
 この年月で飽きるほどに育ててきたそれらに酷似していた。



「…その台詞はさすがに勘違いしちゃいますよ」

「勘違いを避けるためにこんなに実直に伝えているのに?」



 クスリと笑みを落としたかと思えば、少し考える素振りをみせてから自嘲する。



「ーいや、これでも曖昧か。…不思議なものだね、人の寿命なんて短いものだと知っているのに。君のことだけは、その期間すら待ちきれない。定期的に姿を見て声を聞いて存在を確かめないと、気が済まない」

「…今日はえらく饒舌なんですね」

「この世の中には逃してはいけないタイミングがあるからね。今がその時だと思っている」

「つまり?」



 さすがにここまで言われて信じられないほど謙虚でもない。
 どくどくと急かすように鳴る鼓動を感じながら、フライングで緩む涙腺を叱った。

 そんな雅の様子に一層瞳を緩めた赤司が、微かに震える白い両手を再度缶ごと包み込む。



「ー君が許してくれるなら、これからも傍にいさせてほしい」



 瞬間、彼女の片目から零れ出た涙がそのまま頬を伝うのを見送った。
 顎から滑り落ちたひとしずくを見届けてから、触れないような優しさでその跡を拭ってやる。



「…おばあちゃんになっても会いに来てくれます?」

「もちろん。オレが視ているのは初めから魂だからね、肉体の変化は全く関係ないよ」

マジか








永遠の愛より確実な、永久の約束をしよう


(心から感謝されたのは初めてだった。その魂の美しさが忘れられなかったんだ)
(これでも一応、月が綺麗な夜はそれなりに身なりには気を遣ってたんですよ?一応ね)


星空よりも眩しい、ああ。



2023/07/29