◇
「…なにコレ、めんどい。キモイし」
とある校内、辺りに広がるグリーンとベージュの絨毯を前に、紫原は苦々しく言い捨てた。
うねる肢体から所々垣間見える床は、どう頑張っても渡れる面積を残していない。
お菓子につられてノルマ以上の“仕事”を引き受けたことを後悔したのは初めてだ。
「趣味ワリー夢」
大袈裟に息を吐くと、持っていたポテチの空袋を手から放した。
利き手の指先に付着したコンソメ味の粉を舐めあげたのち、気怠げに腕を振るう。
瞬間、彼を中心に円上の膜が張られ、ソレに触れた先から虫の肢体は跳ね退けられた。
−人間にとって害を及ぼす領域に入った悪夢を退ける“悪夢退治屋”。
メンバーそれぞれが小道具の他に、夢中内限定の能力を持っている。
紫原のそれは、所謂バリアのようなものだった。
発動した本人や本人が接触しているもの以外の、一定範囲への侵入を拒む、言わば絶対防御だ。
悪夢退治屋のメンバーの中でも特に応用が利き、需要度が高いため、駆り出されることが多い。
「…まいう棒追加してもらわないと割に合わないし。つーか元凶どこ」
蠢く虫の中という稀に視る悪環境に、紫原の苛立ちはピークだった。
できることなら今すぐにでも帰りたい。
しかし、まずはこの夢の主を見つけないことには話が始まらない。
助けて欲しかったらもっと分かりやすいとこにいてよ。
そんな無茶ぶりな要望を呟く紫原の耳に、空気の揺れが届いた。
「−んで…、っ…れか−……!」
幽かすぎて内容は聞き取れないが、恐怖や困惑といった感情を孕むそれに、探し求めている張本人だと確信する。
声を頼りに足を進めていくと、教室の一室に辿り着いた。
表記は、理科室。
横スライド式のその扉にももれなく虫が蠢いていたため、腕を一振りして躊躇なく扉ごと吹き飛ばした。
強い空気の振動が収まると、土煙に紛れて室内が露わになる。
「っ…へ、ぁ、えぇ…?」
唐突な異分子の介入に戸惑いを隠せない彼女が、出入り口横の教壇部分にいたのは幸いだっただろう。
先程の衝撃により散乱した机や器具の被害は一切受けていないようだった。
あー、そういや中を確認できない状態でのドアの破壊は赤ちんに禁止されてたっけー。
まあ怪我はないみたいだし結果オーライでしょ。
そんな自己解決を終えると、やはり床を埋め尽くすベージュとグリーンを弾きながら、対象者に近付く。
双眼を見開いて固まる彼女は、恐らく全く状況を呑み込めていない。
「起きてるー?キモイしこんなとこ早く出たいんだけど。アンタ連れてかないと仕事終わんないんだよね」
彼女に襲いかかる寸前だったであろう人体模型をナチュラルになぎ払いながら、小柄な部類であろう少女の前に立った。
至って普通の、平凡そうな女生徒だ。
悪夢は過度なストレスなどから取り憑くことも多い。
学生ならば勉強や受験などのプレッシャーか、思春期独特の人間関係か。
真面目そうな出で立ちから大体の原因の検討をつけ、とりあえず脱出させようと手を伸ばした。
遠慮なく腕を掴むが、全く反応がない。
もしや気を失っているのかと怪訝な顔でのぞき込むと、大きな黒眼とぶつかった。
先程まで弛んでいたであろう涙腺の名残が一粒頬を伝うが、見開く瞳はしっかり紫原をとらえている。
何に対してかは分からない。
柄にもなく、動けなくなる自分に戸惑った。
固まる紫原を前に、控えめそうな唇が薄く開く。
小首を傾げる動きに合わせて、サラリと質のいい黒髪が肩口から流れた。
「…紫芋みたい」
一瞬の間を置いて、彼の中で止まっていた時間が急速に動き出す。
「……、はあ?」
「髪の色…」
「意味分かんないんだけどー。ってーか結構神経図太いんじゃないの?」
この状況で相手の髪の色から食べ物を連想する余裕があるとは、とんだ神経の持ち主だ。
さっきの奪われた時間を返してほしい。
曖昧な苛立ちに苛まれながら、不機嫌も露わにその華奢な身体を抱え上げた。
◇
紫原は再び佇んでいた。
この仕事の面倒な所は、現場に赴くまで現状と対象者が分からないことだ。
