◇
「…痛い」
ざあざあと傘を打つ雨音を聴きながら、雅は右の人差し指をティッシュで抑えつけた。
使い慣れない折り畳み傘を使うような時に限って、待ちぼうけをくらうとは。
傘を畳もうとして指を怪我するわ、確認してみれば友人が待ち合わせ場所を間違っているわで踏んだり蹴ったりである。
とりあえず土地勘のない友人にはその場で待たせて自分が向かうが、結構深く傷つけたのか、中々出血が止まらない。
原因である折り畳み傘を持ち直すと、一旦雨宿りをしようと適当な場所を探す。
こんな時に限って絆創膏も切らしていた。
こんな時に限って真っ白の上着を羽織っていたりする。
重ね重なる“こんな時に限って”に頭痛を感じながら、飲食店の裏側−人気のない屋根部分に滑り込んだ。
数分前の出来事のせいで折り畳み傘を畳むのは軽くトラウマになったため、とりあえず広げたまま地面に伏せる。
その拍子に、雨の水滴と混ざって薄まった赤が数滴落ちた。
そんな光景を他人事のように眺めていると、不意に感じる違和感。
「…ん、−?」
急に軽い脱力感に襲われ、思わず立ったまま膝に両手をつく。
自然と向いた視線の先、足下に、白い模様を視た。
チョークで描かれたらしいそれは、複雑な形で雅の周りを取り囲んでいる。
随分手の込んだ落書きだ。
謎のけだるさに見舞われながらぼんやりと見つめていると、模様とは異なる白が視界に紛れた。
目を惹く落書きに紛れて気づかなかったのか。
初めからあっただろうかと首を傾げながらも目を凝らすと、輪っかの形をしている。
「…テープ?」
拾い上げてみれば、どうやらテーピング用のテープらしい。
ほぼ指輪サイズまで小さくなっているところをみると、新品ではなく誰かの私物だろう。
落とし物か、もしくは不要になってポイ捨てしたのか。
後者であれば褒められたものではないが、今の雅にとってはありがたかった。
「ちょいと拝借、っと…」
未だに出血の止まらない指先に巻きつける。
衛生的にはあまりよろしくないかもしれないが、とりあえず現時点では傷が被えればいい。
どこの誰か分からないけどもありがとう。
ちょうど使い切りの量だったらしく、残った芯をポケットに突っ込む。
何はともあれ、これで目的地に向かえる。
傘を拾い上げ、道路側に出た瞬間に、悲劇は起きた。
−びしゃあっ
「は!?…、…」
勢いよく通り過ぎたトラックにあろうことか泥水をプレゼントされ、ショックで固まる。
泣きっ面にハチ。
二度あることは三度ある。
昔の人はよくここまで分かり易く言ったものだ。
冷静に思考を巡らせたのち、せっかく赤から守り抜いた上着が茶色のまだら模様に染まったのを確認して、雅の中で何かが切れた。
「…“−−−”」
普段の彼女を知る者が聞いたら確実に驚くであろう台詞だが、幸い周囲には誰もいない。
言葉にすることで多少感情の高ぶりは落ち着いたらしい。
静かに息を吐ききると、さてどうしたものかと頭を傾けた。
もうここまで災難が続くとなると、今日は帰った方がいい気がする。
友人には悪いが、こんな泥まみれの格好で公共の場に出向く気分にはなれない。
罪悪感を感じながらも連絡をいれようと携帯に手を滑らせるが、不意に背中を駆け抜けた悪寒に動きを止めた。
「な…に、」
今まで感じたことのない異様な空気に身震いする。
景色は変わらない。
自分の存在も変わらない。
ただ、何かが1コマ前とは違う。
そんな曖昧な感覚なのに、肌があわ立ち、体温が奪われた。
その場に崩れ落ちたいくらいに身体の力が入らないのに、指一本動かす気力もない。
