稲妻 | ナノ
優しい嘘はもう終わり














***



「おはよう、調子はどうだ?」

「割といい方です」

「‥‥‥そっ、か」


真っ白な空間に、ぽつり。病室のベッドで上半身を起こしている少年は、花瓶を持って室内へと足を進めた俺を、無表情に見つめた。そっけない返事に、入れ替えたばかりの水を見遣る。続かない会話に、長い沈黙。ベッドの上の少年は気にしたそぶりもせず、ただ静かに俺を眺めていた。花瓶を棚に飾っていたが、こうも見られると居心地が悪い。どうしたものかと思考を巡らせていると、不意に声がかかった。


「ねえ」

「な、何?」

「どうして貴方は、」


そんなにオレに構うんですか?
感情を表にしない瞳が、ひたと射抜く。純粋に、聞きたかったから聞いただけなのだろう。だが、その言葉は俺の心を深くえぐった。どうして、なんて、そんなこと。決まっているのに。お前なら、何も言わなくても、わかってくれるだろ?そこまで考えて、やめた。ここにいる彼は、彼であって彼ではない。こんなのってないだろ、残酷だ。しかし、今の彼に過去を要求すること自体が残酷なのだ。それを、俺はわからないふりをした。


「そんなの、当たり前だろ」

「‥‥‥」

「俺はお前が好き、なんだからさ‥‥一之瀬」


返答は、ない。困ったように眉を下げ、黙したままだ。俺は決して返事を望んでいたわけではない。ただ、少しの可能性を言葉に秘めて、普段なら言わないような直接的な言葉を彼に放っただけ。結果は目に見えていた。まるで、知らない大人が同じ空間にいることに対して、居心地の悪さを感じているような表情。事実、それは間違いではない。今の彼にとって俺は、知らない大人でしかなかった。記憶をなくした彼にとっては。



***



時は、彼が記憶を失う直前に戻る。俺達はその日、いつものようにサッカー部の練習が終わった後、並んで帰路についていた。
平日夕方近くに行われる練習を見学するのは、もはや俺の中で日課になっていた。曜日によっては大学の時間割の関係で行けない日があったが、それ以外は毎日足しげく通った。土日も用事がない場合は、グラウンドの隅っこで練習風景を見学した。俺の目が追うのは結局いつも、たった一人。颯爽とフィールドを駆ける、一之瀬の姿だった。
放課後の練習が終わり、次の日が休日ということで一之瀬が俺の家に泊まりにくることになった。部活はあるのだが、どっちにしろ雷門中には俺の家の方が近い。泊まるのは久しぶりだね、と言って笑ったあの表情を、今でもはっきりと覚えている。いつものようにたわいもない話をして、傾いた夕日を背に歩く。事は、何の前触れもなく起こった。
時間にすれば僅か2秒、言うなれば一瞬。ぐらり、揺れた視界と遠くで響いた声。その声は確かに一之瀬のもので、叫びにも似たそれは、俺の名を呼んだ。叫び、轟音、衝撃。全てが過ぎ去った後に残ったのは、静寂と、座り込む自分。そして、アスファルトに倒れる一之瀬の姿、だった。



半分パニックに陥った頭で救急車を呼び、一之瀬が運び込まれた病院の待合室でやっと理解する。彼は、俺を助けたのだ。あのままいけば、俺は曲がり角で直進しようとし、車に轢かれていただろう。一之瀬がとっさに腕を引いてくれていなければ、どうなっていたかわからない。車と接触した様子はないので、俺の腕を引いた反動でどこかにぶつかったのだと思う。大の大人である俺を、まだ発育途中の中学生が引っ張ったのだから、全体重をかける勢いだったに違いない。ぱっと見では外傷は見えなかった。
打ち所が悪かったのでしょう、という一言が、俺の耳に入ってくる。すぐに目を覚ますだろうから安心して下さいだなんて、いっそこんなことになるなら、

(目を覚まさなければよかった、のに)




