◇
薬品の匂いが少しだけ空気に混ざる、カーテンに仕切られた白い空間。
保健室のベッドの中で、雅の意識は覚醒していた。
寧ろ、はやる心臓と乱れる呼吸を落ちつかせるのに神経を注いでいる。
「っ、…大丈夫、大丈夫…!」
なぜ“こうなった“のかは分からない。
しかし、順番に考えていけば何かにはたどり着くはず。
朝、学校に来るまでは普通だった。
いつも通り早朝に到着して、靴箱で上履きに代えて、すれ違った同級生と軽く一言交わして、階段の踊り場でー、
「っあ…!」
ズキズキ痛み出したこめかみを指先で覆うと、同時に扉のスライド音が鼓膜を揺らした。
意味もなく跳ねた心臓を押さえつけ、無意識的に息をこらえる。
脈打ちが、うるさい。
こめかみを伝う汗を感じながら耳を澄ますと、聞き覚えのある声が浸透する。
「失礼します」
「あら、花宮くん。珍しいわね、体調悪いの?」
「いえ、飴凪さんの荷物を届けに来ました。彼女は大丈夫そうですか?」
「ありがとう。初めよりは落ちついてきたと思うんだけど…」
「少し話してもいいですか?担任にも伝言を頼まれていて」
「そうなの?ちょっと待っててちょうだい、見てくるわ」
「お願いします」
「!」
布団の中で会話に耳を立てていたが、保険医の近づく気配に慌てて上半身を起こした。
「飴凪さん?入るわよ」
「あ…はい」
「ちょっと、もう起きて大丈夫なの?…まあ、顔色は少しは戻ってきたわね。ここに来たときは真っ青だったから。あなたにお客さんだけど、通していいかしら」
「…、大丈夫です」
優しげにこちらを労るその口元に視線を移して、やはり変わらない事実に顔を背ける。
端から見れば態度が悪いかも知れないが、今はそんなことに気を遣うほど余裕がなかった。
色々考えたいことは山積みだが、まずは明らかに自分に接触を図っている人物への評価が先だ。
ちらりと視点を戻すと、保険医に促されて黒髪がちらつく。
「ー飴凪さん、いきなり倒れたからびっくりしたよ。体調はどうかな」
ニコリと人好きしそうな笑みを浮かべて顔を出した同級生に、とりあえずの愛想笑いを返した。
彼は、果たして敵なのか味方なのか。
何気なくを装ってその手元に焦点を当てると、彼が双眼を細めて、“左手“に持った鞄を掲げる。
「とりあえず荷物は持ってきたから」
ーああ、なんだ。左ということは彼も…
今までの日常の中の記憶を呼び起こしながら、ひとり絶望感に見舞われた。
言葉だけで感謝を表現しつつ、時間を確認して申し訳なさそうに両手を合わせた保険医を見やる。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね、私ちょっと数分席外すんだけど…」
「ああ、お構いなく。彼女にはボクがついていますので。ちょうど伝えることもありますし」
「でも花宮くんも授業を抜けてきているんでしょう?…まあ、貴方の成績なら大丈夫かしら」
「いえそんな。でも、抜けた分は家でしっかり補います」
「頼もしいわね。じゃあ悪いけど任せるわ」
「はい」
相変わらず教師からの信頼は絶大な彼に心の中で拍手を送りたいところだが、夢か現実かも曖昧な感覚に呑み込まれて頭が回らない。
扉の開閉音とパタパタ遠ざかる足音だけが耳に残った。
何をするでもなく自分の手元に視線を落としていると、ガタリと床を引き摺る音がやけに大きく響く。
花宮が備え付けのイスに腰掛けたのだろう。
そういえば、伝言がどうとか言っていたか。
隣の席という関わり以外は何もない彼だが、学校きっての秀才で二年生ながらバスケ部でも大活躍中だという噂は耳にしている。
朝は必ず挨拶してくれるし、授業中も幾度となく助けられた。
これで彼が味方なら、どんなによかっただろう。
頭がぼんやり霧がかっている。
恐怖に支配されている今、自分の意識を繋いでいるのは、緊張感のみだ。
切らさないように切らさないようにと瞼に力を入れていると、不意にあからさまなため息がその場を満たした。
発信源が雅でなければ、この場には只一人。
無意識的にそちらに目を向けると、先程までのにこやかさはどこにいったのか、不機嫌の滲み出る嘲笑とかち合った。
「ーったく、わざわざ出向いてやったのにこんな調子じゃ先が思いやられるぜ」
「ー…、」
はい?
