君の為の鎮魂歌


「オレが元に戻ったら。“江戸川コナン”は、何処に行くんだろうな」

 ぽつり、と。潮騒に紛れて聴こえた声は、とても淡々としていた。まるで明日の天気を尋ねるような調子で紡がれた言葉に、彼は一瞬それが自分への問い掛けだと分からなかった。
 ともすれば聞き逃してしまっていただろう、独り言にも似た其れ。彼は、声の主である少年を見る。けれど少年は彼より数歩先をゆっくりと歩くだけで、決して振り向きも、彼の反応を確認したりも。それ以上の言葉を続けることさえ、しなかった。




 未だ夏にはほんの少しだけ早過ぎる、けれど春と言うには暖かすぎる、そんな陽気の日。
 こんなにも天気が良い日に家で読書なんて不健康だ、と少年の下に唐突に訪れた彼は言い放つと、ほぼ無理矢理少年を引き連れて、隣県まで連れ出した。居候をしている家の少女(と言うには、彼女は幾分と大人に近かったけれど)にいってらっしゃい、と笑って送り出されて。腕を引かれながら、普段は利用しない行き先の電車に乗せられて(ちなみに代金は彼が全て支払った)、ようやく車窓から海が見えてくると、それまで文句と皮肉ばかりを口にしていた少年も次第に何も言わなくなっていた。
 何だかんだ言って、少年は外に出る事が嫌いではない。その証拠に、いつも彼や少年の周囲の子供達。居候先の彼女やその友人に、はたまた少年と親交の深い初老の男。様々な人が少年を半ば無理矢理色々な場所に連れて行ったり、仕方なく少年が着いて行く羽目になっても、結局いつも最終的に、少年はそれを受け入れている。
 其れが諦めからなのか、それともいつの間にか嫌な気分を忘れてしまうのかまでは、その時々によって異なるから一概にどちらとは言えないのだけれど。恐らく少年の適応能力が、人一倍高いのだろう、と彼は思っていた。
 尤も、殺人事件などと言う非日常にあれだけの頻度で遭遇していて、気分を悪くしたりする事無くその解決を図ろうとする位なのだから適応力もあって当たり前なのかもしれないが。

 今回も少年はそのずば抜けて高い適応力を発揮して、結果的には彼と二人並んで――と言うよりは少年の後を彼が追う形ではあったが、ともかく二人で砂浜を歩いていた。

(普段とは、正反対の立ち位置だな)

 そんな事を頭の片隅で思いながら、彼――黒羽快斗は、少年――江戸川コナンの後をゆっくりと追いかける。
 砂の上には小さな足跡と大きな足跡が刻まれては、その都度波が砂を浚って、その痕跡を消していく。
 快斗が自分の足元に視線を落とせば、また新たな波が自分の足跡を消し去る所だった。

自分達が歩いた跡には、何も残らない。

 当たり前の事だ。砂浜を歩けば、普通はそうなる。けれど其れは、別の何かを想像させてしまう。そんな時だったのだ。少年が、コナンが、そう言葉を呟いたのは。
 思わず快斗は足を止めて顔を上げ、コナンを見る。けれど、コナンは快斗の方を見る事も無く、先程までと同じペースのまま歩き続けていた。
 それを見て、慌てて快斗も歩き出す。快斗から手を伸ばせばコナンへと届く、けれどコナンから伸ばしても快斗には届かない、絶妙な距離。その距離を保つように、快斗も歩く。

