at ease
カーテンの隙間から漏れる陽光と通りを行く子供の甲高い笑い声や軽やかな足音に、もうきっと昼近いのだろうとぼやけた頭で考える。朝、いつも起きる時間に目覚めはしたが、今の今まで微睡みと覚醒を繰り返していたのは身体の自由があまり効かなかったからだ。後ろから回された太い腕に阻まれて寝返りもろくに打てない。真夜中過ぎに帰宅したなりベッドへ沈んだ夫が、無意識に彼女を引き寄せ抱き締めてからおそらく十時間は経っている。その間、あまりにも静かで寝息すら聞こえてこないステンレスの様子に、まさか死んでいるんじゃと思いもしたが、血の通った温もりは今も確かに感じられた。目の前にある彼の左手をぼんやりと見つめ、傷の少ない金の指環を爪の先で引っ掻く。
ここのところずっとそうだ。二月前もそうだったし、その前はさらに四ヶ月も前の話だったが、彼は仕事から帰ると決まって泥のように眠り、休日はほとんどそれだけで終わった。一日か二日経てばまたスーツを身につけコートを羽織り、行ってくるねと言って出掛けてゆく。次にまた帰ってくるまで、彼はずっと海の上だ。一緒になる前は、とイレーネは固く絡まり合った洗濯物を一枚ずつ引き剥がし、皺を伸ばしながらため息をついた。前は、こんなに絶えず出て行くことなんてなかったのに。
出会った頃、彼はほとんど毎日彼女のもとを訪れていた。来るなと言っても来たし、いい加減にしろと怒鳴っても来た。付き合いが始まってからもそれは変わらず、何日か姿を見せないこともあったが何週間とは空かなかった。あまりにも足繁く通ってくるステンレスにきちんと仕事をしているのかと尋ねたこともあったが、艦に乗るだけが仕事じゃないよと彼は答えた。イレーネには他にも馴染みの海兵が一人居たが、彼は当時数ヶ月単位で出て行くのが当たり前で、だからこそ余計に疑問に思ったものだ。月どころか年単位で出ている者もいるし長らく内勤の者もいる、所属や階級によっても様々だから、とモモンガは言ったが、正直それを聞くまでは半信半疑だった。心配しなくても大丈夫、そもそもあいつがさぼるだなんてありえない、という彼の言葉は、その時は話半分に聞いていたけれど。その後ステンレスも長期で出て行くことが増え、今ではかなりその機会も多い。それが普通なのはわかっているけれど。
寝室から何か大きくて重たいものが落ちた音と間抜けな叫び声が聞こえたが、イレーネは残り数枚のタオルを全部干してから部屋の中へと戻っていった。力の緩んだ腕から抜け出す際、身代わりにしておいた枕を抱き締めたままのステンレスが彼女を見つけ、完全に寝呆けた顔と声で艦は、と呟く。三日後じゃない?と可笑しそうに返したイレーネはぐしゃぐしゃになったシーツを手繰り寄せ、その端を踏んでいることに気づいていない彼を何とか退けた。オートミールかリゾット、と彼女が聞けば、肉、とあくび混じりに短く答える。

何日かまとまった休暇が取れたと言うモモンガがかもめの家を訪れた日の午後、彼は変わらず元気な子供達よりも珍しく物憂げなイレーネに目が行った。子供達や職員と接する様子はいつも通りだったが、ふとした時に上の空で仕事の手を止めている姿を何度か見かけたのだ。妻から多少聞いてはいたし、同僚がもう半年は海に出ていることも知っていた。だから彼はどうしても気に掛かり、ぐずる子供をしばらく抱いてあやしていた彼女に折をみてそっと声を掛けた。腕の中の子はずいぶん前から穏やかな寝息を立てている。

「もう横にしても大丈夫そうだね」
「え…ああ、そうですね」
「浮かない顔だ」
「そんなことないですよ」
「本当に?」
「はい。まあ、でも…あれだけうるさいのがずっと居ないんで、ほんの少しだけ…寂しい、のかな」

おや、と声にはしなかったけれど、モモンガは意外に感じて目を丸めた。彼女がここまで素直に気持ちを言葉にするとは思わなかったからだ。目に見えて明らかでも隠そうとする、もっと言えば態度にもあまり表さないイレーネが早々に感情を吐露するなんて、やはり参っているのだろう。眠る子供を横たえ、布団を掛けて枕を整える彼女の寂しげな横顔をあいつが見たら、と玩具の片付けを手伝いながらモモンガは苦笑した。静かに部屋を後にしたイレーネの後ろを歩き、もうすぐ帰ってくるはずだ、とさりげない調子で話し掛ける。