いや、今一体だれが喋りましたか。
というか今目の前にいるのって誰だっけ。
ゆっくり瞬くが、答えはひとつしかない。
聴覚も視覚も働いているはずだが、どうにも脳が反応できていない気がする。
固まる雅にお構いなく、驚愕対象からは次々と言葉が追加された。
「ふはっ、驚きで声も出ないってか。あいにく、“こんな状況“で悠長に猫被りなんてしてられねーんだよ」
「まあ真っ先に利き腕確認しようとしたとこをみる分には、それなりに頭は使ってるようだけどな」
「で?どこまで整理ついてんだ。聞いてやるから完結に喋れよ」
「…、…」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
容赦ない怒涛の追撃に、頭が文字通り真っ白になった。
隣の席の優しくて優等生の花宮君は、どうやら彼自身が作り出した幻だったらしい。
本来ならば、悲しんだり怒るのがまともなリアクションだろうか。
しかし彼は今、確実に雅にとって重要な一言を言ってのけた。
“こんな状況“だなんて、よくない事態に巻き込まれた人間しか口にしない。
もしかして、彼も一緒なのか。
自分と同じ状況におかれている、仲間なのか。
それを脳が認識した瞬間に、がんばりすぎた目元付近の代償が襲ってきた。
ハイスピードで歪んでいく世界。
なみなみと霞む視界に、反射的に布団を引き寄せる。
「ちっ、あーあ…」
「!っ…」
ここにきて、やはり想像以上に精神に限界がきていたことを実感した。
涙を見せた自分に対して面倒臭さを隠そうともしない男に、逆に安心するだなんて。
「…ーふふ、」
「あ?なんだ、頭がおかしくなったか?」
怪訝そうに特徴的な眉が寄せられ、慌てて目尻の水を拭う。
「あ、違うのごめん。安心しちゃって…こんな状態なのにわざわざ来てくれてありがとう」
「…へぇ、思ったよりは神経図太いみたいだな」
「うん、おかげさまでちょっと気が楽になったよ。花宮君、いつも完璧すぎて…そうだよね、性格が悪そうだなんて一番人間味のある欠点で安心した」
「おい、そっちかよ」
「でも猫被りなんて世渡り上手なだけだし、私が迷惑被るわけでもないし、寧ろ優しい花宮君にいつも助けられていたわけだから気にしなくていいと思うよ」
「何勝手に慰めてんだ。別に気にしてねぇよバァカ」
「でも授業中はこれからも助けてねお願い」
「とりあえずオマエが意外に話を聞かないっつーことは分かった」
目の前で打って変わってゆるゆると表情を崩していく女生徒に、花宮から本音の溜息が生産された。
朝から曖昧だった違和感が確信に変わり情報収集に準じていたが、案外近くに鍵が転がっていたらしい。
隣の席の同級生ー飴凪雅の様子がおかしいと目を配って間もなく、教室で彼女が倒れた。
慌てて駆け寄るふりをしてノートを盗み見た瞬間に、確信する。
たった一文字の書きかけだったが、己と“同じ“なのだと判断するのには充分だった。
周囲にバレるのを避けるため自然な動作でノートを閉じて、保健室に連れて行かれた彼女に接触するために、担任に交渉。
現在に至るわけだが、見事に今までの印象が覆されている。
普段接していた雅は、大人しめの模範生だった。
かといって勉強が飛び抜けて出来るわけでもなく、運動が飛び抜けて得意というわけでもない。
友人は少なくも多くもなく、程よく明るくて常にニコニコしている。
特徴をあげるならば、特に用事があるわけでもないのに、朝練の日の自分が朝一で見かけるくらいに早く登校していることくらいか。