未知の感覚に身動きのできない雅の耳に、衣擦れの音が届いた。
「!」
背後だ。
いつの間にやら背中に寄り添う冷たい温度に、今度こそ悲鳴をあげた。
「っ誰…!?」
そんな雅をあざ笑うかのように、後ろからのびた手が彼女の右手首を掴む。
黒い革手袋のせいか、持ち主の体温なのか。
氷のようなそれに、ひゅっと息が逆流した。
そのまま右手を肩越しに背中側に引っ張られ、無理な体勢に思わず顔が歪む。
不満も爆発しそうだが、妙な威圧感に動けず、されるがままだ。
しかし、状況が変わった。
右の人差し指の圧迫感が消え、生温い温度が肌を伝うと、さすがに何をされたかは理解できる。
嫌悪感から、火事場の馬鹿力を発揮できた。
「っの、変態…!」
ぶん。
瞬時に左手に持っていた傘を逆手に持ち替え、思い切り後ろに向けて振り切る。
自身が雨ざらしになるが、今更そんなことは気にならない。
人に怪我を負わすのは後味悪いため威嚇程度のつもりだったが、手応えは感じなかった。
ただ、空気を切った感触ついでに右手が自由になったことは一番の収穫だ。
右手を庇うように抱え込んで、勢いのまま身体を半転させる。
ぎっと睨みつけた先には、1メートル程度の距離をあけて男が佇んでいた。
「…誰?いきなり何するんですか」
頭から爪先まで漆黒で身を包んだ彼からは、やはり異質の空気を感じる。
次の動きに備えるようにもう一歩分距離をとりつつ、相手の出方を窺った。
警戒心丸出しの雅に対し、男が静かに顔を挙げる。
特徴的な麿眉に、端正な顔つき。
無意識に息を呑む雅の前で、形のいい唇が、くつりと歪んだ。
「ふはっ…“あんな条件”揃えるからどんな人間かと思えば、ただの箱入り娘かよ」
「…別に箱入りじゃありませんけど」
「指先舐められたくらいであんな過剰な反応するくらい男慣れしてねーんだろ」
「常識的に考えて初対面で指舐めるとかただの変態ですからね!?」
常識が通じない。
肌を伝った舌の感触が蘇り、反射的に人差し指を覆い隠す。
彼の手でテープがはがされたため、また赤が滲んでしまっている。
とんだ迷惑だ。
顔に熱が集まるが、雨のおかげで身体は冷えてきているため直に落ち着くだろう。
それよりも、気になる点がひとつ。
「三回目ですけど、誰?もう宇宙人とか言われても納得できるレベルですが」
前髪から落ちる雫を鬱陶しそうに拭いながら、男を視線で射抜く。
自分とは違い、涼しげな装いを保つ彼は、全く濡れていない。
この雨の中、同じ環境に身を置きながら、まるで雨自体が“なかったこと”になっている。
先ほどの悪寒といい、雰囲気といい、もはや人間でないことは明白だった。
そんな雅の思考を読んだのか、嘲笑を浮かべた男がハッと息を漏らした。
「そっちから呼び出しといてそれはねぇだろ。まあ、その間抜け面から呼ぶ気がなかったのはよく分かったけどな」
「まぬ…っ、−まあ、何かしら召還してしまったのは理解しました。お手数かけてすいませんでした。ご察しの通り間違いなので、すみやかにお引き取りください」
あまりの言われように言い返しそうになるが、絶対得にはならない。
さわらぬ神に祟りなし。
本能的に厄介を避けるべく、当たり障りのないように言葉を落とした。
ぺこりと軽く礼まで添えるが、鼻で笑って一瞥される。
「無理だな。残念ながらもう契約は済んでる。ひと仕事してからじゃねぇと帰れねーんだよ」
「…契約…?」
「オマエが呼び出して、オレが血を取り込んだ時点で契約完了だ」
「!」
さっきのアレか…!
