「だから、私はお酒なんて飲めないし、飲むつもりもないから大丈夫なの。それに桂さんも居るんだから、晋作さんはちゃんと用事を終えてから寺田屋に来てね」
「そうだぞ晋作。いくら酒の席だからと言って、坂本君たちが彼女に何かするはず無いだろう。よっぽど、お前の方が危険だ」

そんな散々な言われようで、あやねと小五郎に藩邸を送り出されたのが一刻前。それから急いで用事を終わらせて、俺は寺田屋に向かっていた。
土佐藩、薩摩藩、そして長州藩。
誰が主催したかは忘れたが、今宵、寺田屋で開かれるのは酒の席だ。
その酒の席にあやねを連れて行くと決めたのは他でもない俺だったが、それはアイツの傍に俺が居ることが大前提の話。だが急用のせいで、俺は酒の席へ一人遅れることとなった。
そんな宴会に遅れるだなんて無粋な真似はしたくない、あやねを酒の席に一人置いておくとなれば尚更だ。
だから俺は、つまらん会合に行きたくないと駄々を捏ねたのだけれど、結果はもちろんこの様だ。
俺は寺田屋の階段を駆け上り、目的の部屋に繋がる襖を開いた。





貴方は私の掌で





「小五郎、アレはどういうことだ」
「そうだね、何と言うか。私は止めたよ、とだけ言っておこうか」

騒がしい部屋の中、一人冷静な面持ちのまま、小五郎は言った。多少は俺への後ろめたさがあるのか、珍しくもその言葉尻を濁す。
そんな小五郎の隣に座りながら、俺はグイ呑みに注がれた酒を煽るように飲み干した。空きっ腹も手伝ってか、一気に酒が回るのがわかる。
そして膳の上に勢いよく空になったそれを置いてから、俺は部屋の反対側をキッと睨んだ。

「アレは、どういうことだと聞いてるんだっ!」

俺達の座る位置とは反対側、ちょうど土佐藩の連中が並び位置するその席で、目に余る惨状は繰り広げられていた。

「ちょ、ちょっと駄目ですってば!姉さんっ!」

そう叫んだのは中岡だ。

「ちっちゃい!かわいいっ!」

そしてその膝の上には、あやねが向かい合うようにして座っている。
あやねは楽しげに中岡の顔を見下ろしながら、まるで犬でも愛でるようにいい子いい子と頭を撫でていた。
どう見ても、あやねはすっかり出来上がっていた。
どれだけ飲んだのかは知らぬが、正気の沙汰ではない。もしも、中岡が女のような顔をしていなければ、斬り捨ててやるところだと思う。
その光景を遠目で見ながら、グイ呑みを持つ手に自然と力が入っていることに気付く。どうやらそれに気付いたのは小五郎の方が早かったようで、徳利をこちらに傾けた。

「まぁ、怒らずに。一杯」

トクトクと、熱い日本酒が手の内に注がれる。
何を女のようなことをと、小五郎の顔を見ると、いつものあの嫌な笑みが浮かべられていた。
酒の席で無粋は無用。
何も言わずとも、小五郎の目はそう俺に告げていた。

「……誰だ、あやねに酒を呑ませたのは」

俺は大人しく、小五郎に注がれた酒を一口含んだ。

「私だ」

不意に、小五郎とは反対側から聞こえた言葉に振り返る。
いつの間に居たのか、そこには不敵な笑みを浮かべた大久保さんが居た。

「いや、無理に飲ませたわけではない。小娘が飲まぬと言うから、『飲まぬのではなく、飲めぬのだろう』と言っただけだ。すると、一気に酒を飲み干してな。ああなった」

そう言って、ククと笑う姿は、どう見ても愉快犯のそれだった。
酒を断ったあやねを挑発し、自分で飲むように仕向けたのだろう。本当にこの人は、煮ても焼いても食えそうにない。今夜は悪酔いしそうだと思いながら、騒がしい一帯に視線をやった。