自分たちが夢の中に踏み込むことで、初めて本部の方へ情報が送信される。
受信した情報が本部内のデータと比較され、既に登録がある場合は再びデータが送られてくる。
といっても、同じ系統の悪夢を同じ人間が視ることは稀だ。
こちらが上手に悪夢を退けられれば耐性がつき、滅多なことがない限りリバウンドはしない。
そのため、本部から送られてくる情報は大抵“データなし”の筈だった。
しかし、夢内に足を踏み入れた瞬間に感じたデジャヴ。
同時に通信用の携帯が震えるが、内容は確認しなくてもよぎる確信があった。
このインパクト大の悪環境は記憶に新しい。
半目になりながらしぶしぶ画面を開くと、シンプルな文字が羅列した。
《データあり》
対象者:飴凪雅(女性)
夢特徴:虫
危険度:身体C精神A
難易度:C
備考:二回目、リバウンド者可能性有
「…、まさかとは思ったけどさー」
くわえていた新発売のまいう棒をさくさく消費しきると、苦々しく口元を結んで歩き始める。
今回は体育館らしい。
己の中で馴染み深いその場所がやはり虫に支配されているのを目撃し、どことなく複雑な気分になった。
能力を使いながら中へズカズカ進むが、見渡す限りでは肝心の本人が見当たらない。
手当たり次第に虫を弾き飛ばしながら体育館内を探り歩く。
ステージを上がった辺りで、微かな空気の振動を捉えた。
ステージ袖にうずくまる人影を見るなり、大股で移動する。
ここらはまだ虫の被害は少ないようだった。
ここまで避難したものの、耐えられなくなったのだろう。
込み上げるものを抑えるように、嗚咽が混じる。
「っ…ぅ…!」
「いたし。何でまたこんな夢視てんの?」
「…、え…?」
呆れたように見下ろす紫原の存在に気付いたらしい。
見覚えのある漆黒がまっすぐにこちらを認識した。
こちらにとっては再会だが、あいにく前回の任務は成功しているため夢の記憶は自動抹消され、あちらからすれば初対面のはずである。
濡れた睫毛がぱちぱちと瞬いた。
記憶はないはずだが、その視線から彼女が言わんとしていることは何となく想像できた。
「…何か、芋みたいな色」
「はあ?だから意味分かんないし」
「紫の芋、食べたい」
「アンタそれしか言わねーじゃん」
ため息をつきながらも、予測を裏切らない言動にどこか満足する自分がいた。
◇
彼女との再会はそれからも続いた。
三回目は、密室の音楽室。
「…紫芋?」
「…あのさあ、どーでもいいけどそれ好きなの?」
四回目は、雨漏りした美術室。
「芋」
「そろそろ捻り潰していいー?」
五回目は、薬品の匂いの充満する保健室。
「…あ、」
「紫芋はどーでもいいし」
「え、エスパーですか」
「うん、それでいいや。なんかオレも食べたくなってきたかもー」
任務の成功の証として、確かにその都度彼女の記憶はリセットされている。
にも関わらず、毎回決まって行き着くリアクションが同じだった。
恐怖と戸惑いに塗りつぶされていた表情が、自分と出会った瞬間に興味の色彩に変化する。
回数を重ねるうちにはっきりと自覚できるようになり、それを不快には思わなかった。
虫の蠢く学校内という環境を認識した瞬間に足早に夢主を探すくらいには、気になる存在になった頃。
「−紫原」
「…赤ちんがこんな時間にいるの珍しいねー。何かあった?」
出動前、呼び止められて足を止める。
ゆるりとした通常運転を装いながらも、内心は穏やかではなかった。
任務グループのリーダー格と言える赤司は、忙しすぎて本部で顔を合わせることなど殆どない。
そんな彼が直々に活動前に声を掛けてくるということは、任務関連、それも結構な問題が絡んでいる可能性がある。
そして、今の紫原には充分すぎる思い当たりがあった。
身構える内心を見透かすように、赤司の双眼が静かに瞬く。
「大体察しはついているようだが、最近、キミがよく当たるリバウンド者の彼女のことだ」
やっぱり。
曖昧なもやもやを抱えながらも、どうすることもできず沈黙で続きを促した。
「数が飛び抜けているね。気になる点もいくつかある」
まあまず反応が普通じゃないけど。
