夏の翅(前編)





『夏の翅(なつのはね) 前編』 試し読み(冒頭)


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 ――ゆっくりと目を覚ます。目蓋が数度震えて、次に目玉が外気に触れた。ぼやけた景色はやがて焦点が合い、物の形を作っていく。これは何度目の目覚めだろうか。段々と脳内で形を成していくクリーム色の天井と古びた照明器具を見上げたまま、男は思考する。
 重たい体を緩慢な動作で起き上がらせて、少しばかり乱れた髪を手串で軽く整えた。続いて男は自分の体を見下ろす。皺の付いた白いシャツに、着古したジーンズが視界に映る。ベッドから起き上がり洗面所の鏡を覗き込むと、そこには紛れもなく十代後半の男の姿が映し出されていた。
 この動作は何度目のことだろうか。男は思考する。“回数 ”。それは男にとって何よりも大切なものだ。
 何度同じ事を行ったか。一度目か二度目か三度目か、それともはたまたそれ以上か――数字こそ“この世界”において意味あるものだ。もしその数字がわからなくなってしまったとすれば、男は自らの存在が夢現か現実かわからなくなってしまう。
 境界線。数字とは、男にとってそれそのものだった。


「……おはよう、さくら、わらび」
 リビング中央に備え付けられた、一人暮らしにしては少々大きすぎるテーブルの上に置かれたゲージを軽く叩きながら男は声を掛ける。男の声に応えるように、ゲージの中にいる白と茶の二匹のうさぎが男を見上げた。うさぎの名は男がつけたものだ。
 いい加減この生活に嫌気が差し日常に変化を与えるために購入したものだが、どうやらこの夢の世界の主人はこのうさぎがお気に召したようで、うさぎを飼って以降の目覚めでは必ず彼らが存在していた。彼らに餌を与えるべく冷蔵庫に向かい扉を開く。中に何もないことは重々承知していたが、一応もしかしたらと考えて男は冷蔵庫を覗くことにした。
 冷蔵庫の中身はやはり空っぽだった。そのことに落胆をすることは、もう無い。
 これが当たり前なのだ。自分自身にそう言い聞かせて、さて、身支度でも整えて買出しに行くか、とわざとらしく声に出して言ってみる。うさぎも腹が空いているだろうし、男もまた空腹だった。料理は作れるが材料がなければどうしようもない。
 部屋を出る前に中央の太い木の柱を見る。
 無数にある傷のうち、男は自身の目の高さに合う傷跡を探した。人工的に付けられた傷はすぐに見つかった。その数を男は確認する。1,2,3……と指で一本ずつ辿りながら数える。――7本。つまりこれは8度目の“始まり”ということだ。テーブルの上においてある果物ナイフを手に取り、そこにもう一本傷を増やす。
 ……今度こそ見つかるのだろうか。いや、見つけなければならない。
「……よし」
 男はナイフを元の場所に戻し、今回最初の買出しに出かけることにした。



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「少し買いすぎたかな……」

 両手に二つずつ品物の詰まったレジ袋を持ち、男は帰宅する。真っ直ぐ台所まで向かうと、冷蔵庫の中に手際よく中身を詰め込んでいく。途中で野菜を簡単に切ってうさぎのゲージに入れた。
 おいしそうにキャベツを頬張る二匹のうさぎを眺め、男は再び冷蔵庫に買ってきた荷物をしまいこんだ。冷蔵庫の中には整然と、様々な食材や調味料などが並べられている。無駄なく綺麗に、尚且つ取り出しやすさも考慮した収納に男は満足する。
最初は戸惑ったこの作業も、8度目となれば大分慣れてしまったらしい。今ではこの通り主婦顔負けの腕前だ。といっても、誇る場所も誇る相手もいなかったが。その後は簡単に自身の夕食を摂り、家の中の掃除を行う。どうせ一人と二匹の生活空間なのだから隅々まで掃除する必要もないのだが、男は家中丁寧に汚れを払った。
「もしかしたら、今年は起きるかもしれないからな」
 独り言のように、意識せず口から零れた言葉に男は苦笑する。そう言ってもう8度の夏を迎えたのだ。未だに“彼”が起きる気配はない。それでも男は必ず、目覚める度丁寧に丁寧に屋敷を掃除した。いつ彼を受け入れることになってもいいように、常に彼が生活するに相応しい空間を作ってきたのだ。たとえそれが無駄に終わることしかないとしても。
 ――男の家では、代々独自の神を祀ってきた。いや、隠し護ってきたという方が正しいのかもしれない。それが一体どういう経緯で、何故男の家がそうすることになったのか、ということは一切男は教えられていない。
 ただ分かっているのは、男の家はその御神体に繋ぎ止められている、ということだ。言い方は悪いが、男はそうだと考えていた。
 無論、男の父や祖父は“彼”は男の一族に繁栄をもたらし、その御力を授かっているのだと言う。しかし、その御力を授かる代わりに彼を導かなければならないのだ。
 
それは、どういうことか。
 この家に生まれた第一子の男子は、自身が次の護り人たる御子を作るまで御神体を護り祀らねばならない、というものだった。
 よくある話だ。表立って出てこないようなことではあるが、今でもこのような風習は世界中どこにでもひっそりと息づいている。自分が知らないだけで、自分の家には妙な信仰や奇妙な“御神体”が祀られている、というのは決して有り得ない話ではない。だが、男の家を護る御神体は身勝手で無慈悲で、且つ不可思議なものだった。

『悠久の刻を経て、初夏、花ひらく』

 男の家で、代々伝えられる言葉。昔はもっと古めかしく判りにくい言葉だったようだが、男自身が教えられたのはこの言葉だ。彼らが安置する御神体は、永い時を経て、夏のある日に目を覚ますというのである。
 そんな馬鹿な。男はそんな絵空事を信じられるほど馬鹿でも純粋でもなかった。――2度目の夏を、体験するまでは。




現代パラレル設定。三沢達は普通の学生です(※若干ファンタジー要素有り)
前編は独白と回想がメインなので殆ど三沢しか出てきません。