「もうすぐ、順調であれば今週末までにはと思うが。昨日本部で耳にした感じでは」
「ええ、今朝ちょうど連絡が来たんです。早ければ明後日かなー、って」
「連絡を寄越す気遣いはできたのか…」
「そうみたい。別に居なくたってもいいかー、って思うことも多いですけどね。亭主元気で留守がいい、なんて言う人も居るけど…」

ここまで言いかけて途切れた言葉の続きは大体予想がつくが、足を止めたイレーネの眉間に突然ぎゅうと皺が寄った理由はわからなかった。モモンガが先を促しても彼女は口を開かず、しかし何か思い当たることがあったのか一度目を閉じ深くため息をつく。次に瞼を上げた時、彼女は間違いなく何かに腹を立てていた。先ほどよりもさらに厳しい顔つきになっていたのだ。

「ねえモモンガさん、もしかしてなんですけど…」
「うん…?」
「もしかしてあの人、わざと仕事増やしていませんか?」
「ああ…いや、どうだろう…そうかもしらんが、だとしても…」
「多分、私のためとかで」

家に帰りたくないがために、とは考えづらかったから、モモンガもイレーネも同じことに思い至った。それでも彼女が腹を立てるには十分で、なんなのよ、と表情だけではなく言葉まで荒々しくなってくる。夫の同僚がこの場に居なければもっと言っていただろう。モモンガは口を閉じ、ここ一年あまりのステンレスの任務地を知っている範囲で思い浮かべてみた。軍の艦でも難しい航路やひどい略奪が頻発する海域、その他も基本遠方で誰もが立ち入りたがらない特殊な地域ばかり。これだけ高頻度で本人の希望なしに派遣されているのだとしたら、同じ海兵仲間からは内心同情されるだろう。もしくは余程上の機嫌を損ねたのかと噂されてもおかしくはない。ただ、よくよく考えてみればこれも彼の行動理念に適ったものなのだと気づく。動機はどうあれ、本来彼のやり方はいつもこうだった。今回は確かに度が過ぎている気もするが。

「イレーネ先生、私から言えることではないから、あいつに聞いてもらうしかないが…」
「はい?」
「きっと理由はそれだけではないと…」
「理由、ね。今度帰ってきた時にじっくり聞いてみます」

じっくり、がことさら強調されたのは気のせいではない。モモンガは恐ろしく完璧な微笑みを浮かべたイレーネを見て、そうだね、としか返すことができなかった。

連絡を入れてから結局四日もかかってしまった。昼前には入港したが、すべてを片付けたステンレスが家路についたのは日が暮れ始めた頃だ。もちろんそれなりに疲労は溜まっていたけれど、もうすぐ彼女の顔を見られるかと思うと足取りも軽くなる。風呂に入って飯を食って、いやその前に思い切り抱き締めさせてもらえば疲れなんかすぐに吹っ飛ぶ。自宅へ近づくにつれて彼の歩幅は大きくなり、玄関のドアを開ける頃にはひとり満面の笑みを浮かべていた。はやる気持ちを抑えきれず、指環を嵌めながらほんの数歩で灯りのついていたダイニングへと向かう。

「イレーネただいま!」
「ん」
「ただいま!帰ったよ!」
「おかえり」

キッチンでオーブンに向き合っていた彼女に近付き腕を伸ばしたが、言い知れぬ空気を感じ取った彼はぴたりと動きを止めた。振り返ったイレーネの不穏な雰囲気に笑い顔だけはすぐに引っ込め、広げた腕もゆっくり下ろしてそのまま直立不動の姿勢を取る。多分、物凄く怒っている。そこへ直れ、と冷ややかに言われたステンレスは思わず床に膝を付いたが、そっち、と強い口調で示されて椅子に座り直した。背筋を伸ばし、両手は握りしめて膝の上だ。