「こりゃ、中岡!ワシのとこに来られても困るじゃろうがっ」

散々、あやねに撫で尽くされた中岡が、どうやら助けを求めているところらしかった。ずるずると這いつくばるようにして逃げながら、彼は息も絶え絶えに声を上げる。

「龍馬さん!俺っ、もう、無理ですっ!」

ちょっと待て、何が無理なんだ。
その中岡の言葉に、手に持つ箸が折れそうになる。
よく見れば彼の頬は紅潮しているようにも見えて、ああ見えてもあいつは男なんだから仕方ないと考え直した。
けれどもそう考え直してみると、余計に苛立ちは増していくばかりで、手元の箸が悲鳴を上げる。
そんな俺の様子などつゆ知らぬあやねは、逃げ出す中岡から、標的を変えた。

「わぁ、ふかふか!」

そう言ってあやねは、坂本に真正面から飛びついた。
ちょうど彼の頭を抱え込むようにして、ふかふからしい頭に頬をすり寄せている。
あやねの顔は幸福そのものだが、坂本の顔は幸福と困惑がごちゃまぜだった。
待て。幸福だと。
その位置で抱きしめられては、彼の顔にあやねの胸元が当たっているのは明白だった。
そう考えたところで箸が折れた。

「いかん、いかんっ!こりゃいかんぜよ、武市!」

いかんと叫びたいはこちらの方だ。
止めにかかろうと俺は席を立つ。
どう殴れば上手く仕留められるだろうかと考えたところで、坂本がこちらに気付いたようだった。真っ赤に染まっていた顔が一瞬で青ざめたかと思うと、彼はあやねを隣人へと手渡した。

「っ!」

そのまま膝の上で受け止めた武市は、突然のことに体勢を崩す。後方に少しばかりのけぞる彼の胸に、あやねはのしかかった。

「あれ?こっちはさらさらしてる」

そう不思議そうに言って艶やかな黒髪を撫でたところで、武市の隣に座っていた番犬が腰を上げた。

「あやねっ!先生から離れろっ!」

その意気だ、だが名前で呼ぶあたりは気に食わん。そう思いながら、岡田があやねを引っぺがすのを待った。

「以蔵!」

すると、部屋中に響き渡るかのような声を武市はあげる。

「……酒の席で声を荒げるな」

そして彼は、自分の髪を撫でるあやねをそのままに、膝の上に乗せおいた。理不尽に怒鳴られた岡田は、何か言いたげな顔をするも、静かに腰を下ろす。
楽しげに髪を撫でるあやねはともかくとして、撫でられる武市がどこか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
いや、気のせいではないだろう。
ここまで我慢した自分に賞賛の拍手を送りたい気持ちになりながら、俺は叫んだ。

「ああ!もう我慢ならんっ!」

すっかり折れた箸を投げ捨てて、ずかずかとそちらに向かう。

「あやね!俺のとこに来い!」

武市に抱きつき、こちらに背を向けるあやねに言い放つ。
するとそいつは、ちらりとこちらを振り返ってから、ぺろっと可愛らしく舌を出した。

「やだ」

その言葉に、少なからず衝撃を受ける。
ちょっとふらっとしそうになる俺をよそに、あやねは武市から岡田の元へと移動した。

「来るな、引っ付くなっ!」

そう言ってたじろぐ岡田の首元に、しっかと腕を回してみせる。

「やだっ、やだっ!離しちゃ、やだっ」

まるで恋仲にある男にすがりつくようにして、そうするあやねの姿に目眩を覚えた。

「お前っ、いつからあやねと……!」

俺が腰元の刀に手を伸ばしたのを見て、岡田は叫んだ。

「誤解だ!」

その後もなお、離れようとしないあやねの姿に俺の心は痛むばかりで。悪酔いどころか、酒の席だというのに酔うことすら出来そうにない。岡田にしがみつくあやねの姿に、酔いは醒める一方だった。
誰がこいつをこんな風にしたんだ、せめて責任をとって元に戻してくれ。そう思わずには居られなかった。

