縁側で三味線を弾きながら、一人、思う。

「どうか口吸いを」

そう馴染みの芸妓に迫られたのは、何度、彼女の元に通ってからだっただろうか。
呆けた頭で思い出そうとするも、どうもうまく思い出せない。
ただ確実なのは、幾度か彼女と肌を重ね合わせてから、という事だけだった。
あやねの時代では知らないが、少なくともこの時代の口吸いはそう言う物だった。
いくら金で身を許す女でも、唇は許さないなんて当然で。
自分が心底惚れた男にしか、口吸いなんてさせやしない。
身持ちの固くない女でも、それに関してだけは生娘のような清純さを覗かせるのだから、何とも妙なものではあるが。
それが果たして、未来ではどうなっているのだろうか。
そう考えたところで、弾いていた三味線の音が外れた。
これで何度目だろう。
どうも朝から、あやねの事で頭がいっぱいだった。
ただ、「廊下であやねとぶつかった拍子に唇が触れた」それだけの話だ。
それがこうも、心にわだかまりを残したのは、その後のあやねの反応にある。
まるで口吸いに慣れているかのように、「事故だから大丈夫」と、平然とあいつは言ってのけたのだ。
そこでまた、三味線の音が外れる。
本当に、彼女の言うとおり口吸いに慣れているのだとしたら、「何度も男と肌を重ねたことがある」とでも言っているようなものだった。
それだと言うのに、あいつは。
藩邸には、音の外れ続ける三味線が鳴り響いた。





だから愛して





「晋作さん」

不意に届いた声を耳にして、手元に力が入る。
すると、ブツンと音を立てて、三味線の弦が切れた。
声のした方を見ると、それを目にしたあやねが、おかしそうにくすくすと笑っていた。
その可愛らしさに全部どうでもよくなりつつも、今朝のあの反応を思い出す。
すると、その笑みがどうも妖しく思えるから不思議だった。
ひとしきり笑い終えたところで、あやねは口を開いた。

「あの、今朝のこと、桂さんに説明してくれって言われて」

まさか本人の口からその言葉が出るとは思っていなくて、俺は少なからず衝撃を受ける。
そんな純粋な顔をしながら、一体どんな恐ろしいことを聞かされると言うのだろうか。
そう、想像するだけで嫌だった。

「聞きたくないっ!」

ほとんど反射的に、俺はあやねに向けてそう叫んでいた。
自分でも駄々をこねる子供のようだと思いながら、顔だけでそっぽを向く。
今までに何人もの男と恋仲になって、それぞれを心底愛してきたから、口吸いなんて慣れたものだ。
もし、そうとでも言われよう物なら、当分は立ち直れないに決まっていた。
我ながら想像が逞しいと思うが、それでも俺は真剣だった。
そんな俺の内心などつゆ知らぬあやねは、無防備に俺の隣に腰掛ける。
顔はそちらに向いていないから分からないが、視線が注がれているのを感じた。
しばしの沈黙が流れる。
その静寂さに居た堪れなくなった俺は、男らしくなく半分だけ顔をそちらに向けた。
そして、聞きたくて聞きたくて、仕方なかった言葉を口にする。

「どうしてお前は、口吸いして平気で居られるんだっ!」

そう叫ぶと、あやねは目を丸くした。

「口吸いっ?」

きっと未来の世界では他の呼び名があるのだろうが、気にせずに俺はもう一度叫んだ。
心からの叫びだった。

「あやねが口吸いに慣れてるなんて、いやだっ!」

朝からずっと胸の中にあったモヤモヤとした想いをぶつける。
すると、あやねの頬はなぜか紅く染まる。
ただ、夕陽を浴びていたからそう見えるだけかもしれない。

「じっ、事故だから、仕方ないかなって。友達とふざけてキスしたこともあるし」

目を伏せてあやねは答えた。
耳慣れない言葉に俺は首をかしげる。

「きす?」

するとあやねは言い辛そうに、こう付け加えた。

「口吸いの、こと」

その答えに俺の頭は真っ白になる。
口吸い、いや、キスを、友達としたとあやねは言ったのだろうか。
友達とキス、をする。
その未来は、俺の想像を遥かに超えていた。
言うならば俺と小五郎が口吸いを、と、そこまで考えて心の底から気持ち悪くなる。

「未来は、世も末だ……」

あやねに聞こえるか聞こえないかの声で、俺はうな垂れながら呟いた。

「こっちの世界だと、キスってしないの?」

黙り込む俺を見かねてか、あやねが質問を投げかける。
確かにしないこともないが、口吸いは結局、肌を重ねるということに直結しているのだ。

「口吸い、じゃなくて、キスは……恋仲にあっても最後だ」

そう考えながらぽろりと出た言葉に、あやねは首をかしげる。

「最後って何の?」

まさか言葉尻を取られるとは思わず、俺はうろたえる。
しかし、どうもこの反応からして、未来でのキスは、口吸いのように行為と直結しているのでは無い気がしてきた。
そうだとすると、一人で悶々と不埒な想像を働かせて、あやねに変な勘繰りをしていることになる。
そう考えると、自分の下世話さに一気に顔が熱くなるのが分かった。