「あ、あの…おれ何か…」
「まず聞きたいのは、あんたが何のためにこれだけ仕事をしているのかってことなんだけど」
「何のって…君の…」
「それだけ?」
「いや、もちろん他の…世の中と言うか色んな人もだけど、一番はイレーネに…」
「そう。で、ここまできついことを繰り返す理由は?仕事の内容までは知らないけど、外に出て行く回数と期間がひとより多いのはわかってんのよ。艦で出て行くだけが海兵じゃないんでしょう?何で?」
「ごめんね、あんまり家に居なくて寂しかったよね…」
「じゃなくて、何できついことしてんのかって聞いてるの」
「そこまできつくはないけど…」
「そこまできつくないひとが帰ってくるたびに死んだように眠るの?ベッドならまだしも玄関で寝てたこともあるじゃない」
「家に着くとどうしても気が抜けて…それに、出て行く機会が多かったのは偶々で…」
「偶々?」
「…すみませんこちらから志願しました」
「何で志願したの?」
「それは…えーと…」
「特殊手当?」
「…はい」

答えはわかっていたから、これは単に確認の作業だった。確認と自覚と。そうする内に気づくことがあったのか、ステンレスはかなりばつの悪そうな顔をして視線を下向けた。
もう随分前にはなるが、イレーネが彼の部屋で初めてクローゼットを覗いた時、端から端までずらりと並んだスーツを見て面食らったことがある。スーツだけではなくシャツもベルトもネクタイも、その他小物もかなりの数を所有していた。よくここまで揃えられたものだと呆れて言うと、いっぱい仕事したからねと彼は笑った。欲しいものがあったから、単純に仕事の量を増やした。ただ増やしてもそこまで稼げないから、ひとが行きたがらないところに行くことにした。うまい具合に階級も上がっていったし、楽しかったよ。もちろん金や楽しみのためだけじゃなかったけど、でもね、お金はあるに越したことないから。
今はそこまで物欲ないけど、と屈託なく言った彼に、へえ、とだけ返したことを彼女は覚えていた。何故そこまでしてしまうのかは、彼の生い立ちを知ることで理解出来たけれど。

「そんなに必要ないでしょう?そこまでしなくたって十分だとは思わなかった?」
「多分短い時間で見れば十分だろうけど、長いこと考えたら頑張らないといけないなって…」
「頑張ってくれるのはいいんだけど、頑張りすぎなくても何とかなるでしょ。それに、あんたの都合に振り回されてる部下たちのことは考えてんの?命削る仕事してるって意識ある?」
「あ、うちの部隊の連中が皆非番の時はおれだけ別の艦に乗せてもらったりとか…」
「はあ?!そんなことしてたの?休みなら休めばいいじゃない!いい加減…あー…なんでこんなに独りよがりな…」

想像していたよりもひどい有様に、イレーネは思わず額を押さえて言葉を失った。機嫌だけではなく具合まで悪くしてしまったとステンレスは立ち上がり掛けたが、そのまま、ときつく言われてまた腰を下ろす。正面の椅子を勧めても彼女は座らなかった。目線を下げたくなかったのだ。

「ごめんね、ほんと…でもイレーネに…」
「私のことはわかったから!もうちょっと自分のこと考えろって言ってんの!何のためにって、何でその理由の中にあんた自身は居ないのよ!ひとのことばっかりじゃない!馬鹿なの?!」
「ごめ…いやでも、そうしたいのはおれだから…」
「あーもう!何なのあんたたち海兵は!そんな人ばっかりなの?!」
「そうだなあ…多分、大体皆こんな感じかなあ…」
「大体って…ああ、そうだ…手当以外の理由って何?理由はそれだけじゃないってモモンガさんが言ってたんだけど」
「モモンガ?え、何だろ…理由…」
「あんたが無茶して何度も出て行く理由よ、彼から言うことじゃないから本人に聞けって」
「あ、あー…理由と言うか、あれかな、おれの正義の…」
「せ…あーもう!ほんっとあんたたちは!!海兵と結婚なんてするんじゃなかった!」
「えっ、ほんとごめんなさい!ちょっ…イレーネさん?!頼むから出て行かないで!!」
「出て行きたいならとっくにそうしてるわ!お風呂行ってくるの!腹減ったならそこにあるから勝手に食べろ!馬鹿!」

引き止めるために伸ばされた腕を完全に無視し、イレーネはダイニングのドアを勢いよく閉めた。何か硬いものがぶつかった鈍い音とくぐもった叫び声が聞こえたが、もちろんそれも放っておく。
数分後、バスルームの磨りガラス越しに見えるでかい影に向かって何?と問い掛けた彼女に、ごめんなさい、と小さな声が応えた。

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