どう思い返しても一方的だったが、契約というからには自分が何を言おうが覆ることはないのだろう。
なら、そのひと仕事とやらをさっさとこなして引き上げてもらうしかない。
すっぱり切り替えると、ため息と共に傘をさし直した。
ここまでずぶ濡れになってからでは意味をなさないが、雨にさらされ続けるよりは風邪引きを回避できる可能性は高い。
「…それで、仕事というのは具体的に何をするんですか」
「契約者の願いを叶える」
「なんだ、それなら簡単じゃないですか」
だったらこのずぶ濡れ状態を何とかしてもらおうじゃないかとパッと顔を輝かせるが、そんな考えはお見通しらしい。
舌を見せつけるように唇を歪めた男が、一瞬で雅との距離を詰めた。
「ただし、血の契約を交わしているからな。箱入り娘が考えそうな生易しい願いは受け付けられないぜ?そのイイ子ちゃんの頭でよーく考えるんだな」
「…つくづく嫌みったらしい言い方しますよね。何で契約しちゃったんですか。手違いっだって分かったのならそのまま帰ればいいのに」
「ふは、さすが人間サマの考えることはつくづく甘ったるい。甘すぎて反吐が出る。血の契約は召喚するにもされるにも相当の覚悟がいるもんなんだよ」
「覚悟…、」
そういえば、彼が現れる前にも自分の血液が妙な落書き上に落ちたのを確認している。
確かに己の血を使うという行為は、平凡な生活を送っていれば中々覚悟がいるだろう。
やはりあれが引き金だったのか。
書いた本人が責任を持って消してくれていればこんな手違いは起きなかっただろうに。
沸々と湧いてきたどうしようもない怒りと葛藤していると、ニヤリと引き上げられた唇から付け足すように言葉が流れた。
「…ちなみに、呼び出しの陣は召喚に成功したら消える仕組みになってるぜ?」
「え。じゃあ前の人は召喚失敗してて、それをたまたま受け継いで成功させてしまったと?」
「ああ、こっちもオマエらのどうでもいいお願い事にいちいち反応してらんねぇからな。ある程度“条件”をいじってんだよ」
「条件って…落書きに血を落とすだけじゃないんですか。あ、なんか呪文がいる?いや私は何も言ってないし…あれ、私なんで召喚成功させたの」
「だから言ったじゃねぇか。“あんな条件揃えるなんてどんな人間かと思った”ってな」
「…そういえば」
あの場では結局流してしまっていたが、今更ながら気になってきた。
自分は一体何をしたんだったかと、曖昧な記憶を遡る。
いきなり身体が怠くなって、見付けたテープを巻いて、トラックの泥水を被ったくらい…、
「…まさか、」
はたりと動きを止めた雅に、心底愉快そうに両眼が細められた。
「思い当たったかよ?まあ知られたところで何てことねぇからな、答え合わせといこうか。−“陣に血を捧げること”“召喚されたモノを身に付けること”“指定の言葉を口にすること”オマエが見事に揃えたのはこの三つだ」
「いやいやいや」
歌い上げるように紡がれた条件達に、何から突っ込んでいいのか分からない。
一つ目はまあスタンダードだろう。
問題は二つ目からだ。
召喚されたモノ、とはつまりあの使い終わり寸前のテーピングテープだろうが、あんなもの普通はゴミだと思ってスルーするに決まっている。
雅だって怪我をしていなければ気にもとめなかっただろうし、ましてや指に巻いたりもしない。
身につけること前提ならばわびさびのきいた指輪のひとつでも準備してほしい。
そして最大の突っ込みは三つ目だった。
指定の言葉と表現されたが、あの短い時間内で雅が口にした台詞なんて限られている。
雅自身、トラックに向けて放ったあの言葉は己が生み出したものとは信じがたいレベルのものだ。
それを条件に指定する辺り、召喚される気なんてサラサラないのではと疑ってしまう。
雅が突っ込む前に、当の本人がニッコリと微笑んだ。
「ああ、召喚される気なんて全くねぇな。どこの誰とも知らねーヤツの願い事を叶える?んな面倒なこと誰がするかよ」
「うわー…」
爽やかに言い切ったな。
あからさまにどん引き状態の雅に対し、不意に彼の表情に影がさした。
「…それにだ。言っただろ?血の契約はそれこそ相応のリスクが付きまとう。俺達との取引なんて泥沼だからな、簡単に召喚されればそれだけ闇に落ちるヤツが出てくる。できればそんな人間は増やしたくないんだよ」
「…、」
胸元を掴んでの切なげな訴えに思わず意見をひっくり返してしまいそうになったが、それも一瞬だった。
「…なーんて、そんなわけねぇだろバァカ!しょうもない願い事で契約して破滅していく様を眺めるのは楽しくて仕方ないぜ」
一変して晒されたお手本のようなゲス顔に、反射的に後退する。
「…、…ちなみに座右の銘は」
「人の不幸は蜜の味」
「うーわー」
「まあそういうことだから、くそめんどくせぇが箱入り娘のお手並み拝見といこうか。ちょうど暇つぶしを探してたところだしな。暫くはおもしろ可笑しく見守ってやるよ」
「どうぞお構いなく」
これが夢なら醒めてくれ。
(ああ、そういや答えてない質問があったな)
(あ、いいです今更なんで“悪魔さん”)
雨、血、泥、時々悪魔。
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