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 人生とは、何故こうもタイミングが悪いのだろうか。

 顔が引きつるのを感じながら、雅は久方ぶりの全力疾走をしていた。
 しかし、今回は相手が相手だ。
 努力の甲斐なく、あっけなく自分とは別物の温度に捕まる。



「ー捕まえた」

「っ、…」



 背後から抱き締めるようにふわりと寄り添った冷たい体温と耳元をくすぐる吐息に、息が詰まった。
 そんな態度に気付いているのかいないのか、いつも通りの彼が懐っこさ全開でぐりぐりと擦り寄ってくる。



「雅さんってばなんで逃げるんっスかー!?久し振りに会えたのに超傷付くんスけど!」

「いや、逃げたわけじゃないんだけど…今はあんまり近づいて欲しくないかなって…」

「ヒド!?そんな拒否のされ方したらオレ、もう…、」

「あ、あのね黄瀬…!」



 あからさまに沈んだ彼に、さすがに言葉が足りなかったかと必死に振り向いた。
 否、振り向こうと、した。
 しかし、次の瞬間に感じた空気の変化に一気に肌が粟立つ。

ーしまった、もうスイッチが入った…!

 普段の明るい雰囲気とはかけ離れた、“本来“の彼に早くも呑まれそうになるのを必死に耐える。
 音もなく前方に回った黄瀬が、優しく、優しく雅の髪を梳いた。



「…ああ、もしかして髪についてる男の匂いに関係あるんスかね?」



 先程より落ちた声のトーンに、妖しく光る双眼と唇からチラチラのぞく歯。
 感情は恐怖に充ちていくのに、月灯りに照らされるその表情はあまりに美しくて目がそらせない。
 何より酸素に紛れ込む独特の甘い香りが、肌からすら侵入して思考を犯していった。



「ちが、誤解だから…っ」



 確かに今日は飲み会に参加して、酔った男性知人にやたら構われた。
 今までの経験から黄瀬の引き金を理解していたため、そんな日に限ってピンポイントで出会ってしまった瞬間に踵を返したのに。
 それが完全に裏目に出てしまったらしい。

ーオレが雅さんを逃がすわけないでしょ。

 ゆったりと嗤った瞳に、表情の堅い己が映り込んだ。



「あはは、隠し事は通じないッスよ。吸血鬼は嗅覚鋭いし、“お気に入り“の匂いには特に敏感なんで」



 するりと頬から鎖骨を撫でられて、ぞくぞくと湧き上がる快感はもはや否定できる領域ではない。

 朦朧とする頭を叱って、持ちうる理性総動員で弱々しく彼の顔に手を伸ばした。
 獲物を見定めるように眼孔が細められるが、今更彼相手に怖じ気づくこともない。



「馬鹿黄瀬…ちょ、っとは、話…聞いて…」



 きゅむ。と指先でその頬を抓って、苦々しく笑いかけてやる。

 時が止まったような感覚。
 そこから空気が動いて、同時に靄が晴れるように意識もハッキリしてきた。
 どうやら鎮静化に成功し、今宵の危機は脱したらしい。



「…相変わらず耐性高いッスねー、普通の女の子だったらとっくにオチてんのに」



 キョトキョトとその特徴的な目元で瞬いて、太陽のような笑顔が視界いっぱいに広がる。



「これだから余計に好き、雅さん」

「はいはい」



 何故か嬉しそうにはにかむ吸血鬼の抱擁を、真正面から受け止めた。







月夜の誘惑に惑わされない君が好きだ。


(“魅了“を通じてさえ、オレ自身を見てくれるから)
(いやだって能力なしでも常時魅了されてるし。って、結局弁解は聞かないんかーい)


嫉妬も逃げる、ほにゃらら。


2021/10/16