藩邸での生活と、大久保さんのあしらい方にもずいぶんと慣れてきたと思う。そう易々とは帰してやらんと笑う彼に、私はツンとした態度で絶対に帰ってやると言う。それはもうおはようとか、おやすみなさいとか、そう言う挨拶の代わりみたいなものだった。顔を合わせる度に、幾度と無く繰り返される攻防に、周りの人達はああまたかと苦笑してみせるのだ。 「みんな笑ってるのに、大久保さんがしつこいんだもん」 やわらかな深紅のソファに腰を下ろして、私は隣人の顔を見やる。 「でも姉さんが元気そうで何よりっス!」 少年のような無邪気な笑顔を浮かべながら、慎ちゃんはそう言ってソファに身を弾ませた。今日も今日とて、彼は薩摩藩邸にお使いに来ている。けれども当の本人は席を空けており、大久保さんを待っている束の間、私はこうして慎ちゃんとの会話を楽しんでいた。 「元気なのかなあ。今朝だってね、大久保さんがいっぱい仕事押し付けて、意地悪言って出かけちゃったんだよ」 私はそう不満気に言って、口をとがらす。 そんな私の様子がおかしかったのか、慎ちゃんはニコニコと愛らしい笑みを浮かべてから、じっと私の瞳を覗き込んだ。 純粋で真っ直ぐな視線に、少しだけどきりとする。 「姉さん」 そう言って軽く小首をかしげてから、少しばかり真剣な眼差しがこちらに向けられた。 「あの人は意地悪なところもあるけれど、龍馬さんと同じで、懐の深い人です。何も考えなしに、そんな軽はずみなことはしません」 現にさっきから姉さん、笑ってばかりじゃないっスか そう言って、慎ちゃんの顔にはふわりとした笑みが浮かべられた。 やわらかな笑みをしばし呆然と見つめながら、私ははっと何かに気付かされる。 ああ、そう言えば。 私はここに来てから大久保さんに怒ることはあるけれど、何かを憂いて泣いたことなんて無いのだ。 いつも意地悪ばかりで仕事を押し付けて、私が怒るような事ばかりを口にして、あまつさえ帰さんと口にしては居たけれど。 彼の言葉で、私は泣いたことも悲しんだこともなかった。 本当なら、一人ぼっちで誰も知らない世界にぽんと放り込まれて、その寂しさや怖ろしさに私は一度ぐらい涙したはずだ。 けれどもこの世界に来てから、私は悩む暇も悲しむ暇も無く、誰かさんに与えられた仕事をこなしてきた。 もしもそれが無かったら私は、泣きぬれた日々を過ごしていたかもしれない。 ――あの仕事は、誰の為の そんな事を考え始めたら、なんだか急に大久保さんのことが頭から離れなくなってしまった。 それからも、慎ちゃんとの会話を続けていたはずなんだけど、何を話したのかはうっすらとしか頭に入ってこなかった。でも、一言だけしっかりと記憶に残っている言葉は、更に私の頭を混乱させた。 「大切にされてるみたいで安心したっス」 そして、そんな日に限って当の本人は、真夜中にアルコールのにおいをただよわせて帰ってきたんだから、神様っていじわるだと思う。 いつもの大久保さんの扱い方なら多少は心得ているけれど、酔っ払った大久保さんの扱い方なんて、見たこともないんだから知る由も無いのに。 月並みの恋 「もう、どうしてこんなになるまで飲んだんですか」 足元がおぼつかない大久保さんを支えながら、私は寝室までの道のりをゆっくりと歩いていた。右肩には大久保さんの体重がずしりとのしかかっている。 一見、スラリと細身に見えるけれど、長身の分もあってか、その重さはちゃんと男の人のそれだった。 今にも前のめりに倒れてしまいそうな大久保さんを必死で支えながら、ようやく彼の寝室に辿り着いたころには息が上がっていた。 あらかじめ敷いてあった布団の上に、彼をゆっくりと座らせる。半分抱きかかえるようにしてそうしたところで、嗅ぎ慣れない白粉の匂いが鼻を付いた。 思わず、顔が歪む。 「綺麗な女の人のところに行ってきたんですね」 「……白粉の匂いを、嗅ぎ分けられる程度には子供では無いか」 「それぐらいわかります」 どうしてか口を付いて出たのは、花街に行ってきたであろう彼を、遠まわしに責め立てるような台詞だった。彼をチクチクと責めながら、私の胸も同じように痛む。 大久保さんがどこでお酒を飲んで来ようが、真夜中に帰って来ようが、私にはこれっぽっちも関係なんて無いはずなのに。 それなのに、私の頭の中は嫉妬でおかしくなりそうだった。 ――慎ちゃんが、あんなことを言うから。 つい今朝方までは憎まれ口を叩き会っていたというのに、いまではすっかりこの様だ。 自分でもよく飲み込めない感情にぐるぐると胸中を支配されながら、何故か悔しくて悲しくて、顔が熱くなっていくのだけは分かった。 こんな顔なんて、絶対に見せられない。 「……子供で、綺麗じゃなくてすみませんでした」 どこか吐き捨てるように呟いて、私は立ち上がり踵を返そうとする。 すると、後ろから腕を掴まれた。 そしてそのまま引き寄せられ、悲鳴をあげる暇もなく抱きしめられる。 そのあまりの出来事に呼吸すら忘れていると、顎を掴まれてぐいっと大久保さんの方へと向けられた。 鼻先が触れ合いそうな距離で、しばらくそのままじっと顔を凝視される。被さる前髪の奥に覗き見えた瞳は、アルコールのせいか、熱を帯びているようにも見えた。 顔全体を舐めるように眺められてから、大久保さんはにやりと不敵に笑った。 「酒を、口にしてきただけだ」 その突飛な呟きに私が表情を崩すと、淡々とした様子で彼はこう続けた。 「この顔を見慣れると、どうも他の女にはそそられない」 目が肥えたようだ、責任を取って貰おう そう、彼はいやらしく笑った。 まさかそんな言葉が大久保さんの口から出るとは思わなくて、私はそのまま素直に押し倒される。布団の上で組み敷かれながら、仰ぎ見た彼の瞳には、今度こそ見紛うことなき熱が。 また、悲鳴を上げるのを忘れたと思う。 きっと今日は、朝から、厄日なんだ。 頭の中が真っ白になりながら、薄暗い天井を見つめた。 そしてパタリと事切れたかのように、大久保さんは私の上に倒れこみ、静かに寝息を立て始めたのだった。 翌日、太陽がちょうど真上に昇ったころ、大久保さんと廊下で出くわした。その髪には珍しく寝癖がついており、瞳もどこか眠たげだ。起きたばかりなのは目にも明らかだった。 「おはようございます、こんな時間に起きるなんて珍しいですね」 昨夜のことなんて無かったかのようにして、私は彼に声をかけた。顔にはちゃんと笑みが浮かべられているだろうか、ちゃんといつもどおりの表情が出来ているだろうか、そう不安になりながら。 そんな私の様子に気付いているのかは知らないけれど、彼はあくびをひとつしてから、乱れた髪を片手でかきあげた。 「久しぶりに浴びるほど酒を飲んだからな」 記憶を失くすほど飲んだのは久々だ、そう彼は付け加える。 その言葉に、私の胸はちくりと痛んだ。 忘れてくれているのなら、そっちの方がいいはずなのに。 どこかギクシャクとした居心地の悪さを一人で感じながら、私は気持ちを切り替えて彼にこう訪ねる事にした。 「何か、嫌なことでもあったんですか?」 途端に、彼は一瞬顔を曇らせる。 けれどもそれは、気のせいだったのかもしれない。 何しろすぐに彼は、いつものような不敵な笑みを浮かべてみせたのだから。 「それより小娘、ずいぶんと腑抜けた顔をして歩いていたが、炊事と洗濯はもちろん終えたのだろうな」 「……へ?」 「大して役にも立たん女中だが、まだお前に頼みたい仕事が山のようにある、タダ飯食らいをここに置いておくつもりはないぞ」 それはもう、流れるように言い放たれた嫌味のオンパレードに、私はすっかり目を丸くさせられた。もちろん大久保さんの言うとおり、すっかり炊事も洗濯も終えている。だからこそ、その物言いにカチンと来た。 「寝坊すけな大久保さんが起きてくる前に全部終わりましたっ」 「そうか、それはよい心がけだ。手放すには惜しい労働力だな」 そう言っていつも通り笑う彼に、私はぴしゃりと言い放つ。 「大久保さんがどう思ってても知りません、絶対に帰らせて頂きます」 そして私はいつも通り、ツンとした態度をとるのだ。 ほら、もうこうして、昨日のことなんて無かったかのようにして、いつもの「挨拶」が繰り広げられている。 もう、変なことなんて考えなくても、大丈夫なんだ。 私はいつもどおり、今までどおり、大久保さんと、こうして居られるんだ。 そう、人知れず安堵した矢先に、彼は微笑んでにこう言った。 「ほう、それは良かったな。お前が言っていた寺、もとい神社が見つかったぞ」 それはさらりと。 いつものように仕事を与えるかのよな口調で告げられた。 今、彼は何を言ったのだろう。 NEXT 20110125 |