彼女自身はあまりに平凡で、だからこそ花宮自身も余所行き用の対応でそつなく過ごしていた。
そのため、唯一のパートナーが現状彼女のみだと判断した時には正直気乗りしなかったのだが。
顔合わせ初っ端で、顔色は蒼白ながら早々に自分の手元をチェックする気配に、少なからず感心はした。
異常事態に気を失うくらいだからもっと錯乱状態で使えないかと思っていたが、やっぱりなと落胆させた泣き顔を晒したのは、ほんの数秒。
その後は一変して明るく、自分の性格の豹変にも笑って返す変人ぶりである。
本性を知っている連中が猫被りを見て面白がるなら分かるが、逆はないだろう。
大らかな性格なのか、感覚がズレているのか。
どちらにせよ、この調子なら保険医が帰ってくるまでに話が済みそうだ。
一瞬で思考をまとめ上げると、花宮は手にしていた雅の鞄からノートとボールペンを取り出した。
「時間が限られてるから話を戻す。オマエが異変に気付いたのはいつからだ?」
右手でかちりとボールペンを鳴らした花宮に、首を傾げる。
「あれ、さっき鞄持っていた時は左だったのに」
「馬鹿正直に利き手で過ごしたら自分が異質ですって言いふらしてるようなもんだろーが」
「あ、」
「ったく、早々に退場してくれてよかったぜ。あのまま教室にいたら時間の問題だったな」
「ごもっともです」
「で。質問の答えは?」
トントンと急かすようにノートを叩く芯の音に、そうだったと記憶を巡った。
頭は先程とは比べものにならないくらいに透き通っており、今までが何だったんだというレベルでゴールに行き着く。
脳内イメージで朝からの映像を疑似体験しながら、スラスラと口を動かした。
「…初めに変だと思ったのは、教室に入ってからだね。黒板の文字、日付とかが“鏡文字“だったから。でもその時点では誰かの悪戯かなとも思ってた」
「まあ有り得ない話じゃねぇな。時間は?」
「えっと…学校についたのが七時半くらいだったから。体内時計では7時40分くらい、かな。でもその後に来たなっちゃんたちと喋ってる時も違和感がすごくて。今思えばみんな利き手が逆だったからなんだけど」
「授業が始まってからは動揺があからさまだったからな」
「だって引っ張り出した教科書に固まってたら、先生がすごい勢いで黒板に鏡文字書いてくから」
「まあ、その場で発狂しなかったことは褒めてやるよ。でも教科書は授業前に出しとくのが常識だろ。遅ぇよ」
「返す言葉もございません」
正論に身を縮こませながらも、会話と同時進行で書き込まれていく文字をのぞき込む。
それは見慣れた方向性のモノで、確実に彼が味方である証拠になった。
「花宮君は、いつ気付いたの?」
「教室に入る直前。教室の扉の傷が逆向きだったからな」
「うえ…洞察眼も半端ないね。でも時計が修理で外されていなかったら、私ももうちょっと早く気付けてたと思うよ…」
「気付いたところで倒れるのが早まるだけじゃねぇか」
「はい、ごもっともです。続けてください」
がばりと頭を下げながら、内心は困惑していた。
花宮が教室に入るのは、朝練が終わって朝礼ギリギリだ。
自分とは、1時間近く差がある。
そして、扉の傷なんかに気付く彼が、部活をこなして教室にくるまでに変異を見逃すはずはない。
自分の中でこの状況の原因には思い当たりがあるが、判明した花宮との時間のズレが判断を鈍らせた。
そんな思考回路を見透かすように、花宮が瞳で笑う。
「その立派なオツムだったらもう大体察しはついてきたか?ー“此処“はどこで、原因はなんだと思う?」
紙上を滑らかに動いていた手が止まり、探るような視線が雅を捉えた。