一之瀬の意識は、医者の言った通りすぐに戻った。ぶつかったのは頭で、打撲と少しの出血。脳に異常はないらしい。しかし、目を覚まして俺を見た彼の表情に、どこか違和感を覚えた。誰、ですか。そう、綺麗さっぱり、一之瀬の記憶から俺は抹消されていた。いや、記憶の後退と言った方が正しい。知らせを受けてやってきた幼なじみの土門と木野に対して、どうしてここにいるのかと問うていた。彼の記憶は、日本へやってくる前まで後退していた。もちろん雷門のことも覚えていない。本人はアメリカにいたつもりだったのに、何故か日本にいて当惑している、といった様子だった。
3人が話しているのを、病室の端っこで眺めていて、ふと思った。このまま記憶が戻らなくても、彼は、俺のことをまた―――





***





「‥‥ごめん」


白い病室に、ぽとりと落ちる言葉。俺は一体、誰に向けて謝っているのだろうか。今目の前にいる、記憶をなくした一之瀬?それとも。


「貴方が謝る必要はないはずです」

「それでも、謝りたいんだ。今のお前に言ってどうなるわけじゃないのに‥‥」

「そんなに好き、だったんですか」

「違う」


はっきりと否定の言葉を口にした俺に、一之瀬は首を僅かに傾げる。前とは打って変わり控え目な態度を取る一之瀬に、思わず苦笑いをした。こうしてればかわいいのにな、なんていうのは一種の現実逃避だ。


「好きだったんじゃない、今でも好きなんだよ、一之瀬が」


一之瀬の方を見てみると、なんだか小難しそうな顔をしている。また、困らせてしまった。備え付けの椅子に腰を下ろし、一息つく。俺は何がしたいのだろうか。記憶が戻ってほしいのか、戻らなくてもいいから再び前のような関係になりたいのか。いっそ、こんなにつらいのなら、こちらも忘れてしまえればいいのに。一之瀬が話しかけてきた時から後のことを、全部、全て。そうすれば、俺達は出会わずにいられる。ああ、でも、一之瀬なら。たとえオレが君のことを忘れて、君がオレのことを忘れようとも、オレはまた君を好きになるよ。なんて馬鹿げたことを言ってくれたかもしれない。


「本当に、馬鹿げてる」

「‥‥‥?」

「なんでもない。明日、退院なんだろ?また来るよ」


矢継ぎ早にそう告げて、立ち上がる。当たり前だが、一之瀬は引き止めるそぶりを見せない。何も言わず小さく会釈する彼を、扉の向こうに見た。パタン、閉じた扉。ネームプレートに書かれた『一之瀬一哉』という名前が目に入る。記憶を失う前の一之瀬と、今の一之瀬。俺は、どうすればいいのだろうか。もう一度、彼を好きになればいい?それで全て解決する?


「一之瀬、」


呼んでみた名前は宙に消えた。‥‥次に続けたかった言葉が空気に乗ることは、なかった。





***





翌日、一之瀬は無事退院した。ほんの数日の間に、俺と一之瀬の関係は一転してしまった。この先彼はどうするのだろうか。雷門に残ってサッカーを続けるのか、一度アメリカに帰るのか。今後のことは聞いていない。ひとまず帰宅するという一之瀬の荷物を持って、病院の駐車場へと向かう。保護者でもないし兄弟でもないし、ましてや記憶をなくして俺のことを覚えていないというのに、ここまでしてやるとは。どれだけ自分は一之瀬が好きなんだという話だ。後部座席に荷物を投げやり、自らは運転席に座る。発進して病院の入口まで走らせると、一之瀬が待っていた。


