トロイメライ


さよならを告げて、この部屋を出て行く一人の青年の背を見送る。
出会ってから三年。初めて出会った時の彼は天真爛漫な少年だったのに、たった三年と言う歳月で無邪気な少年は、憂いを帯びた成年へと成長してしまった。

「私はあの、屈託のない部分が好きだったんだけどニャ」

苦笑にも似た笑いを零し、そっと息を吐く。
電気の消えた部屋は暗く、唯一の光源は窓からさす月明かりのみだった。

明日には皆、この島を出て行く。巣立っていくかつての教え子たちを教師として見送れないのは物悲しいけれど、それも仕方がないことだ。
肉体を持たず霊魂としてのみこの世に留まる存在。本来ならばそんな世の理に反した存在は許されない。
それでもこうして卒業を、例え離れた場所からでも見送ることが出来るのは愛猫の力故のことだろう。
あの日、仮初の肉体の消滅と共にこの魂は輪廻の輪に還る筈だった。
それを無理矢理繋ぎとめたのは、仮初の肉体と共に過ごしていた猫だ。

「…ありがとう、ファラオ」

初めは「何故こんなことを」と思っていた。だが、今となってはあの時の行動に感謝を覚えている自分がいる。
もしあの時魂を囚われていなかったなら、こうして彼らを見送ることは出来なかっただろう。
可愛らしい教え子たち。その先の未来まで見守ることはできなくとも、その背を見送れるのならそれで良い。

「君のお陰ですよ。……ありがとう、ファラオ」

傍らに寄り添う愛猫に微笑みを向け、その頭を掌でゆっくりと撫でる。感覚はない。
物に触れられないなど今更のことなのに、何故だか急に寂しさを感じた。
この猫の毛並みは、一体どんなものだったろうか。硬かったような気もするし、柔らかかったような気もする。思い出そうとしても細部に霞がかかっていて思い出せない。
――こうしていつの日か。この猫の触り心地を忘れてしまったのと同じように、自分の声を忘れる日が来るのだろうか。唯一私の存在を認識できていた少年は、もうここには戻らない。私と会話を交わす者はこの島から去ってしまった。
嗅覚は、既にない。残るのは聴覚と視覚だ。それもまた猫の腹に帰れば、不要になる。

彼の腹に抱かれ眠る内に、私は全ての感覚を忘れて行くのだろうか。
そうしていつの日にか、魂の核だけとなり、輪廻に還るのかもしれない。

全ては推測だ。私が五感を覚えてさえいれば、忘れることはない。
けれど、私はそんなことはしないだろう。縋るものも守るものも、この手には無い。
ならばいっそ何もかもを委ねてしまって、ゆっくりと混じり合い溶けるように消え去りろう。眠るように。

自らの頭の上を通過する掌を、ファラオは微動だにせず受け入れる。
私を見上げる表情は心なしか不安そうに見えた。ファラオを安心させるように、緩く笑みを浮かべる。


明日の朝彼らの乗る船を見送ったら、私はこの世界にさよならを言おう。
そうして深い眠りに就くのだ。いつの日かまた、目を覚ますその日を夢見て。



<了/080401>





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