「武市さん」 鈴の音が転がるような声で、愛らしく彼女は僕に微笑みかける。 僕は返事を口にすることはなく、ただ彼女に微笑みを向け、言葉を促してやるだけだ。 するとしばし遅れてから、彼女は「あっ」と何かに気付いたように声をあげる。そして照れたように笑ってから、改めて、僕を「名前」で呼んだ。 そこで初めて僕は、口を開く。 「もう、間違えてはいけないよ」 そう言ってあやねの頬を撫でると、彼女は猫のように目を細めて、幸せそうに笑む。 こんな日々が一生、続けばいい。 正しい君のしつけ方 「大久保さんと逢引をしてきました」 ようやく着慣れて来た洋装から、浴衣に着替えようとしていたところで不思議な言葉を耳にした。袖のボタンをプツンと外しながら、後ろで浴衣を持ってくれて居る彼女に、今一度、僕は聞き返す。 「……大久保さんと、どうしたって?」 袖のボタンを外し終え、今度は胸元のボタンに手をかける。プツン、プツンと外しながら、彼女の答えを静かに待った。 「えっと、大久保さんと逢引してきたんです」 それはそれは楽しげで、軽やかな声音であやねはそう言いきった。 困ったことに、どうやら聞き間違いでは無かったらしい。 外し終えたボタンをそのままに、胸元がはだけただらしない格好で後ろを振り向くと、小さな叫び声が耳に届いた。 「きゃ!こ、これ着て下さい!」 そう言ってこちらに浴衣を差し出し、恥ずかしそうに顔を赤らめているが、よっぽど彼女の発言の方が危ういと思う。 はだけたシャツと、差し出された浴衣を無視して、僕はあやねに詰め寄った。 「大久保さんと、何を、してきたって?」 「……え、その、逢引を」 「もう一度聞くよ。君はあの人と、何を、してきたんだい」 今にもひきつりそうな顔には笑みを浮かべるも、あの男の顔が頭を過ぎってどうもいけない。 本当にあの人は、僕を苛立たせる天才だ。 そんな僕の内心を察したのか、あやねはどこか怯えた様子で、小さな声で呟いた。 「……茶店で、お菓子を、食べて来ました」 ああ、やっぱりか。 半ば予想していたその答えに、いい意味で拍子抜けする。 毎度毎度のことだが、どうも大久保さんは彼女にろくでもないことばかり吹き込んでくれる。一度、礼をしなければいけないと思わせられるほどに。 「それを、大久保さんがどうせ、『これは逢引だ』とでも言い聞かせたんだろう」 そしてコクリとうなずく頭に、ため息を一つ。 何も知らなすぎる彼女に一種の不安と頭痛を覚えながら、先ほどからこちらに差し出されていた浴衣を受け取った。 そして、それをばさりと落として、畳の上に広げる。 そんな僕の様子を不思議そうに見上げる彼女を、ひょいと両手で抱きかかえてから、広げた浴衣の上にそっと下ろしてやった。 着替える途中だったけれど、まあいい。 それに、手間も省ける。 小首を傾げたままの彼女の顔にそっと指先で触れてから、わずかに顔を持ち上げて、僕はにっこりと微笑みかけてやる。 「あやね」 すると釣られたようにして、彼女も微笑む。余計なことなど何ひとつとして知らないであろう微笑みは、清純な彼女にぴったりだった。 「もう、大久保さんと逢引をしたなんて、言ってはいけないよ?」 彼女は少し考える素振りを見せてから、何かを決意したかのような面持ちで口を開く。 「えっと、二人でお菓子を食べたりお茶を飲んだりしたら、逢引なんですよね。わかりました、もうしません」 「いや、それは逢引とは言わないんだ」 「じゃあ、逢引って……?」 どこまでも見当はずれな事を言う彼女を愛らしく思いながら、僕はゆっくりと彼女を浴衣の上に押し倒した。 素直に押し倒された彼女の頬を優しく撫でながら、その白い首元に顔をうずめて囁いてやる。 「大丈夫、安心して」 それはそれは密やかに、囁いた言葉は、秘め事が始まる合図。 「僕が、教えてあげるから」 逢引をしたなんて言葉を耳にすることは、これでもう二度と、無くなるだろう。 20110211 |