もしも。もしも、目の前の少年が。江戸川コナンが、工藤新一に戻ったら。

 今の彼は、小学1年生の子供だ。だが、実際は違う。本来ならば彼は高校生として、探偵として、生きている筈だった。それが事件に巻き込まれ、この姿になってしまったのだ。無論、これはコナン本人から聞いた訳ではない。
 江戸川コナンが工藤新一である、と知った快斗が、自分自身で調べ出した結果だ。だが、コナンは自身が喋っていない情報を快斗が既に知っているモノとしていつも話す。それは勿論、自分も、だ。快斗は一度たりとも、目の前の少年に自分が世を騒がせている世紀の大怪盗だ、などと告げたことは無い。
 けれどコナンはそれを確定の物であるとして扱っているし、快斗自身肯定の言葉は紡がなくとも、否定の言葉は言わなかった。――ある種の、信頼関係。怪盗である自分と、探偵である彼の間にある、二人だけの暗黙の了解。
 そんなものが成立してしまっているなんてどうかしている。そう思う一方で、その関係が心地良い、と感じている自分がいるのを快斗は知っていた。でなければ、こんな風にわざわざ休日にまでこの探偵の少年に関わろうとなどしない。
 そしてそれは恐らく、この目の前の少年も同じなのだろう。そうでないのなら、今頃快斗はとっくに監獄の中だ。

快斗は、コナンが工藤新一であると言う事を、誰にも言わない。
コナンは、快斗が怪盗キッドであると言う事を、口にしない。

 だが、コナンは自分が工藤新一であると快斗に言う。快斗は自分が怪盗キッドではないとはコナンには言わない。
 評論家と芸術家。怪盗と探偵。恵まれた家庭と片親の家庭。違う制服。同じ顔。幼馴染の少女。異なる点は多々有って、共通する点も多々ある、けれど――似て非なる存在。
 けれど、彼と少年は、とても似ている――と彼は、快斗は思っていた。

消えたら、何処へ行くのか。

 江戸川コナンは、仮初の存在だ。けれど、だからと言って存在していない訳じゃない。戸籍上その名前の人物は間違いなく存在して(そうでなければ学校になんて行ける筈が無い)少年の周囲の――例えば探偵団の彼らの中には。
眼鏡を掛けていて、生意気で、頭が良くて頼りになって、歌が下手で、居候先のお姉さんが好きだ、という彼が居て。
 その居候先の彼女の中には、利発で聡明で、可愛くて、彼女の愛しい人に似ていて、ほっとけない子である彼が居て。
 少年の学校の先生や、居候先の探偵やその奥さん、居候先の彼女の友人、警視庁の人達。その他、少年が今まで関わってきた大勢の――全ての人達の中に、確実に“江戸川コナン”は存在するのだ。
 ならば。もしもその江戸川コナンが、元の……工藤新一の姿に、完全に戻ってしまったとしたら。
 彼らの中に存在する“江戸川コナン”は、一体何処に行くのだろう。

 少年には体が無いから(正確に言えばその体は工藤新一のモノだから)、肉体的な死は訪れない。
 精神的な死とも、また違う。何故なら少年の精神もまた、工藤新一本人のものだ。
 ならば――少年に訪れるのは、何か。それは、存在的な死だ。
 江戸川コナンだった肉体も精神も、成長と言う形でこの世界には残る。けれど、彼の存在は。工藤新一が元に戻った時点で、完全に抹消されてしまうのだ。

潮騒の音が、する。波は足元の砂を浚って、痕跡を消していく。跡形も、無く。


「……なぁ、快斗」
「……」
「オメーは、どう思う?」


 改めて投げられた問い掛け。その問いにどう答えるべきか、快斗は咄嗟に判断が出来なかった。何故ならそれは――快斗本人にも、言える事だったからだ。

 怪盗キッド。世間を騒がせている、大泥棒。8年前に姿を消し、再び現れた謎に包まれた奇術師。
 8年前の怪盗キッド――つまり自分の父親が、何を求めて宝石を。パンドラを捜していたのかは、自分にも分からない。
 けれど自分の使命だけはハッキリしていた。その宝石を自分の父親を殺した組織よりもいち早く手に入れ、粉々に砕いてしまう事。それが、自分の役目であり、果たすべき使命だ。