「いや、聞かなかったことにしてくれ!」

そう俺が答えると、あやねは不思議そうにしたまま呟いた。

「その、この世界では違うかもしれないけど、未来ではキスってそんなに大変なことじゃないから」

そこまで聞いて、やはり未来でのキスは口吸いとは違うのだなと、思い知らされる。
少しばかり胸を撫で下ろしたところで、あやねの続けざまの一言が胸に刺さった。

「気にしてないよ」

そう事も無げに微笑むものだから、先ほどまでとは違う意味で胸が痛くなる。
今朝から一人で頭を悩ませていたのは俺だけだったのかと、そう思うとむなしさすら感じた。
たとえそれが価値観の違いのせいであったとしても、残酷な言葉だった。

「気にしてない、か」

自虐的に繰り返して見ると、余計にそれは深々と胸に突き刺さる。
少しぐらいは、俺のことを意識してくれたって良いじゃないかと、そう思った。
きょとんとした表情のあやねを見て、どうしたらこいつは意識してくれるのだろうかと考える。

「……」

紅い唇が目に入った。
果たしてこの唇が、何度、他の男と重なりあったかなんて知りたくも無いし知ろうともしない。
だが、嫉妬に駆られるこの気持ちだけは、許して欲しい。
そっと、顎に指先で触れる。
わずかに持ち上げてみると、素直にその顔はこちらを向いた。
あやねと視線が合うも、すぐさまその瞳は逃げていく。
そのまま口付けてみようか。
そう思ったが、視線を反らすも表情を変えないあやねを見て、やめることにした。
俺は唇が触れ合う直前にまで、彼女に顔を近付ける。
そして、わずかにでも動けば唇が触れ合う距離に来たところで、動きを止めた。
反らされた視線がこちらへ向かうように、少しでもこちらへ想いが向くように、あやねに向けて呟く。

「このキスは、気にしてくれるか?」

その言葉を聞いた途端に、あやねの顔は見る間に赤く染まっていった。
決して夕陽に照らされたせいではないと思う。
こちらに向けられた視線は、どうしようもなく揺れていた。
その反応に、たまらなくなる。
このまま咬み付いてやろうか、押し倒してやろうか。
そんな衝動に駆られながら、必死で気持ちを押さえつけた。
俺は静かに距離を詰めて、その唇に触れる。
自分の心とは裏腹に、触れ合うだけの優しいものだった。
その柔らかな唇を食むと、あやねの表情は色を含んだものになる。
綺麗に歪められた目元は、俺の中の何かを駆り立てた。
そして舌先を絡めようと、唇を舐めとった所で、あやねの目は大きく見開かれた。
瞬間、俺の胸に両手が付き立てられる。
否応無く、俺は彼女から身を離された。
その行動にしばし呆然とする。
すると、あやねはうろたえたように、俺の顔を見た。

「しっ、晋作さんっ?」

何をするのかと言いたげな顔だった。
そして、口元を両手で押さえたかと思うと、複雑そうな表情でこちらを睨む。
だがその表情は、逆効果だろうと思わせられるような、愛らしいものだった。
さて、この反応はどういうことだと頭を働かせる。
あやねは友達とやらにもキスをしたと言っていたが、それにしてはこの反応はウブ過ぎやしないだろうか。
今朝は俺の方が、まるで生娘のような反応をしていたというのに。
そこで俺は、今朝と何が違うのかと考えてみることにした。
すると、一つだけ、思いあたった。
舌。
舌が、触れた。
そして更に、今までの流れを統合して、考えてみたところで結論が出た。
俺が思うに、どうやらあやねの言うキスとやらは、唇に触れるだけの物を指すらしい。
この世界での口吸いは、行為と直結しているので、それだけで済むものではないのだが。
そこまで考えたところで、俺は気付いた。

「ああ、そうか!そういうことか!」

気付いた途端に笑いがこみ上げてきて、先ほどまで悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。
この反応から見てとるに、あやねはこの世界で言う口吸いを、した事がないのだ。
彼女が言うキスとやらは、本当に唇が表面的に触れ合うだけの、ネンネの物なのだ。
だから舌先で触れようとした時に、俺を突っ放したのだろう。
口吸いでは当たり前のことだが、キスではどうやら違うらしい。
なんだ、そういうことか。
そうして、一人で笑い声を上げる俺を、あやねは不思議そうな表情で見ていた。

「あやねには、まだこれは早かったか!」

そう言ってから、どこか不機嫌そうな彼女を抱き寄せる。
そして彼女の幼さと純粋さと、その清らかさに感謝しながら、俺は頭を優しく撫でてやった。
すると、子供扱いされたと思ったらしいあやねは、不服そうな視線をこちらに向けた。
子供扱いするなという顔をされても、実際に子供なのだから仕方ないと思う。
しかし、そのふてくされた表情すら愛しかった。
表面上のキスはしたことがあっても、舌を絡ませる口吸いはしたことがない。
そんなネンネな彼女のために、しばらくはキスで止めておこうと心に誓う。
ただ。
いつまで経ってもネンネで居て貰っても困るので、俺はこう囁くことにした。
これからの成長に、不埒な期待を込めて。

「これからゆっくり覚えればいいさ」

いくらでも、教えてやる。





20101022

3000hitキリリクとして、サキさんに捧げます。


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