真意を読ませないその色にゴクリと喉が鳴るが、軽く睫毛を伏せてから唇を開く。
記憶の中でもひときわ主張している、それ。
この世界の異変的にも、彼との共通点としても、現時点ではこれしか考えられない。
「ー鏡の、世界かな」
「…妥当だな。原因に思い当たりは?覚えていること全部話せ」
「花宮君、朝私とすれ違って挨拶したよね。その前に奥の踊り場通ってる?」
「ああ。通ってるぜ」
「鏡が、あったよね。私もあの後鏡の前通ったよ。今日はそれ以外に学校の鏡は見かけてない」
「まあ、あれが原因で間違いはないだろうな。ただ、それだけじゃ条件が甘すぎる」
「うん。鏡の前なんて数え切れないくらいの人が通ってるだろうし。私たち二人だけであることに説明がつかないよね。それに、私と花宮くんの時間差がよく分からない」
ジッとノートに視線を落として、頭を捻った。
まだ、何かあるはずだ。
あのとき他に変わったことは…、
「あ!」
あった。
それらしいものを見つけて花宮に確認しようとしたが、それは敵わなかった。
がらり。
「!」
「ちっ…時間切れか」
やけに大きく響いたスライド音に、花宮が素早くノートとボールペンを鞄に滑らせる。
雅も細長く息を吐いて、心を落ち着ける努力をした。
“こちらの住人“のお出ましだ。
カツカツと躊躇なく近づく音に続いて、仕切りカーテンが開かれる。
「ただいま。花宮君、ありがとうね」
穏やかに微笑む保険医の口元のホクロ位置は、やはり逆だった。
「いえ。そんなに時間もたってないし、大丈夫ですよ」
「助かったわ。飴凪さんも、だいぶ調子戻ってきたみたいね」
「はい、初めよりは楽になってきました」
「それならよかった」
ホッとしたように頬を緩める姿は、本来の姿となんら変わらない。
異変といっても、全てが逆ー鏡映しになっているだけだ。
初めこそパニックになっていたが、少々不便であるものの、改めて考えると大きな危険があるようには感じなかった。
保険医のぶれない言動に、強張っていた筋肉が弛んできたのを実感する。
しかし、それを嘲笑うかのように彼女がゆったりと首を傾げた。
「…そういえば、飴凪さんは何が原因で具合が悪くなったのかしら?朝見かけた時は普通だった気がしたけど」
「「!」」
言葉だけならば何ら変哲のない、保険医として普通の疑問だろう。
ただ、一コマ前とは何かが変わった。
急激に、身体中が警報を鳴らす。
ひやりと背中を伝う冷や汗を感じながら、雅はその原因を探り当てた。
ーああ、目だ。この人、今目が笑ってない。
親の仇でも見るような、または獲物を狙う獣のような、もしくは無機質のような温度のないそれ。
ぞくぞくと悪寒が駆け上がる中、何か喋らなければと思うのに声が出ない。
喉に何かへばりついているような感覚に、呼吸まで乱れそうだ。
全ての時間が止まってしまったような世界で、黒髪が動いた。
かたん。
「…え、?」
軽く音を立てて椅子から立ち上がった花宮が、雅の額に手を伸ばす。
「そうなんですよね、熱もなさそうだし。ただ、先生もご存じかと思いますが彼女いつも朝早いんですよ。飴凪さん、今日はもしかして寝不足だったんじゃない?」
無理しない方が良いよ。
やや心配そうに眉を下げて、そっと額に張り付いた前髪を払われる。
数分前の彼を見てしまった身としては、再び誰コレ状態である。
ああ、こりゃみんな騙されるわけです。
今までの自分は棚に上げて遠い目をするが、いつの間にか普通に再開している呼吸に気付いた。
流石の機転である。
感謝と、もう大丈夫の意を込めて微かに頷く。
