稲妻 | ナノ
PASSERINE














自分以外には誰もいない部屋で、時計の秒針が時を刻む音だけが響く。一定の速度で進む針の音が、やけに大きく聞こえる。ぽっかりと空いてしまった大きな穴に反響して、身体の隅々まで行き渡るかのような感覚。穴は埋まる気配を見せない。明日も明後日も明々後日も、心の空洞は埋め立てられることもなく、ただ虚しく風を通らせるだけなのだろう。好きな人と物理的に離れなくてはならないというのは、こんなにも辛いことだったのかと今更ながらに思う。ただ物理的に距離が遠くなっただけであって、精神的に気持ちが離れたわけではないのだが、今まで近くにいた分、距離が離れると様々な感情が溢れ出てくる。これまでは感じなかった、たくさんのことが胸を燻った。
オレが日本を発つ前、彼は声を押し殺して泣いた。必ず、必ず会いに行くから。そう言って泣いた。一般家庭の中学生が自らの意思のみで海外へ行くなんて、できっこない。本人の金銭的な意味でも、家族旅行で行く他にはないだろう。だからと言って、彼の家庭はそうそう海外旅行に行くような家でもない。よっぽどのことがない限り、太平洋の向こうまで会いに来るなんてことは不可能だ。だけど、嬉しかった。一生会えなくなるわけではないのだし、なによりも彼がオレを好いてくれているのだというのが嬉しかった。それでも、

(会いたい)

などと思ってしまうのは、欲張りなのだろうか。遠くで飛行機の音がする。遠い、こんなにも遠い。手から零れ落ちる、思い出達。拾い集めては、隣にいない彼の姿を思い浮かべ、胸を痛める。ああ、会いたい。その想いは膨れるばかりだった。




月日が流れるのは、早い。早いけれど、オレが大人になるまで、こんなにも時間がかかった。再び彼に会うのに、こんなにも時間がかかった。雲の上で、オレはあの時と同じように、会いたい、ただ会いたいと、窓の外を眺めるだけだった。空を飛ぶ鉄の塊は、少しずつ下降を始める。真っ白な雲の世界を抜けて、遥か下。日本へと、飛行機は下降を続けていった。
もうすぐ会えるんだ。逸る気持ちを押さえ付けて、近づいてくる地上を見遣る。ただいま、半田。やっと会えるね。色褪せないその姿に、触れたい。空気の抵抗からか僅かに揺れる機体に、オレは目を閉じて着陸の時を待つ。何年越しかの想いが、再び湧き出てくるのを感じた。こぽり、こぽり。溢れるそれを受け止めてくれる器は、彼以外にはありえなかった。










「え、どういうこと‥‥?」


夕暮れに染まる懐かしい景色の中、オレは昔の仲間達に出会った。相変わらずのやつから、大分雰囲気が変わったやつ。様々だったが、あたたかさは依然として変わっていなかった。オレが帰ってきたと聞き付けてか、公園に続々と仲間が集まってくる。もちろん地方に住んでいるやつらはいないが、雷門近辺にいる皆はほとんど集合している。いくつか見えない顔もあったが、オレ達も大人になったのだから、きっとそういうことなのだろう。
しかし、ふと気がつく。同じように、いないのだった。オレが会いたくて会いたくてしかたなかった、彼が。出来れば一番に会って、抱きしめたいとも考えていた、彼がいない。少し地味だけどかわいくて、すぐに赤くなる。お互い大人になった姿は知らないから、楽しみにしていたのに。焦がれていた姿は、そこにはなかった。


「オレ達も、詳しくは知らないんだ‥‥そういえば、半田と仲良かったもんな、一之瀬」

「ああ‥‥本当に、誰も知らないのか?」

「なんか、親の実家にいるとかは聞いたけど」


それ以上はわからないや、ごめん。そう言った円堂は、昔と寸分違わぬ力を持った瞳を、静かに伏せた。他の皆も本当に知らないようで、オレはその場に立ち尽くすしかなかった。待ってるから。最後に見た半田の、最後の言葉がフラッシュバックする。空港で、皆が見送りにきてくれている中、こっそりと耳打ちされたその言葉。少し恥ずかしそうに言った彼と、またな!と手を振る仲間達に見守られて、俺はゲートをくぐったのだった。

(待っててくれるんじゃ、なかったの?)

