我が薩摩藩が長州藩との間に入り、会合の場を提供した日のこと、私の役割は小娘のお守りだった。 愛に恋した 本棚の前で背表紙を眺めていた小娘は、あ、と小さな声をあげてこちらに振り返った。 私は書類から目を離し、椅子に座ったままそちらに視線を向けてやる。どんな言葉が紡ぎ出されるのかと待っていると、何の悪意も無さそうな笑顔で彼女はこう言った。 「大久保さんってタヌキに似てますよね」 瞬間、手にしていた書類を落とす。それはもちろん私ではなく、書斎に同席していた小姓の仕業だ。盛大に床へと散らばらせた書類を、必死でかき集める小姓の姿を横目で見ながら、フンと鼻を鳴らす。 「もういい、下がれ」 なるべく不機嫌そうな声色を作ると、小姓は真っ青な顔をして退室して行った。その様子を内心おかしく思いながら、お前も運が悪かったなと、彼を哀れに思う。 すると小娘は、そこでようやく自分の言葉の危うさに気付いたのか、口元をぱっと押さえた。 「ち、違うんです!タヌキってその、腹黒いとか、人を化かすとか、狸寝入りとか、そう言う意味のタヌキじゃなくって!」 小娘にしては珍しく饒舌だった。 ただ、そのスラスラと出てくる言葉のどれもが、墓穴を掘っている。 惜しい。非常に残念だ。だが、なんともそこが小娘らしい。 「ほう。腹黒く人を化かすタヌキとやらに、私は似ていると言いたいのか」 「違います!そんなこと、言ってませんっ」 「これは、高杉君にも聞いてみなければな。私がタヌキに似ているかと」 意地悪くそう言ってやると、不用意にも彼女はこちらへと近付いてくる。 そして書類の載った机を通り過ぎたかと思うと、私の腰掛ける椅子のすぐ隣で足を止めた。 かすかに見下ろされる形になりながら、私は小娘の顔に視線をやる。 「……タヌキは、タヌキは可愛いんですっ」 両手を拳の形に握り締め、そう言い切る顔は真剣だった。 「は」 思わずぽろりと本音がこぼれる。 せっかく不機嫌そうな表情を保っていたというのに、小娘の突飛な一言で、それはアッサリと崩れてしまった。 意味がわからない。 そんな私の様子に気付きもしていないであろう彼女は、必死に言葉を続ける。「なんだかこうタヌキって、コロコロとしていて、毛並みがふわふわとしていてやわらかそうで……目元なんかくりっとしてるのに垂れてて、すごく可愛いと思うんです!」 タヌキという動物に対する、思いつくだけの賞賛らしかった。 「ふむ。その可愛らしいタヌキとやらに、私が似ていると?」 「そ、そうですっ!可愛らしいほうのタヌキです!」 可愛らしくない方のタヌキとやらは一体なんなんだろうかと思いながらも、ほっと胸を撫で下ろした様子の小娘に調子を合わせてやる。 「そうかそうか、可愛らしいタヌキに似ているか」 「目元とか、ふわふわした髪の毛とか、すごく似てます!本物のタヌキを抱っことかしたことないけど、きっと抱いてみたらあったかくてやわらかくて気持ちいいんだろうなって」 そう瞳をきらきらと輝かせる彼女の言葉に、妙案が思い浮かんだ。 「抱いてみたいのか」 「はいっ!」 「どれ、そこまで言うなら抱いてやろう」 言うが早いか、小娘の腕を取ってこちらに引き寄せてやる。一瞬の出来事に抵抗も出来なかったのか、すんなりと彼女は私の腕の中に納まってしまった。 膝の上に乗る、その身の軽さに驚く。 「軽いな。長州藩邸ではちゃんと食わせて貰っているのか?」 「えっ、あ、えっ?」 「薩摩藩邸に来い。私の隣の部屋を空けておいてやろう」 状況が把握出来ていないのか、小娘はきょとんとした顔でこちらを見つめている。 その真っ直ぐな視線に、押し負けそうになる。 こんなに触れ合っているというのに。こんなに顔が間近にあるというのに。 赤面した顔の一つぐらい見せてくれたって、いいだろう。 彼女の顎に指先をかけて、更に距離を詰めた。 「なんだ、その目は。……誘っているのか?」 互いの鼻先が触れんばかりの距離で微笑むと、そこでようやく彼女の顔は朱に染まる。 ああ、なんとも面白いやつだ。 二の句が告げなくなった様子の小娘を見て、満足した私は彼女を解放してやることにした。 椅子の前にすとんと下ろしたところで、タイミングよく扉が開かれる。 「終わったぞ、あやね!待たせたな!」 ノックも無しに開かれた扉の先には、高杉君が立っていた。どうも彼は彼女のことが絡むと、常識をすっかり手放してしまうのだからどうしようもない。 まあ、他人のことを言えたクチでは無いが。 ぼんやりと佇み続ける小娘を見て、彼は不思議そうな表情を浮かべながらも、嬉しげに彼女の手を取った。 仲睦まじい二人を見せ付けられながら、私はひとつ意地悪を思いついた。 ああ、そうだ。 まるで、ふと思い出したかのように、小娘にこう声をかける。 「あやね。タヌキの腕の中は、いつでも空けてあるそうだ」 そして頬を染める姿を目にし、私は満足げに微笑んだ。 20101014 |