黙り込む彼に何を思ったのか、思案するように一旦呼吸を置いた赤司が再び開口する。
「−もし今度彼女に当たったら、任務の遂行結果に関わらず“記憶消去”をしてくれないか」
「…は?」
“記憶消去”
その名の通り、夢の記憶を夢主の脳内から強制的に排除する手段だ。
滅多に使うことはないが、万が一任務を失敗して記憶が残ってしまう場合には混乱を避けるために施行する。
ただし、意図的な記憶の操作の場合は悪夢自体はそこに残ってしまうため、いじれるのは自分たちの存在だけ。
知人なら“夢に出てきたよー”とネタですまされるが、これから出会う可能性のある人物に覚えられてしまうのはいただけない。
場合によりけりだが、払うのに成功したにも関わらず記憶消去を行うなど、今までに例はない。
『…紫芋みたい』
不意に、自分だけを映す大きな黒眼が脳裏を占めた。
今までは自然にリセットされていた記憶が、人工的にリセットされたらどうなるのだろうか。
「…−成功したら勝手に記憶消えるのに二度手間じゃん」
「任務の遂行に関わらずとか、赤ちんはオレが失敗すると思ってるわけ?」
「そもそもまたオレが遭遇するとは限らねーし」
ぼんやりとした思考回路とは裏腹に、唇は勝手に動いている。
普段なら赤司に対して反論することなど滅多にないのに、今は抗議をしているという自覚すらなかった。
−別に記憶消去自体は特に難しいわけではないし、悪夢退治屋メンバーは誰しもが行ったこともあるはずだ。
「…、」
それなのに、この気持ちは何だろうか。
確かに面倒は面倒だが、こんなに気分がのらないのは初めてだった。
紫原が曖昧な感情に眉を顰めると、その苛立ちを汲んだのか。
今まで黙って彼の雪崩る台詞を受けていた赤司が、フッと口元を緩めた。
「現状では気になるだけで、別に彼女をどうこうするわけではないよ。それに混乱さえ招かなければ、仮に現実世界で会うことについては規制はないはずだが?」
「はあ!?別にそんなんじゃねーし!大体どこの誰かも分かんないのにリアルで会えるとか非現実的だし!」
「夢の中で聞き出せばいいじゃないか。よほど困惑していない限り相手の意識もはっきりしているはずだ」
「っ、でも会っても覚えてないんじゃオレが変な人じゃん。つーかそんなんじゃねーし!」
「分かったよ、すまなかった。まあ仮に記憶消去をしたとして、彼女から記憶が完全に消えるかは分からないだろう」
「…、」
どこか微笑ましそうな笑みのまま、真剣味を帯びて続けられる業務内容。
再び口元を結ぶ姿に苦笑をこぼしながら、本件を伝える。
「人工的に消去をした上で、その次の任務にはオレも同行するよ」
「赤ちんが同行?いつ遭遇するか分かんないのにどうするわけ」
「実際に見て把握したいからね。これからは出来る限りで紫原の任務について行く。今までの遭遇率なら、運が良ければ数回で当たれる計算だ。記憶消去ができ次第連絡をいれてほしい」
「…りょーかい」
どこか複雑な気持ちのまま、ゲートを開いた。
振り返ると、見慣れた赤色は既に背中を向けて遠ざかっていた。
やはり本日も忙しい身なのだろう。
そんな中で時間を作って、しかも毎回同行するとは、一体どんな面倒ごとを“彼女”が抱えているというのか。
それよりも、まずは言い渡された任務についてだ。
次に会ったら、自分の手で彼女の己に関する記憶を消さなければいけない。
できることならば今は逢いたくないが、この世界ではそれは叶わない。
そして、今の確率的に予感はある。
ゆっくり開眼したのち視界に広がった光景に、心底うんざりした。
「…もう遭っちゃったしー。ほんとに何この確率」
グリーンとベージュのうねる波の中、記憶内で翻る漆黒を探しに重い足を踏み出した。
初めまして、昨日ぶり、今からキミの中からオレが消える。
(忘れたら許さないし)
(よく分からないけど、どこかで無茶ぶりなことを言われているような…?)
いも、たべよ。
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