「…実は、昨日はいつもより夜更かししちゃって…」
「ーあら、そうだったのね。夜更かしはお肌によくないわよ。女の子は特に気を付けなくちゃ」
ふふ。と口元を隠した保険医の雰囲気は、いつの間にやら戻っていた。
しかし、あの異常な空気もまた事実。
これはやはり、一刻も早く元の世界に戻る努力をする必要がありそうだ。
そしてそのためには、再度花宮と話し合う時間を一刻も早くとりたい。
保険医が背中を向けたのを合図にチラリとみやると、思っていた以上に近い距離に二度見した。
え、いつの間にこんなに接近してましたか。
つっこむまもなく、耳元に落ちた音。
「授業に戻ることにして出るぞ」
小声なため囁かれる形になるが、彼は顔立ちが整っているのだ。
今までの優等生系でも人気は高いが、俺様系でこのシチュエーションは反則である。
おいおい状況を考えろ自分。
違う意味で踊り始めた心臓を叱咤して、首を縦に振った。
早退する呈で進んでいるが、体調が戻ったと言えばすんなり退室できるだろう。
そうすれば、空き教室なり適当な場所で作戦会議ができる。
「あの、先生…体調もよくなってきたので、やっぱり教室に戻ります」
控えめに声を上げれば、机に向かっていた保険医が背中越しに振り向いた。
「そう?あまり無理しないようにね。あ、だったらいつも通り用紙だけ書いてってもらえるかしら」
「!」
「…、分かりました」
さも自然に渡される、保健室利用記録。
雅が受け取るその一瞬、また保険医の空気がよどむ。
隣で花宮が軽く舌打ちしたが、必死で頭をフル回転してくれているのだろう。
保健室の利用は初めてではないため、もちろん書き方は分かる。
問題は、やはり鏡文字で並ぶ文章の数々だ。
まるで品定めするような保険医の前で、当たり前のように鏡文字を綴らなくてはならない。
その上、比較的彼女と関わりが多かった雅は、もちろん普段使っている側の手は使えない。
一般的には難問であろう課題だが、不意に雅がゆるく笑んだ。
その表情に目を見開く花宮の見守る中、‘’左手‘’にペンを持ち、“鏡文字“でさらさらと空白を埋めていく。
「…はい、よろしくお願いします」
「−、ええ、確かに」
慎ましく紙を差し出すと、じっと自分を映し出していたガラス玉に光が戻った。
とりあえずは疑いは晴れたのだろう。
急かす脳を宥めながら、できるだけ緩慢に身支度を整える。
ここで焦りや動揺を悟られれば水の泡だ。
さりげなく鞄をもってくれた花宮にお礼を言って、保険医に一礼した。
「ありがとうございました。お世話になりました」
「いいえ、お大事にね。花宮君もありがとう。また無理しないように様子みてあげてちょうだい」
「もちろんです。では、失礼します」
二人揃って保健室を後にすると、階段をあがって一番端の空き部屋に滑り込む。
保険医が担任に業務連絡を入れる可能性を考慮すると、あまり長居も出来ないだろう。
それぞれ適当に机につくと、どちらからともなく溜息が零れた。
しかし、痛いほどの視線に苦笑した雅は困ったように頬を掻く。
「さて、どういうことか説明してもらおうか」
「えっと…なんであんなに書き慣れているのか?」
「分かっててもあんな普通に書けるもんじゃねぇだろ。しかも利き手じゃない側で」
「でも疑いはしないんだね」
「あの挙動不審が全部演技だったっつーなら心から賞賛するぜ」
はっ、と鼻で笑うようにして脚を組み替える姿がまた絵になって憎い。
それにしても、倒れる前後の自分はそんなに酷い有様だったのだろうか。
それだったら保険医に怪しまれても仕方なかったかもしれない。
