この世界に残ると決めてからも、そいつは何一つとして変わらなかった。
俺の女だと他人の前で意気揚々と説明すれば、顔を真っ赤にして違うと叫ぶ。じゃあ俺の嫁だと説明しなおすと、それもまた違うようで一目散に逃げ去ってしまうのだ。
嬉しいような、悲しいような。
とにかく、あやねは何一つとして変わらなかった。
相変わらず危なっかしい行動ばかりとるし、食べ物につられて大久保さんに付いて行くし、馬鹿騒ぎする俺を小五郎と一緒になって丸め込もうとする。
俺の女だと自分で宣言したのなら、もう少しそれらしく変化してくれたっていいじゃないか。そう、人知れず心の中で願う毎日だった。
けれど、こんな急激な変化は期待していなかった。
いや、変化してないからこそ、こういう状況になっているのだろうか。
駄目だ。もう、何もわからん。誰かこの状況を説明してくれ。

「あやね、厠はここじゃないぞ」

深夜に男の部屋なんて訪ねるものじゃない。薄い浴衣を身にまとったあやねは、枕を片手にこちらをぼんやりと見下ろしていた。





三千世界ノ





夕食を終えた頃だった。自室で満腹になった腹をさすっていると、大量の書類を抱えた小五郎が訪れた。

「晋作、今日はあやねさんとどこへ行って来たんだい?」

紅葉狩りに行ってきた。そう笑って伝えると、小五郎もにこやかに微笑んだ。そして、俺の机の上に大量の書類を落とした。

「そうか、それは随分と楽しかったろうね。何せ、丸一日分の仕事と、私の忠告を無視して行ったほどだ」

お得意の薄っぺらな微笑みを浮かべながら、小五郎は有無を言わさぬ口調でこう続けた。もちろん、目は笑っていなかった。

「明朝までに全て目を通すように」

それから数時間経ち、ようやく書類の終わりが見えてきたところで冒頭に戻る。時間は深夜、丑三つ時。音もなく襖が開いたものだから、幽霊か何かかと驚いた。それぐらい、予期せぬ出来事だったのだ。この時間帯にあやねが訪れるなんて、初めてのことだった。

「良い夢を見たの」

ぼんやりとした表情のまま、あやねは眠たげな瞳をこちらに向けて呟いた。まだ半分ほど夢の中、と言ったところだろうか。

「良い夢なのに泣いているのか?」

よくよく見れば瞳は濡れていて、今まで涙していたことがうかがい知れる。

「そう、すごく良い夢。お父さんもお母さんも、クラスのみんなも、カナちゃんも、晋作さんも桂さんも出てくる素敵な夢」

そこまで聞けば十分だった。故郷に残してきたものは、まだ幼さすら残る彼女には大きすぎる。襖の前で身を縮こまらせるかのようにして、あやねは震える両手で枕を抱きしめてみせた。

「……そうか」

そう呟くように答えてから、俺はこちらに来るように手招きする。その様子を見てあやねは、おずおずと目の前に座り込んだ。
違う、そこじゃない。枕を抱きしめる彼女を、抱きかかえるようにして膝の上に乗せた。いつもなら騒ぎ出すところだが、あやねは借りてきた猫のように大人しい。俺の腕の中で、安心したかのように瞼を閉じる。

「すごく素敵な夢なのに、すごく悲しくて、寂しくて」

何も言わずに頭を撫でると、少しだけ幸せそうに微笑むのが見えた。こういう時に、自分の無力さを呪いたくなる。
残って欲しい、傍に居て欲しい。そう願ったくせに、いざこうなって見れば、俺は何も言わずに頭を撫でる事ぐらいしか出来ないのだ。
そんな俺の想いを知ってか知らずか、あやねは心地よさそうに身を寄せる。その姿が、どうしようもなく愛おしい。
突然、ふと、思い付いたかのようにあやねが呟いた。

