月の綺麗な夜だった。酒の旨い夜だった。 京の藩邸に夢心地で帰って来ると、玄関に昔馴染みの女が立っていた。 さて名前はなんと言ったかな。名前を思い出そうとするも、芸妓だったか舞妓だったか、はたまた普通の町娘だったかすら思い出せない。 けれど確実にこの腕は、その女の肌を知っているのだから若かりし頃の俺はたいそう酷い男だったと思う。 そう自嘲しながら必死に頭を働かせると、いくつか女の名前が頭に浮かんだ。ただそのどれもが正しいようで間違っているような、曖昧な物だったから。 ああ、わずらわしい。 そう思い、口よりも先に手を出した。 自分よりも頭一つ分ほど背の低い女の肩に手をまわし、胸元に手繰り寄せて顔を上げさせる。 「俺に会いに来たのか?」 するとおぼろげな視界の中で、女の顔が紅潮していくのが分かった。この女はそれほどウブだっただろうかと、意外に思う。 まるでどこかの誰かさんのようだ。 その反応に気を好くした俺は、名も忘れた女にそれは優しく口付けた。 その途端。左頬に衝撃をくらう。 今までに受けた平手打ちが可愛らしく思える。そんな痛みを頬に感じながら、俺はその場に座り込んだ。 酒の力も相まってか、それから記憶がない。 まほろば○△ 頭に鈍い痛みを感じながら目を覚ますと、時刻は正午を回っていた。二日酔いなんて久しぶりだなと、辺りの眩しさに目を細める。 浴びるように呑んだ酒のせいで、胃はすっかりやられていた。それでも腹は減るもので、雑炊でも作って貰おうとあやねの姿を探す。 「おお、ここに居たか!悪いが腹が減ってな、あやねの作った雑炊が食べたいんだ!」 庭の軒先で縫い物をしていたらしいあやねは、こちらに気付くや否や、顔を背けた。 そしてまた何事も無かったかのように、縫い物を続けてみせる。 「ん?どうした、具合でも悪いのか?」 不思議に思いながらも、あやねの肩に手をやった。するとその手は払いのけられ、目も合わせずに冷たく言い放たれる。 「……私に触らないで下さい」 「安心しろ、晋作。誰がどう見ても昨晩のお前の行いが悪いだけだ。良かったじゃないか、こんなに早く原因が解明出来て」 解決出来るかは知らないけどね。 そう意地悪く付け加えてから、小五郎は微笑んだ。 あやねがおかしい!俺に冷たすぎる!そう泣き付いた俺に、小五郎は淡々と昨晩の出来事を説明してくれていた所だった。 どうやら酒に酔った俺は昨晩、玄関先で待っていてくれたあやねを違う女と思い込み、挙げ句の果てには唇まで奪ったらしい。 「……最低だな」 「ああ、晋作がね」 そのやり取りで更に落ち込む俺を見て、小五郎は困ったように笑う。 ところで、気になることが一つあった。 「どうしてお前、そんなに詳しいんだ?」 「それは全部見ていたんだから当然だろう」 飄々とした様子で言ってのけた小五郎に、口をあんぐりとさせる。どうして止めてくれなかったんだと叫ぶと、そいつはくるりと背を向けて、その場から逃げた。 「だから昔、女遊びは程々にと言ったんだ。尻拭いぐらい自分でやってこい。晋作、たまにはお前も苦労するべきだ」 そう言って笑う小五郎を必死に追うも、あっという間に煙にまかれてしまった。 逃げの小五郎の名は伊達じゃない。 まさか、それを思い知らされる日が来るとは、夢にも思わなかった。 夕食の時間が終わってからも、あやねは俺と一言も話そうとしなかった。話すどころか、目も合わせようとしない。 廊下で会えば逃げ去って行くし、もうお手上げだった。せめて弁解ぐらい、いや、話ぐらい聞いて欲しい。 こうなっては仕方ないだろうと、俺は男らしからぬ強行手段に出ることにした。 「きゃっ!」 あやねの小さな叫び声が耳に届く。 脱衣所の扉を開けてすぐ、薄暗い廊下で男が一人佇んでいたら驚くのも無理はないだろう。 どこで出会っても逃げられるならと、俺は風呂上がりのあやねを待ち伏せていた。ここなら逃げようがない。 「あやね、昨日は本当に悪かった」 濡れ髪のままの彼女に向け、俺は深々と頭を下げた。ようやく謝れたことに、とりあえず胸を撫で下ろす。 顔をゆっくり上げると、複雑そうな表情が目に入った。どうすればいいか分からない、そんな困惑した様子が見てとれる。 「……えっと、その、おやすみなさいっ」 そう言って逃げようとするあやねの、手首を掴んだ。そのまま引き寄せて抱き締めると、石鹸の香りが鼻をついた。 「行くな」 決して離すものかと、耳元に顔をうずめて囁く。少しばかりくすぐったそうにして、あやねの身体がはねた。 抵抗されるものだと覚悟していたが、身を強張らせはしていたものの、腕の中の彼女は大人しい。嬉しい誤算だった。 それからどれだけの時間、二人でそうしていただろう。先に沈黙を破ったのはあやねの方だった。 「私は、晋作さんしか知らないの」 消え入りそうなか細い声だった。 「でも、晋作さんは違ってて。綺麗な女の人とか、可愛い人とか、居たんだろうなって思ったら、頭がごちゃごちゃになって嫉妬して」 顔を覗き込むと、その瞳には涙の膜が張られていた。今にも涙はこぼれ落ちそうで、瞬きすれば溢れてしまうだろう。 そしてあやねの視線がようやく、こちらに向けられる。その瞳は揺れていた。 「ごめんなさい、私、すごく醜い心をしてる」 痛ましげな表情に、胸が締め付けられる。 もう何も言うな、もう何も言わなくていい。愛しいやら苦しいやら恋しいやらで、俺の脳髄は滅茶苦茶になった。 強引に目の前の唇を奪う。優しさのカケラもない口付けだった。優しさとは余裕から生まれる物なのだと、不意に気付かされる。 そうだとしたら、俺は一生お前に優しく出来そうにない。 あやねの唇を貪るように、何度も何度も口付けた。甘い吐息が微かにもれる。頬は紅く染まり、硬く閉じた目元は濡れていた。 唇を離すと、乱れた呼吸を正そうとあやねは肩で息をする。その白い首筋に、顔を埋めた。 「晋作、さん?」 「……あやねだけだ」 「え?」 不思議そうな声音に、俺は答える。 「俺のこの先、全部お前にくれてやる」 それじゃ駄目かと続けると、あやねは首を横に振り、俺の肩に手を回した。 月の綺麗な夜だった。風の優しい夜だった。花のように短い命を全て捧ぐと心に決めた。 20101006 |