「ふん。こんなもの、さっさと引き剥がせばいい」

横から、ひょいと手が伸びた。まるで猫の子をつかむように、あやねは首根っこを掴まれる。そして軽々と持ち上げて、岡田とあやねを引き剥がしたのは、他でもない大久保さんだった。
途端に宙吊りになったあやねは、空中でじたばたと手を動かす。
まるで恋人と引き離されたかのような口ぶりで、岡田に向けて切なげにこう言った。

「晋作さんっ!」

途端に辺りが静まり返る。

「やだっ、やだっ、晋作さんっ!」

そう言ってあやねは、岡田に抱きつこうと手を伸ばす。けれどその手は、空を切るばかりだ。
呆気にとられる一同をよそに、一番最初に声をあげたのは大久保さんだった。

「これは面白い。どれ小娘、あれの名はなんという?」

ずいぶんと楽しげな様子で、彼は中岡の方を指差してみせる。

「んっ?……晋作さん」

当然と言わんばかりに答えたあやねに、大久保さんは肩を震わせて笑い声を押し殺した。
そして今度はと、坂本の顔を指差す。

「よし、次はこれだ。こいつの名を言ってみろ」
「晋作さんっ」

それから彼は、武市と岡田の二人を指差した。

「そうかそうか。それではこの二人の名を教えてくれ」
「晋作さんと、晋作さん」

あやねは、幸せそうな顔で言い切ってみせた。

「これは傑作だ」

そう言って大久保さんが大きく笑い声をあげたところで、静寂に包まれていた部屋の中が、途端に笑い声で満ち溢れた。
惚気も大概にしてくれと、あちらこちらから野次が飛ぶ。
あやねは酒に酔ってところ構わず抱きついていたわけではなく、全員が俺に見えているという事らしかった。
改めてそれを理解したところで、一気に顔が火照る。
そんな酔い方が、あっていいものなんだろうか。
思わずうなだれる俺を尻目に、大久保さんはあやねを床に下ろした。
そして、自分の方にあやねの顔を向けさせたかと思うと、こう質問をなげかける。

「ところで小娘、私の名はなんだ?まさか、晋作と言うのでは無かろうな」

ここでその質問をする彼が、なんとも彼らしい。
するとあやねは、きょとんとした顔で首を横にふった。

「ううん、ちがう」

それを聞いて、大久保さんは満足げに頭を撫でる。

「ふむ、よい心がけだ。では私の名を教えて貰おうか」

いかにも自信有り気なその人に、あやねは笑顔を向けた。
さて、俺でないというのなら、彼は何に見えるというのだろう。
大久保さんだけがそのまま、大久保さんに見えるというのなら、それはそれで寂しい。そう思うのは、嫉妬だろうか。
男の嫉妬ほど醜いものはないなと思いながら、あやねの言葉を待つ。

「たぬき」

その能天気な言葉は、確実に大久保さんに向けられていた。
途端に、その人の動きが止まる。
場の空気も、完全に止まる。
どうかそれ以上、何も口にしないでくれ。そんな空気が、室内に流れる。
けれども、何も知らないあやねは、更に追い討ちをかけた。

「かわいいたぬき!」

こちらからは背中しか見えないが、大久保さんが引きつった笑みを浮かべている様が、容易に想像できた。
それからしばらくして、地に響くような声で、彼はあやねにこう告げた。

「……私が、たぬきに見えると言うか。ならばその身に、嫌と言うほど教えてやろう。一生、私の名を忘れぬようにな」

それを聞くか聞かぬかのうちに、俺は立ち上がりあやねを脇に抱えた。

「あやねっ、逃げるぞ!」

そうして俺は、大久保さんの制止にも振り向かず、寺田屋の廊下を駆けていった。残された小五郎がどうなるかは知らないが、まあ、アイツのことだから上手くやってくれるだろう。
小五郎の身を案じているのは確かなのに、俺の頬には堪えようの無い笑みが浮かんでいた。





20101016

2000hit記念のフリー小説でした。


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