言えない言葉


いっそ、大嫌いだと。そう言ってしまえれば、良かった。
其れが嘘でも真実でも構いはしない。唯そう一言言えれば、俺も少しは救われるような気がしたのだ。
嫌いだと一言口にするだけで、きっと俺の呼吸はずっと楽になる。
例えそれが嘘で塗れた言葉だったとしても、嘯けるだけ未だ余裕があるという事だ。
もしくは、嫌いだと言っても支障が無い程度の感情しかない、という事。だがどうだ、俺は嫌いの一言さえ言えなくなっている。
誰もいない筈の保健室。俺しか居ない場所だと言うのに、独り言でさえ嫌いと言えない。

「あー……俺も随分とヤキが回ったもんだな」

咥内に広がる、煙草とは異なる苦い味をかき消すかのように、不味いインスタントコーヒーを呷る。
安物の其れは風味も何もなく、それでも確かに口の中の嫌なモノを喉奥へと流し込んでくれた。
それでも、喉の渇きは癒えない。心の渇きは、もっと癒えない。カラカラに乾いて、痛い程だと言うのに。

――嫌い、と。その一言さえ言えたなら、その渇きすら少しは癒えるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。そんなことある筈がない。縦しんば言えたとして、込み上げるのはきっと空虚さと多大な痛みだ。
この世に生れてあと少しで三十年。今まで恋だって幾つもしてきたし、付き合った女だって、抱いた女だって星の数とは言わないが、それなりには居た。
振られた事もあれば振った事もあるし、将来を約束した事だってある。――尤もそれはガキの絵空事だった訳で、実現はしていないのだが。
愛した女もいた。愛せなかった女もいた。経験豊富とまで行かずとも、それなりに色々な思いでもある。
だが、こんな風に。まるで自分の教え子達と同じような青さで、可笑しくなりそうなほど狂おしく、誰かに惹かれた事なんていつ振りだろうか。
其れこそ初恋以来かも知れない、なんて、思わず馬鹿らしい事を考えてしまう。ああ、馬鹿馬鹿しい。本当に、馬鹿馬鹿しい。
惚れた腫れた好きだ愛してる愛しいキスしたい抱きたい途方もなく触れたくて堪らない。
込み上げる欲望は本当に学生時代の其れ其の侭で、そんな青臭い自分が無性に恥ずかしくなる。

ふと気付けば、喉元の渇きを少しでも緩和する為か、はたまた咥内の苦みを飲み込む為か、カップに並々と注がれていた珈琲は綺麗さっぱり消えていた。
仕方なく椅子から立ち上がり、二杯目の用意をする。と言ってもカップに安物の粉を入れて、ポットからお湯を注ぐだけの単純作業だ。
二杯目を用意し終えてから、いい加減書類に取りかかろうと手を伸ばす。だが、A4の紙の上に踊る文字は何一つ纏まった意味として頭に入って来ない。
これは重傷だ。まさか、此処まで自分が動揺している、とは思わなかった。
有り得ない話じゃなかった。寧ろ、ごく普通の一介の男子高校生なら普通の話だ。そう、当たり前のこと。
俺だって想定していなかった訳じゃない。だが、それがあまりにもいきなりだったから。だから、動揺している。
――そうでも考えなければ、やってられなかった。まさか、生徒の色恋の話でこんなに無様なまでにショックを受けてます、なんて。


彼女がいます。そうはっきりと、アイツが告げた訳じゃない。だが、あの表情を見れば嫌でも分かる。
――照れたような、それでいて困ったような、恥ずかしそうな顔。
ああ、何でそんな事になったんだろう。確かつこみがアイツにCDを貸していて、アイツはいつものようにありがとうだの何だのと言っていて。
そうか、そこでつこみが聞いたんだ。彼女と聞くのか、と。そう聴かれたアイツが、――アイツが。
胸に、針を刺されたような鋭い痛みが走る。ああ、何でったって俺は、こんな馬鹿馬鹿しい事になっているんだろう。

「何でったって、よりにも寄って、アイツに」

生徒に惚れちまった、なんて。――しかもそれが教え子で男です、なんて。笑いたくても、笑えやしない。
其れが俺の知らない間に彼女に持ちなっていて大変ショックを受けました。胸が痛くて張り裂けそうです。
本当は泣きたいのに涙が出てきません。ああ、なんて陳腐な話だろうか。本当に、冗談にもなりやしない。

「  」

初めて舌に乗せたアイツの名前は、今までで一番苦く感じた。





<了/090404>






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