月の似合うその人は、縁側に出て月を眺めていた。太陽よりも鈍く冷たい光に照らされるその姿は、女の私から見ても羨ましくなるほど綺麗だった。 麗人という言葉は、彼のためにあるのだろう。 そう思わせられる美しい顔立ちをした人の、隣へと、私は肩を並べることにした。 いくら足音を忍ばせても、いくら息を殺しても、私の存在に気付いてしまうその人に、かける言葉は不要だった。 何も言わずに隣に腰を下ろすと、桂さんはこちらを振り向きもせずに呟いた。 「月が綺麗だね」 初めから私の存在に気付いていたらしい彼の、その言葉にかの文人を思い出す。日本史も世界史もサッパリだけれど、まだその人がこの世界に生まれていないことは何となく分かっていた。 それでも私の唇は、その言葉を紡ごうとする。 「アイラブユーを、夏目漱石はそう訳したそうです」 「夏目漱石?」 「未来の世界で、一番有名な明治時代の文豪です」 千円札を思い浮かべながら、一番という言葉を口にした。 「それはそれは。夏目漱石という作家の書物を見かけたら、すぐに買わなければいけないね」 そう楽しげに目を輝かせながら、彼は微笑んだ。 「ところで、アイラブユーとはどんな意味なのかな?」 I love you. それは、私がこの世界に来てからしばらく経った頃だった。 やけに天気の良い日で、私はのん気に洗濯物を干していたと思う。 そこへ大久保さんが訪れた。長州藩邸にどうしてと、不思議がっていたところで、有無を言わさぬ口調でこう告げられた。 「では行くぞ、小娘。もう桂君から話は聞いているな」 ぽかんとする私に、大久保さんは苛立たしげな表情をしてみせた。 「何だ、何も聞いてないのか。それでも構わんが私の手を煩わせるな。さっさと行くぞ」 そう言って私の腕を掴み、その人はツカツカと足早に玄関へと向かう。あれよあれよと言う間に、私は外まで連れ出されてしまった。 何も分からぬまま、私の視界の端に、桂さんの姿が映りこむ。 「あっ、桂さん!助けて下さい、大久保さんが」 その私の言葉などまるで聞こえなかったかのように、彼は大久保さんの前に立ち、頭を下げた。 「あやねさんを、宜しくお願いします」 「ふん、言われなくとも分かっておる。しかし、本人に伝え忘れるとは、君らしくないな」 そう言って大久保さんは、どこか意地の悪い笑みを浮かべてみせる。すると桂さんの表情が、かすかに強張った気がした。 「……すみません、こちらの不手際です」 淡々とした事務的な言葉に、大久保さんは眉を顰めた。 「不手際、か。まぁ良かろう。安心して小娘を任せてくれるが良い。薩摩藩邸ほど安全な場所は無いだろうからな」 そうして何も知らされぬまま、私は長州藩邸から薩摩藩邸へと、身を移すことになった。 それが、つい先週の出来事である。 いくら安全のためとは言えど、何も知らされずにここへ預けられた私の胸中は、複雑だった。 いくら、大久保さんが嫌味なのか冗談なのかよくわからない言葉で、私を和ませようとしても、上手く笑うことも出来なければ上手く怒ることも出来ない。 そんな私をみかねて、当初からは考えられないほど大久保さんは優しくなったが、私の心は晴れることなく、どこか物憂げな顔で日々を過ごしている。 「そんなに、私が嫌いか」 ある時、大久保さんはとても残念そうな顔をして言った。 確かに意地悪だとは思っていたけれど、何だかんだで私の世話を焼いてくれるその人を、嫌いだなんて思っている訳が無い。 その旨を伝えると、彼は更に困った顔をした。 珍しい表情だった。 まさか大久保さんにそんな顔をさせてしまうとは思っていなくて、私の胸は人知れず痛んだ。 どうしてここまで長州藩邸に拘っているのだろうか。 それは私自身にも、よくわからなかった。 それを言葉に出来ないでいると、大久保さんは全てを見透かしたかのような顔をしてから、好きにすれば良いと言った。 その言い方があまりにも優しくて、何だか変な夢でも見ているような気分になった。 