リピート
ジリジリと鳴る目覚ましがいつまでも止まず、珍しく起き出してこない夫の様子を寝室の入り口から覗いて確かめる。
眠っているのに眉を吊り上げて唸っている彼を見るに、ずいぶん夢見が悪いのだろう。いや、単に首や顔の周りに巻きついている毛布の所為かもしれないが、とにかく、もう起こした方がよさそうだ。
ベルを止めて柔らかく肩を揺らし、名を呼びかけるとはっとして目を覚ます。夢とうつつとの境界を把握しきれず、宙を漂う視線が不安げに右と左を行き来し、そうしてようやっとジョアナの顔を見つけ、モモンガは止めていた息を吐き出した。

「おはようございます、大丈夫ですか?」
「ああ…おはよう…」
「ここ、すごく皺が寄ってましたけど」

ニコリと微笑んで屈み、いつもより深い眉間の溝に指を添わせて優しく撫でる。夫は疲弊しきった顔で鼻から深いため息を漏らし、仰向けに寝返って毛布を避けるともう一度そろそろと目をつむった。

「ひどい夢を見た…夢だけならいいが…」
「夢の内容を口にすれば、正夢にならないって聞いたことがありますよ」

ベッドの縁で頬杖をつき、言いづらそうに口をモゴモゴさせる夫に柔らかな視線を落とす。
言い出しかけては止めるというのを何度か繰り返し、しかし諦めて目を開いた彼の第一声が娘のように大切にしているあの子の名前だったから、ジョアナは思わず苦笑した。先日新しい恋人ができたとかで、彼はひどく荒れていたのだ。

「最悪だ…大将からある申し出をされた…」
「ええ」
「…あんな…絶対に了承できん!できるわけないだろ…!」
「そうねえ」

やっぱり正夢になるかもしれませんね、とは言ってやれなかった。きっと近い将来、あの子に限らず多くの子供たちがこの手の報告や相談をしてくるだろう。
彼自身には経験のないことで、だから余計になのかもしれないけれど、どうしても許すことができないらしい。同じプレッシャーを味わったことがないのだから相手の男の気持ちを本当の意味で理解してやることもできないし、ほんの少しの同情心すら湧かないのかもしれない。もちろん、彼女たちの幸せを願っていないわけではないのだけれど。
これは苦労するわねえ、アデルちゃんも、青、雉さん…?も。

「さあ、ご飯できてますから、そろそろ起きてくださいね」
「ああ…」
「あ、そうだ。あなた昨日遅かったからすっかり言い忘れちゃってたんですけど、エレノアちゃんも彼氏できたんですって。春だわねえ」
「な、何だって?!どこの馬の骨…」
「どこの子かは私もよく知らないんですけど、笑ったときの目尻の皺があなたに似てるって言ってたわ」

慌てて飛び起きた夫に悪戯っぽい笑みを向け、シーツは洗濯籠へ、と言ってジョアナは寝室をあとにした。


予想通りではあったが、まるで気にしていませんとでも言いたげな、つとめて普段通りに振る舞う彼の様子はしかしどこかいつもと違っていた。あの夢の一件以来、モモンガはここ数日確実に落ち込んでいる。
今日だってそうだ。午後から非番だと言う彼が、はじめは子供たちのところへ行くと話していたのに、結局夕方まで出歩かず家に引きこもっていたのがいい証拠だった。今日はエレノアのボーイフレンドが遊びに来てくれていた。それを昨夜休む前に言ってしまったものだから、今朝になって「やっぱり家でゆっくりしているよ」と彼は言ったのだ。さりげなく言ったつもりだろうが、目線を合わさなかったことでその内心は容易に知れた。

仕事を終えたジョアナが帰宅すると、彼女の夫はキッチンで小さくなっていた。鼻を突く異臭で気づいてはいたけれど、どうやらぼんやりとしている内に鍋底を焦がしたらしい。いよいよ分かりやすいほどに気落ちしているモモンガの腕を摩り、ジョアナは彼を外へと連れ出した。どう頑張っても綺麗にできず、加減を間違えたために焦げ付きどころか鍋底ごとたわしでえぐってしまっていたのだ。