反省しながらも、彼の質問に答えるべく姿勢を正した。
「まあ大した話じゃないんだけど、実は一時期、友達と鏡文字で手紙を書き合うのがブームだったんだよね」
「なるほどな、変な趣味が役立ったわけか」
「言い方!まあ役立つ日がくるとは思わなかったけど。利き手については…私、両利きだから」
「へぇ。ちなみに、鏡文字はどの程度書ける?」
「え?んー…普段使わない漢字とか、あまりに複雑な文字でなければ。日常的な文章はいけるかと」
「ふはっ、なんだ案外使えんじゃねーか」
「花宮くん、顔。顔がゲスいです」
反射的に突っ込むが、すぐに思案に入った様子の彼の耳には届いていないだろう。
色々思うことはあるが、そういえばと中断していた内容を引っ張り出す。
「あ、あと条件についてだけど。鏡の前を通ったときね、ちょうど家から連絡があって携帯使ってたよ」
「!確定だな。オレも朝は普通にスルーだったが、教室に戻る前に通った時は連絡を受けて画面見てた」
「そっか、時間差はそれで説明できるね。じゃあ原因は鏡で、条件は携帯を使っていたこと?」
「ああ。大方、電波に紛れて何かしらの力が働いたんじゃねぇか」
「確かに鏡前ドンピシャで受送信する確率は低いけど…」
唸りながら、上着のポケットから携帯を取り出した。
花宮は既に自分の携帯を確認に入っている。
それに倣って操作を進めると、早速異質なものが飛び込んだ。
「…なに、このメール」
「胸糞悪ぃな」
見覚えのない未読のマークに誘われるようにひらけば、所々が文字化けた怪異文が並ぶ。
“あなρЁЙちは異端モナす。
住#*狽ノ見つかり次第ψ¥。
力≧合※&せてお帰&#≒ださい。
定期&#にお助&#メー&∋送信します。
只今の&#数:4人“
せっかく落ちついた胸の中が、再び荒れ狂うのを感じた。
ぐるぐるかき回されて、気持ち悪い。
こみ上げてくる何かに片手で唇を覆うと、その上から更に大きな温度が被さった。
「っんご!?」
「あーあ、色気もなにもねーな。こんな場所で吐くんじゃねぇよ」
「んぐ、んー〜っ…!」
いつの間にやら背後に回り込んでいた花宮の片手が、己の手の上から更に鼻まで巻き込んで口元を押さえつけている。
当然、呼吸ができない。
これ何の拷問。
しかも当の本人は器用にも残った片手で携帯の操作をしているようだ。
カチカチと耳に触るボタン音に、殺気すら覚える。
普段は感謝しかないが、命がかかれば話は別だ。
限界が近づいたのを感じ、片手をふさいでいる携帯を手放して花宮の手を叩こうと振りかぶった、その瞬間。
ばちん。
「!?痛いっ」
タイミングを見計らったかのように、圧迫感が消えた。
彼の手が退いたということは、必然的に平手がぶつかるのは己の手である。
じーんと痺れを訴える手を揺すりながら、涙目でにらみ上げる。
「ちょっと花宮くんは加減を知って!」
「あ?収まったみたいでよかったじゃねーか。怒るのはお門違いってもんだろ、寧ろ感謝して欲しいくらいだね」
「…、あれ…?ほんとだ」
くつりと喉から笑われて、そういえばと我に返る。
身体の緊張も、
耐えきれない恐怖も、
胸のムカつきも。
あっけなく消え去っていた。
何が何だか分かっていなかった目覚めの時も、
保険医の空気にあてられたときも、
メールで再発したパニック時も、
手段はどうあれ、毎度本来の状態に引っ張り戻してくれるのは、彼に他ならない。
いきなり世界が一変して自分の安全の確証もないのに、リスク承知で錯乱状態の人間に会いに来てくれるくらいだ。