「……どうしてだろう」 ある夜のこと。私は、与えられた部屋の窓辺で、一人佇んでいた。用意された部屋は広々としていて、生活に必要なもの全てが揃っている。贅沢な扱いをしてもらっていることは、目にも明らかだった。 何もかもが揃っているはずなのに、部屋の中は物で満ち溢れているのに、それでも心は満たされなかった。まるで私の中身が抜け落ちて、空っぽになってしまったようだと思った。 窓辺から射し込む月の光は、優しく私を照らし出す。 その眩しさに顔を上げると、夜空には絵に描いたような満月が浮かんでいた。その美しさに見惚れながら、私はあの人を重ね見た。 「桂さん」 自然と溢れ出た呟きに、全ての答えが詰まっているような気がした。 私がこだわったのは長州藩邸という場所ではない。 桂小五郎という人の傍に、居られないことが何よりも苦しいのだ。 そう納得した瞬間、憑き物が落ちたかのようだった。 あれほど私は隣に居たのに、恋焦がれていたというのに、気付かなかった自分の鈍感さに飽きれた。 あの日、大久保さんが迎えに来た日に、この思いをぶつければ良かったのだろうか。 私はここに居たいんです。 あなたの隣に居たいんです。 だから、どうかここに置いて下さい。 そうすれば、少しは何かが変わったのかもしれない。 空を見上げることが辛くなって、私は視線を落とした。 ひとつ瞬きでもすれば、涙が溢れてしまうかもしれない。ぼやけた視界を手の甲で拭った。 そして、窓辺から見えたのは、中庭に佇む人影。 その影を視界に捉えた瞬間、息が詰まりそうになる。 どうしてここに。 どうしてこの時間に。 思い浮かぶ疑問は数え始めればキリがなかったが、気付けば私の足は中庭へと駆けていた。 息を切らして中庭に辿りつく。 するとそこには、見間違えるはずがない、あの人が立っていた。 きっと彼は、声をかけずとも、私に気付いてくれるのだろう。 そう思いながら、ゆっくりとそちらに歩み寄る。 そして残り数メートルというところで、彼はこちらを振り返った。 「君を迎えに来た」 その言葉に、私の心は一気にはち切れそうになる。 今すぐ彼のそばに駆け寄りたい、いっそその腕でどこにも行かぬよう捕まえて欲しい。そう願ってしまう。 そんな私の心など知らぬ彼は、晋作の奴がうるさくてねと、残酷な台詞を口にした。 「あ……高杉さんに、そう言われたら、仕方ないですよね」 途端に、肩の力が抜ける。私は笑いながら嘘を吐いた。 いつからこんなに悲しい笑い方が出来るようになったのだろう。これでは、目の前のこの人のようではないか。 そんな事を思いながら、彼の姿を見た。 彼は、いつか見たあの日のように、静かに夜空を見上げていた。 「月が、綺麗だね」 その言葉に顔を上げ、空を見上げる。 そこには、満月が浮かんでいる。 ただ、今はお世辞にも綺麗とは言えない、雲にぼんやりと覆われた姿だ。 辺りに、沈黙が訪れる。 月明かりに照らされる彼の頬が、わずかに赤く染まっているのが見えた。 「桂、さん?」 彼は、いま、なんと言ったのだろう。 ゆっくりと、その言葉はゆっくりと私の心に染み込んでいき、もう一つの意味を教えてくれる。 たまらずに私は、彼の元へと駆け寄った。 今にも倒れそうな私の身体を、彼は優しい仕草で受け入れてくれた。 「こうとしか伝えられない臆病さを、どうか許して欲しい」 何もかもが夢のようで、頬には涙が伝った。 胸の奥がきゅっと苦しくなるのを感じながら、私は必死に何か言葉を返そうとする。でも、その言葉に相応しいものなんて、私の頭では思い浮かぶはずが無くて。 だから私は、彼と同じく言葉を借りることにした。 この言葉以上に、今の心中を表すのに、相応しい物があるとはとても思えなかった。 泣き濡れた頬を隠すこともせず、私は震える声を振り絞る。 「私、もう死んでもいい」 幸せに押し潰されそうになりながら泣く私を、月は穏やかに見守っていた。 20101029 |