「いいよ、乗って」


窓を開けて助手席を指差し、乗るように促す。反対側のドアが開き、無言のまま一之瀬は乗車した。ドアが閉まり、シートベルトを着用したことを確認してから、アクセルを踏む。人も疎らな平日の病院を背に、見知った道を走る。会話はない。運転している身として会話がないのは望ましいことかもしれないが、今にも押し潰されてしまいそうな重々しい空気を打破したいという気持ちから交わせる会話を探す。なのに、思い付いた言葉を口に出したら、また彼を困らせてしまいそうで、俺は結局前を向いて車のハンドルを握っていることしかできなかった。
過ぎていく景色は、少し前の自分達を映し出す。知らずと眉間に皺が寄っていたようで、バックミラーの中の一之瀬は鏡越しにちらりとこちらを見ると、すぐさま視線を逸らした。だが、そんなことも気にしていられないくらい、俺は切羽詰まっていた。このままハンドルを思い切りきって、塀に突っ込んでしまえたら、なんて馬鹿げたことが頭を過ぎるくらいには。


「あの、」

「‥‥うん?」


冷えきった空気の蔓延する車内で、唇をガリ、と噛んだ俺の意識をこちら側へと連れ戻したのは、一之瀬の声だった。助手席に座る彼は変わらず前を見据えている。運転する最中、横目で確認してみると、その表情は以前のものと寸分違わぬ一之瀬のそれで、俺は再び頭痛を催す。彼は彼であって彼でないのだから、求めてはいけない。わかってはいる。だからこそ、ふとした時に見せる彼の表情に混乱した頭は、俺に苦痛を与える。
これから口にする言葉を噛み締めるようにして、充分に間を置いてから一之瀬は口を開いた。


「貴方はきっと、もうオレに関わることはないと思います」


一之瀬の言ったことの意味が、わからなかった。関わることはない?どうして?俺のことが嫌いになってしまった?いや、嫌いも何も、『彼』は最初から俺のことなど好きでもなんでもなかった、のだろう。
ゆっくりとブレーキを踏み込む。そこはもう一之瀬の家の近くだった。



***



完全に停止した車体。俺と一之瀬は依然として動かない。話を切り出した一之瀬自身も、動こうとはしない。真っ白になった頭の中に、何かが落ちる。水滴‥‥‥いつの間にか目尻に溜まっていたらしい涙が、留まりきれずに流れていく。よほど彼の言葉がショックだったのだろうか。でも、それだけではないような気がして。ただ流れるだけの涙を止める術もなく、拭うこともなく、俺はただ正面をひたと見据え続けた。同じように一之瀬も、俺の変化など全く気にせず、視線一つすら寄越さない。ロボットのようにぎこちなく顔を左へと向ける。相変わらず、横顔は良く知る一之瀬のもの以外の何物でもなかった。その彼の表情を見て、俺はあることに気づく。


「いつ、から」


ぼたぼたと落ちる水滴など少しも気にせずに、尋ねる。僅かに首をこちらに向けて困ったように笑った一之瀬は、一度目を伏せてから話し始めた。


「半田が毎日病院にくるようになって三日目から」

「そんな、前から‥‥‥」

「ねえ、半田。どうしてだかわかる?」


最早、言葉すら出ない。首を数回横に振ると、溜まっていた水滴が飛び散る。彼の考えていることがわからない。いや、もう俺には考えることすらできなかった。ただ、状況を整理するだけで精一杯だった。


「考えたんだ。半田と一緒にいれば、きっと楽しい。でもそれはオレ達にとって最良の道なのかな、って。オレにも半田にもそれぞれやりたいことがあって‥‥本当に今のままでいいのかな、って」

「一之瀬‥‥‥」

「もし、半田とさよならするなら、今しかないって思ったんだ。‥‥でも、できなかった」


まだまだ子供のくせに、やけに大人びた表情を見せる一之瀬。そんなことお前は考えなくていいんだ、俺が、俺が全部背負うから。言いたいのに、ただ涙を流すことしかできない。そこには、馬鹿みたいな大人と子供の図があった。この差を、どれだけ、


「半田、好きだよ。あいしてる」



(それは甘くて残酷な真実の愛)




優しい嘘はもう終わり






(110225?)

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企画、Amoretto

超展開を意識しました。
目を凝らせば、そこには新たに見える世界があるはずです、多分。






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