「晋作さん、一緒に寝てもいい?」
「ああ、構わんぞ!」

そう反射的に答えた瞬間、その言葉の意味に気付く。あまりの出来事に言葉を無くし、思わずあやねの顔を覗き込んだ。
口をパクパクと金魚のように動かす俺の姿を、不思議そうに見つめて微笑む彼女は無垢だった。

「ありがとう」

幸せそうに微笑んでから、あやねは俺の腕の中を抜け出した。そして傍に敷いてある布団の上に移動する。自分で持ってきた枕を、俺の枕の隣に並べてから、布団の中にもぐり込んだ。
その間、俺は固まっていた。しまった。間違えた。いや、間違えていないけれど、間違えた。

「……晋作さん?」

布団の中で不思議そうな顔をして、彼女はおいでおいでと手招きする。未来の世界でそういうことがどうなっているかは知らないが、確実にあやねは鈍感な部類だと思う。
あの顔は、どうどう考えてもわかってない。
本当に「眠る」ために、アイツは「一緒に眠りたい」などと言ったのだろう。それがひしひしと伝わってくるのが悲しい。

「あ。あぁ、そうだ!小五郎のやつに、書類に目を通せと言われてな!これが終わるまでは眠れんのだ、先に寝ててくれ!」

苦し紛れにそう言うと、あやねは眠たげな声でこう返す。

「そっか、もうちょっとだね」

机の上を見ると、あと数枚しかない書類が目に付いた。つい先ほどまで、早く眠りたいという一心で、真剣に仕事に取り組んでいた自分が恨めしい。これはもう逃げも隠れも出来ないかと、肩を落として最後の数枚に目を通した。

「晋作さん」

不意に。布団に入ろうかどうしようかと考え込んでいると、瞼を閉じていたはずのあやねに声をかけられた。眠たげに目を開いた彼女は、両手をこちらに差し出してみせる。その差し出された腕に、素直に飛び込めればどれだけ幸せだろうか。

「よしよし、いい子にして待ってたのか!えらいぞ!」

差し出された腕に未練を残しつつ、俺の掌はまたあやねの頭を撫でる。こうでもしなきゃ間が持たない。
そしてようやく、俺は覚悟を決めて布団の中に身を滑らせた。なるべくあやねとの距離を保ちたかったので、少しばかり体が布団からはみ出ているが、気にしてはいけない。布団の中で絶妙な距離感を保ちつつ、向かい合わせに寝ている姿はさぞ滑稽だろう。
もし大久保さんにでも知られれば、「男の甲斐性も無いのか」と笑われるに決まっている。
そうして馬鹿なことを考えて平静を保った。
だが、その努力は一瞬で無になる。まどろんだ表情で、あやねがこちらに身を寄せてきたのだ。

「どっ、どうした!」

必死に動揺を抑えようとするも、どう見ても抑えられていない。

「晋作さんと、こうして居られて、すごく嬉しいの」

俺の胸元に顔を寄せて、うっとりとした様子でそう呟く。
そのいじらしさに、胸が張り裂けそうになった。耐えかねて、あやねの細い体を抱きしめる。昼間ならいくらでも抱きしめてやれるのに、こうして夜中に布団の中で抱きしめることがここまで難しいとは思わなかった。心臓が激しく鼓動する。
頭の中を様々なことが駆け巡った。
俺は意を決して、訊ねる。

「あやね。俺はお前を愛してる。お前は、俺の女だろう?」

自分でも、男らしくない台詞だと思った。けれどこれが精一杯だった。自分のどこに、こんな青臭さが残っていたのかと驚く。
そして腕の中で、あやねがこちらを見上げた。

「うん、私は晋作の女だよ。晋作さん、だい、すき」

そう満足げに微笑んだかと思うと、後に続いたのは静かな寝息だけだった。
ここで、この状況で、それを伝えて眠るなんて、残酷すぎやしないだろうか。

「それは、ないだろう……」

三千世界の鴉を殺しとは言ったものだが、三千世界の鴉が欲しいと思ったのは初めてだった。
どうか、少しでも早く、この生殺しのようで幸せな夜が明けますように。





20101005


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