やはり、長すぎたのだろうか。流れる時は早いように感じられるが、待つ者にとっては途方もなく長い時間となる。もちろんオレも、彼と出会う時を心待ちにしていた。最初の1、2年は手紙のやりとりをしていたが、段々やりとりの間隔は広くなり、遂には途絶えてしまった。きっと、忙しいのだろう。オレもちょうど忙しい時期だったので、特には気にしていなかった。もしかしたら、半田は待つことに疲れてしまっていたのだろうか?だから雷門を去ったのだろうか?いくつも推測してみるが、本当のことはわからない。本人に聞かずしては、到底わかり得ないことだった。


「わかった‥‥ありがとう、円堂」

「オレ達も連絡取ってみるからさ、また皆で集まろうぜ!遠くのやつらも呼べたらいいなぁ」


昔話に花を咲かす円堂達を横目に、頭の中で考える。最近は、オレも連絡が取れていない。様子を見ると、彼らも同じく連絡が取れないようだ。何故半田は、誰にも居場所を知られずに、いなくなる必要があったのか。親の実家ということは、祖父や祖母に何かあったのだろうか。いや、それなら居場所を教えない理由がない。ならば、何故?わからない、わからない。‥‥いや、本当はわかっている。オレの、せいだと。
オレンジ色の空は、すでに夜色に染まってきていた。すっかり話し込んで満足したのか、一人、また一人と帰路に着いてゆく。そろそろ自分も、と思ったその時、オレを引き止める人物がいた。印象的だったカラフルな帽子。記憶に残るその帽子を被っていない姿は、新鮮だ。今や背も、俺と変わらないくらいになっている。長い橙の髪を一つに括っているのは昔のままだが、子供っぽさはない。


「ねえ、」

「‥‥松野」

「半田が行っちゃった理由、わかる?」


高かった声も、相応に低くなっている。それでもまだ成人男性にしては高い部類に入るだろうが、静かに語りかける声は、大人のそれであった。オレは、問い掛けに答えない。長い沈黙が続いた。松野が一つ、溜め息をつく。その溜め息に、どんな意味が含まれているのかは窺い知れなかった。深く吐かれた息が、夏の空に溶ける。
再び沈黙に包まれるかと思った空間は、松野がポケットに突っ込んでいた手を外に出したことで壊された。手にしているのは、小さな‥‥ペンダント、だろうか。すっかり日も落ちた中、公園の電灯が銀色のペンダントに反射する。松野はそのまま、手を差し出す。細かなチェーンがしゃらりと音を立て、オレの掌の上へと落下した。よく見ると、ヘッドがロケットになっているようだ。開こうとしたところ、松野に慌てて止められる。


「待って!それ、まだ開けないで。一人になって、落ち着いた時にでも開けてよ」

「何か、あるの」

「いや、そういうわけじゃないけどさ。僕も知らないし、何が入ってるか」

「じゃあ、」

「それでも‥‥」


なんとなく、それの持ち主は、一之瀬以外の誰かに見られることを望んでいないような気がするから。確かに、そうかもしれない。オレが考えている通りだったら、きっとそうだ。ペンダントをシャツの胸ポケットにしまい、帰るという松野を見送る。もし半田に会ったらよろしく言っといて、と言い片手を上げて立ち去る背中。その背中に肯定の言葉を投げかける。公園の出口に差し掛かったところで、松野が顔だけこちらに向けた。


「さっきの質問の答え、実は僕もわかんないんだよね」


暗くて表情はわからなかった。小さくなっていく背中が見えなくなるまで、砂場の横で考える。手に取った時にはさほど感じなかった、ペンダントの重量。胸ポケットの中身が、ずしりと重い。これは、本当にペンダントの重みだろうか。帰路の間も、それは主張し続ける。きっと真実はこいつに隠されているのだと、期待にも似た確信を抱き、オレは泊めてもらうことになっている旧知の友人宅へと足を進めた。












がたん、がたんがたん。軋むような音を響かせて、列車は進んでゆく。周りに広がるのはビルなどではなく、田畑や山だ。都内から地方へ向かうこの電車は、対面式の座席で、平日の昼間にはほとんど乗客はいない。しかし、時期が時期ということもあってか、旅行にでも行くのであろう大きな荷物を持った乗客がちらほらと見える。それでも、旅行の時期にはまだ早い。見慣れない景色を窓から眺める。オレが、このようにいきなり地方へと向かうのには、もちろん訳がある。