「ほら、いつだったか私、取っ手を駄目にしちゃっていたから…そろそろ買い換えようかと思っていたんです」
「ああ…すまん…」
「何をご馳走してくださる予定だったんですか?」
「カレーだ…マトンの…」
「じゃあカレーの材料も買って行きましょう」

外の空気を吸い、買い出しをしていく内に少しは気が晴れたらしい。あれもこれもとかごに食材を入れ、いいかな、と言ってアイスのケースを指差す頃には笑顔も出るようになっていた。会計を済ませて店を後にし、道行くあの子に偶然出会うまでは、の話ではあったけれど。

「モモンガさん!ジョアナ先生!」
「アデルちゃん、こんばんは」
「こんばんは、お久しぶりです。お二人でお買い物ですか?」
「そうなの、カレーを作ってくれるって。そうだ、よかったらアデルちゃんも一緒にどう?」
「ぜひそうしたいんですけど…ごめんなさい、今夜は予定があって…」
「あら残念…じゃあまた今度遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます!またお邪魔します」

この短い会話の間、モモンガは一言も言葉を発しなかった。手を振って立ち去るアデルに対して「ああ、また」と返したくらいで、どこかよそよそしく不自然な笑顔を張り付かせていた。これほどとは思わなかったとジョアナは苦笑し、なるべく夫の顔を見ないようにしてあげて隣を歩く。

「デートとは言ってなかったですよ」
「ああ…」
「またすっごく皺が寄ってましたけど、最近はずっとこうなんですか?」
「こう、…いや、そんなことは…」
「その内アデルちゃんも気づきますよ、きっと悲しむわ」

誰かとの約束にあんなに嬉しそうな表情で出かけていったアデルが、彼がそれをよく思っていないと知ったらあの笑顔も曇るだろう。自分の不快感とあの子の悲しみを考えたら、彼は間違いなくあの子の幸せを優先させるはずだ。今はまだ、こころの中をうまく整理できていないだけなのだろう。
おそらく苦虫を噛み潰したような顔になっているはずのモモンガは、本人は気づかれないと思っているらしい小さなため息を漏らし、そうだな、と呟いた。

「私にも父が居たら、私達のこともこんな風に思ってくれたのかしら」
「間違いなくそうだろうな…」
「父もあなたもどんな顔をするのか、どんなことを言ってくれるのか見てみたかった」
「…今の私の顔と言葉は、きっと君のお父さんのそれと同じだよ」
「そうだ、今度遊びに来てもらう時は大将もお呼びしませんか?そしたら恋人の父親と対面する男の人の表情もわかりますね」
「勘弁してくれ…」

くすくすと笑うジョアナの手を取り、暗くなった路地をゆっくりと歩いていく。彼の歩幅ではゆっくりでも、彼女にとっては歩き慣れた速度で。

「彼はどんな人ですか?あなたみたいに背が大きい?」
「…私よりずっと大きい。赤犬さん…サカズキ大将はわかるね、あの人と同じくらいだ」
「それじゃあアデルちゃんの隣を歩くのは大変ね、あなたも最初苦労してたし」
「別に苦労は…彼らは規格外すぎるよ、歳もあんなに離れて…」
「年齢は関係ないですよ、それを言うならモモンガさんと私だって一回り以上違います」
「あっちは二回り違うぞ…それに、彼は海兵だ」
「あなたも海兵さんだわ。ねえ、エレノアちゃんの彼氏ね、あの子より二つ年上で身長はそこまで変わらないし、お仕事はレストランでコックさんをしているんですって」
「…どの道気に食わんのは同じだな」
「でもとっても優しい子よ、笑った顔も可愛らしいし」

今度会ってみたら、とジョアナは笑い、その内な、と言ったモモンガは降参したように苦笑いを浮かべた。

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