ならば。もしその使命が達成し終えた後、怪盗キッドはどうなるのか。

 パンドラがこの世界から亡くなってしまえば、もう自分の。怪盗キッドの役目は終わりだ。もう何を盗む理由も必要も、無くなる。自分がしたいのはあくまで父親の意思を継ぐ事であり、盗みを働く事ではない。
 それなら、もし。自分が全てを終えて怪盗キッドを辞めたのなら――“怪盗キッド”は、何処に行くのだろうか。人々の心には、残るかもしれない。けれど人は薄情だから、いつまでもその名を覚えている人は少ないだろう。
 それは目の前の少年も同じだ。覚え続けてくれる人は、きっと居る。けれど、そういう事が言いたいのではないのだ。


要らないと。捨てられた仮初の“自分”は、何処に行くのか。


 必要だからと拾われて(作られて)。不要だからと捨てられる。自分なのに、自分ではない存在。
 彼らの末路は一体何処にあると言うのだろうか。


 不意に快斗は足を止める。するとそれに気付いたのか、目の前を歩いていたコナンもゆっくりと足を止めた。振り向いた先には、快斗とコナンが歩いてきた波打ち際が見える。けれどその何処にも、二人が歩いていた足跡は残されていなかった。
 潮騒が、鼓膜を揺らす。小さな波が、足元を浚う。残されるのは濡れた砂だけで、それもやがて乾いてしまうだろう。

何処にも、軌跡など無い。自分が歩いてきた軌跡も、少年が歩いてきた軌跡も。

「オレは」

 気付けば、独りでに唇は開いていた。自分の声が耳に届いて、そこで漸く、ああ、自分は今喋っているのだ、と分かった。
 そんな無意識にも近い行動を、いつの間にか振り向いていた少年は黙って見つめる。まるで動く唇が紡ぎ出す言葉を、一言たりとも聞き逃さないとでも言うように。
 真っ直ぐに向く瞳は、海と同じ色をしていた。冷涼とした、聡明な色を宿した意志の強い瞳。その瞳に自分自身が映っているのを半分は無感動に見つめ返す。同じ、藍の瞳で。

「オレは、忘れないよ。例えいつか消してしまっても。オレだけは、ずっと覚えてる」

 そう。ずっと、ずっと。それこそ死ぬその時まで、自分だけは覚えている。
 自分が生み出した存在。自分が消してしまう存在。全ては自分のエゴだけで作られた彼を、どうして忘れてしまえるだろう。
 そんな我侭は赦されない。自分が自分である為に付けた仮面を、自分自身で埋葬するなんて、そんな我侭は赦されていい筈がないのだ。
 例え世界が忘れたとしても。例えその面影に胸が痛んでも。それでも忘れてはいけない。


“江戸川コナン”を。“怪盗キッド”を。同じ時期に生きた、その存在を。


 少年の質問への回答になって居ないことは、快斗自身よく理解していた。けれど、これで正しいのだと。自分の勘が告げていたから、快斗は迷わなかった。先程とは反対に、快斗が真っ直ぐにコナンを見つめる。
 するとコナンはほんの少しだけその鋭い双眸を細めて、それから。

「そうか」

 そう短く呟いて――微かに、笑った。その反応に、快斗の口元も自然と緩く弧を刻む。

 いつの日か、きっと。目の前の少年は、消えてしまうだろう。月下の奇術師である彼と同じように。
 目の前の少年はその事を哀しみはしないだろう。何故なら、自分も奇術師である自身が消えても哀しみはしないから。
 僅かな寂寥の感を覚えはしても。今までの事を捨てて日常に戻る事を、少しだけ淋しいと感じたとしても。

 だからこそ、快斗は。目の前の少年が消えてしまったら、泣いてあげよう、と思う。
目の前の彼の代わりに。ほんの――1年にも満たない時間だけを生きた、少年だけを想って。

(××してたよ)

 決して口にする事の無い想いと共に。唯一人の、聡明だった小さな名探偵の為だけに。





<了>





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