先日帰宅した後、ペンダントのロケットの中身を確認した。普通、写真の切り抜きなどの小さな紙が嵌め込まれているはずのそこには、折り畳まれたメモ用紙が入っていた。極限まで小さく折り畳まれた用紙は、お世辞にも綺麗に折られているとは言えない。ぎりぎりロケットに収まっていた程度の用紙を開くと、そこにはボールペンで殴り書いた文字の羅列があった。折り目が多く、しっかり平らにしてからでないと読めなかったが、筆跡に見覚えがあった。
確かにその筆跡は、半田のものだった。右にいくにつれて斜め下へと傾いていっている、男性にしては小振りの、しかしまとまっているとは言い難い、その文字。中学の頃、彼が授業のノートやプリントに書いていた文字と重なる。メモがいつ書かれたものかはわからないが、絶対に、それは半田の筆跡だった。
書かれている文章は至極簡潔で、それこそ二言三言だった。だが、オレを動かすには充分すぎた。何県だかは知らないが、市町村名と、駅名が一つずつ。ぶっきらぼうに添えられた「待ってる」の文字。ぎりり、胸が締め付けられる。喉に物が詰まってしまったのかのように、息が、苦しい。考えなくてもわかった。彼が、どんな気持ちでこれを書いたのか。どんな顔で、松野にペンダントを託したのか。きっと彼のことだから、必死にばれないように感情を押し殺していたに違いない。松野は気付いていたのだろう。ペンダントに込められた、半田の想いに。


そしてオレは今、メモに記されていた半田の待っているであろう場所へと向かっている。電車に乗り、数時間。進むにつれて大きな建物は姿を消し、現れるのは田舎の風景。この線路の先に、半田はいるのだろうか。少しずつでも、近づいているのだろうか。握り締めたペンダントは、オレの体温で熱くなっている。昨日はわからなかったが、よく見てみるとどこか安っぽいそのペンダントが、妙に彼を彷彿とさせる。模様もない、楕円形のロケット。細いチェーンが掌の上で鳴った。
列車は尚も進んで行き、揺られること2時間強。昼過ぎに向こうを出たというのに、乗り換えが多かったせいか、時刻は夕方になってしまっている。ぷしゅう、ドアが開く。田舎にしては少し大きい駅。ホームには、まばらにしか人はいない。階段を下りて改札付近を見て回るが、捜し人は見当たらなかった。長い時間が過ぎてしまったのだ。彼はもう、待ってくれてはいないということだろうか。悔しさから、ペンダントを握る左手に力が入る。もう一度、ホームへ戻る階段に足をかける。今度は逆のホームだ。遠くで、ごうごうと線路が音をたてている。電車がくるのだろう。階段を上りきったその時、電車がホームへ入る直前。オレは、ようやく、彼を見つけた


「半田っ‥‥‥!」


叫んだ声は、虚しくも電車が走り、止まる音に押し潰される。一瞬見えた、あの姿。背は伸びて、顔も大人っぽくなっていたが間違いない。半袖のパーカーを着た彼は、どう見ても半田でしかなかった。まだ、パーカーが好きなんだね。などと考えているうちに、列車がホームへ進入してくる。オレは踵を返して階段を下りると、向かいのホームへ続く階段を駆け上がる。焦る気持ちが足を縺れさせるが、気にせず上っていく。オレがホームへ着いた時、すでに扉は閉まり、電車は走り出していた。


「半田、半田っ‥‥はん、だ‥‥‥!」


叫び、手を伸ばす。電車は駅を後にし、ホームにはオレだけが残された。空を切る手が、だらりと垂れ下がる。ああ、また、零れ落ちた。もしかしたら先程見た半田も、会いたいと思う気持ちが強すぎた故の幻覚だったりして、などという考えが過ぎる。額に手を宛がい、天を仰ぐ。紫に染まりかけた空は、何を示唆しているのか。まったく本当に、君ってやつは、


「笑えないよ、半田」











(そして僕らは、スタートラインという名のゴールを目指す)



(100728)