オレを置いて往く君へ


「泣くなよ、センセイ」

そう言って、アイツは笑った。困ったような何とも曖昧な笑みに、俺は一層視界がぼやけるのを感じる。
世界が、アイツの顔が、滲む。透明な膜が張ってしまったかのように、アイツの顔がよく見えない。
目頭が熱かった。零れる雫が熱かった。心臓は痛いほどに締め付けられていて、米神がズキズキと悲鳴を上げる。

「……なぁ、泣くなって」

耳に届く声は何時もと変わらず、けれど今まで以上に何もかもを諦めたような。
16歳と言う年頃の男には到底不釣合いの、何もかもを悟ったような落ち着き払った声であり、その事が余計に俺の体から水分を奪っていく。どうして。何で。何度も過ぎった疑問。
けれどそれを口にする事はもう若くはない、目の前の男よりも一回り年上の俺には憚られてしまって喉元まで込上げては、溜息へと溶け込み消える。尤も今は溜息よりも嗚咽へと紛れてしまっているが。
みっともない。そう、頭の中冷静な自分が呟く。だが、今泣かずしていつ泣けばいいというのか。
本当はこんな風にアイツを困らせたりする事なく、いつものように笑ってやりたかった。
あははお前は本当に仕方ねーなぁ、馬鹿じゃねーの、ったくこれだからバカヨナなんて言われるんだっつの。
頭の中では浮かぶそんな台詞は、口に出す前に全て霧散してしまう。ああ、情けない。
一回りも年上の癖に、ガキのように青臭い事も言えない癖に、大人の余裕も何もかも無くして俺よりもずっとずっと傷ついている筈のこの男に。
府内西丸という男に、何も言えずにただ泣いてしまうなんて、情けないにも程がある。

せめてもの救いは、此処が保健室であり、他に人気が一切無い事と。
俺と西丸が居る場所が、カーテンで締め切られたベッドの中である、と言う事かもしれない。
これならもし誰かが来ても、俺がこんな風に泣いているとは判らない。
尤も顔みりゃ即座バレるだろうから、本当は救いにも何にもなりゃしないのだが。

「……センセイ」

あんまりにも俺がボロボロと、年甲斐も無く泣いてしまっているからか
西丸は普段のように“みなちょん”と愛称ではなく、それよりも畏まった呼び名で俺を呼んだ。
困った時の、西丸の癖だ。いつもは他の奴らと同じように“みなちょん”と人懐っこい呼び方で呼んでくるくせに、俺と二人きりでいる時で、尚且つこういう風にどうしたらいいか分からない時だけ他人行儀名呼び方に変わる。
いつだったかそれを指摘した時、西丸は酷く驚いていた。どうやら無意識だったらしい。
けれどそれで改められる事は無く、今尚西丸は俺の事を、困る度に“センセイ”と呼んだ。
最初はなんだかくすぐったかった其れも、気付けば心地良く耳に馴染むようになっていて
つい行為の度に「センセイって呼べよ」なんて意地悪を言ってしまったのはいつからの事だったろうか。
ああ、ダメだ。思い出がまるで走馬灯のように甦ってきやがる。こんな風に過去を振り返るべくは俺ではないのに。

「仕方ないんだって」

そう言って、西丸が笑う。困ったような、曖昧な笑い方で。俺はその笑い方が嫌いじゃなかった。
西丸らしい、何処か控えめな笑い方。府内西丸と言う人物にピッタリな、なんだよこのガキ遠慮してんじゃねぇってガキはガキらしく大人に甘えてろよ、などと小突きたくなる――と西丸本人に言ったら嫌な顔をされたが――そんな、笑み。
でも今はその表情が、俺の心を大きく揺さぶる。なあそんな顔するなよ、もっと快活に笑えよ、と。
今更ながらにそんな言葉を言いたくなってしまって、俺が困ってしまった。
そんな内心の心境とは別に、相変わらず涙と嗚咽は零れ続けている。いっそ変な顔、なんて笑ってくれればいいのに。
なんて無理な要求を考えてみる。きっとこいつは、俺の顔が何処まで歪もうが笑わない。
笑ったとしても、心からの笑いではないだろうと思う。
結局俺は一度もマトモに西丸を笑わせてやれなかった、という事実が余計に俺の胸を抉った。
どうすれば俺はコイツを笑わせられるだろう。一度でいい。そう、たった一度きりでいい。
どうにかして、目の前の。府内西丸という男を、笑わせてやれるだろう。
そう考えて、俺は自分でも気付かぬ内に西丸の両手を強く握り締めていた。驚いたような西丸の顔が、ぼやけた視界に映る。

「俺、が。……絶対に、面倒見て、やる。お前の弟も、親父さん、も。ちゃんと、大学まで出させてやる」

突拍子も無い話だ。だが、生憎一人身で結婚の予定もなく金の掛かる趣味もない俺には、ある程度の金が手元にある。
その金でも何処まで養えるかは正直わからない。だが、西丸の保険金と合わせれば結構な額にはなる。
だからその金を使えば恐らく、裕福、とは言えないまでもどうにか生きていくことは出来る筈だ。
俺の言葉に、西丸が一層驚く。だがその顔が困ったような、呆れたものに変化して。
そんなの要らない、なんて拒絶が紡がれるより先に、畳み掛けるように俺は言った。

「嘘じゃ、ない。絶対だ。ちゃんと、ッ…あいつら全員、養う、よ。お前が嫌だッて言っても、要らないって言っても。
俺は、医者じゃないから。お前を治してやれない、けど。その代わりに、……お前の代わりに、扶養してやる、から」

だから安心して。何も思い残す事なんてないから。どうか。

ボロボロと流し続けた涙は頬を伝い、そのままシーツの上へと染みを作る。
こんなに泣いたのは何時振りだろう。もしかしたら片足を失った時よりも泣いてるんじゃないだろうか。
みっともない。本当に、みっともない。大の大人が嗚咽も隠さず大泣きして、こんな突拍子も無い事を言っている。

不意に、俺のモノではない手が、眦から零れる涙を拭った。
ごしごしと、何処か乱暴で、けれど優しい手付きで何度も何度も涙を拭う。
俺のモノではないとすれば、その手は間違いなく西丸のものである、と理解するのに数秒ほど掛かる。
驚き見上げた先の西丸は、涙を拭って貰ったせいか幾分クリアに見えた。
西丸が笑う。何時も通り、困ったように、呆れたように。眉を八の字にしながら、少し悪い目付きの目許が弛む。

「……ばぁーか」

呆れたような声色。けれど向く視線はいつもよりずっと柔らかくて、温かい。
ああ、こいつはこんなにも優しいのに。どうしてこいつが、俺よりも先に死ななくてはならないんだろう。
叶うならば俺と交換できればいいのに。俺みたいなオッサンなんかよりも、目の前のコイツの方が未来があるのに。
俺のような駄目な大人より、不良だけど一生懸命に生きて、頑張ってるこいつの方が、ずっとずっと。

悔しさにまた、涙が込上げる。もう西丸がどんな表情をしているのか、俺には滲んだ涙で分からなかった。





<了/090302>






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