伝え方は捻くれているようだが、何だかんだで優しい人なんだろうとは、思う。
改めてじっと見つめられたのが心地悪かったのか、不快そうに片眼を細めた花宮が携帯を弄る指先を止めた。
「…ああ、もしかしてまだ“優しい隣の席の優等生“に未練があんのか?」
だったらさっさと目を覚ませよバァカ。
べっと舌を出した彼に向けられたのは、蔑みでも怒りでも悲しみでもなかった。
「ーいや、花宮君は凄いなと思って」
ぱあ、と輝かんばかりの満面笑顔を向けられて、思わず素で疑問符が飛び出た。
「はあ?なんだそれ…今更過ぎて笑うしかねぇな」
今まで本来の彼には向けられたことのなかったであろう全肯定の感情が、ほんの一つまみの余裕を奪う。
雅本人にはその気がないため、花宮の反応は気にもとめずに好きなペースで喋り続けた。
「花宮くんは私のパニクり具合理解してるつもりだと思うけど、多分それよりだいぶ酷い状態だったよ」
自分の精神状態の危うさにも気付いていなかった。
あのまま一人でいたら、自我が壊れていたかもしれない。
「でも、花宮くんが来てくれただけで、隣にいてくれるだけで、私は私でいられる。笑っていられるから」
こんな意味の分からない世界で日常通りの自分を保てることが、どれだけ大事で難しくて、ありがたいことなのか。
どれだけ、すごいことなのか。
だから、それを与えてくれる彼には最大限の敬意と感謝を伝えよう。
「ーありがとう」
言い終わってから謎の照れくささに襲われたらしい。
雅の視線が落ちつきなく泳ぐ様に、意味もなく長い息を吐いた。
「…ったく、脳天気にもほどがあるぜ。フラグたてんのやめろよ」
「フラグ?」
「そういう台詞のあとで、大体は絶体絶命のピンチが訪れる」
「ははは花宮くんが言うとシャレにならないんだけど…!」
「まあとりあえずだ、今気になるのはメールのこの数字の部分」
トントンと指し示されたのは、メールの一部分。
4と示されたそれには、確実に何かヒントがあるのだろう。
一番考えられるのは、自分たちと同じ世界から来た人間の数だろうか。
二人きりだと思い込んでいたが、違うクラスか、学年か、もしくは学校外かもしれない。
もし自分たちの他にもいるのであれば、まずは合流する必要がある。
問題は、それをどう探し当てるかだ。
「明らかに情報が足りないよね」
「…まあな。ただ、文字化けしてるがこれはヒントくれるっつー意味だろ」
「うーん確かに。じゃあとりあえず新しく何か送られてくるまでは大人しくしとく?」
「それまでにバレたらゲームオーバーだ。できる限りの情報収集はするが、疑われないのが最優先。しょうもねぇヘマすんなよ。とりあえず普通に授業受ける分には問題はねぇな」
「私は大丈夫だけど…花宮くんは鏡文字とか利き手とか」
「あ?んなもんどーにでもなんだよ。何なら今ここで書いてやろうか?」
「あ、すでにマスター済みでしたかそうですよねサーセン」
そうだったこの人天才だった。
世の中の不公平さにから空笑いをこぼすと、ぱこんと携帯で頭を小突かれる。
「っいた」
もはや女としても見られていないのか。
文句の一つも言ってやろうと頭を抑えて見上げると、花宮の唇の端が微かに上がった。
視線は、合わない。
「ー今日中に帰るから死ぬ気で働け」
「!うん」
かがみ屈み視た世界
(さすが頼りがいぱない…けど、戻ってから隣の席で笑わない自信がないかもしれない)
(平凡女じゃねぇのは認めてやるよ)
きらり、光ったのは。
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