佳き日
差し出された辞令書を両手で受け取ったステンレスは、そのまま頭を上げることなくお決まりの口上を述べ始めた。謹んでお受けいたします、本部中将の名に恥じぬよう、今後も日々精進し云々。万感の思いか、その声はずいぶんと震えていた。苦笑した元帥に気づくこともなく、しまいには辞令書ごと上官の手を握りしめ、大変申し訳ないのですが、と今にも泣き出しそうな顔を上げて彼は突然懇願した。握られた側である元帥はわずかに身をのけぞらせ、苦笑いのままだった顔を引きつらせて息を飲む。おそらく、彼でなければ短い悲鳴の一つくらい上げていただろう。眼前の男の尋常ならざる様子と己の立場やその他諸々とを無意識に天秤に掛け、後者の方が勝っただけの話ではあるのだが。

「勤務中なのはわかっております…しかし、しかしどうか十分だけ…お許しいただきたい…」
「あ、ああ…」

許可するや否やステンレス少将、いや、中将は走り去った。きちんと開け切る手間も障害物を避ける暇もなかったのだろう、襖にしたたか身体をぶつけ、それでも一瞬で彼の姿は見えなくなってしまった。十分間で何をするつもりなのかは知らないが、あの様子では三十分でも一時間でも、とにかく気を鎮めるまでは勤務どころの話ではないだろう。半壊した入り口の修理費は来月の給料から差し引くことにして、特に強く掴まれた左手をさすりながら元帥はため息を漏らした。

ブランチ後の一服をのんびりとふかし、雑誌をぱらりとめくるイレーネの耳に遠くから届いてきたのは彼女の恋人の叫び声だった。彼はまだ仕事中のはずで、約束は夕方からだったのに取っ手を引きちぎらんばかりの勢いで彼女の家のドアを開けた。確か鍵をかけてあったはずだ。大声を上げて駆け込み、女の家の玄関を破壊する大男はどこからどう見ても完全に不審者だった。しかしイレーネは両目をまん丸にし、椅子に腰掛けたまま何事かと聞くこともせずぽかんと彼を見つめた。彼は大泣きしていたのだ。

「やっと、ぐふっ……」
「な…何…どうしたの…」
「うぐっ…う…ち、…じょ…」
「気持ち悪いから取りあえず落ち着きなさいよ…」
「うわあああ!」

靴は脱ぐんだな、と冷静に頭に思い浮かべたイレーネは、物凄い勢いで腹のあたりに抱きついてきた恋人の肩を押し、灰が落ちると言って煙草を持つ右手を彼から遠ざけた。うぐうぐ言うだけでそれ以上声にならないステンレスの嗚咽が、パーカーのポケットのあたりでこもっている。部屋着のままでよかった。溢れて止まらぬ涙が彼の目尻の皺や頬骨を伝い流れ、鼻水までもが思い切り垂れて大きな染みを作っている。

「ちょっと…どうしたの…」
「う…ぐふっ…ちゅうじょ…」
「え?」
「ちゅうじょうになれたああ!」

うわああ、とまた大粒の涙をこぼし、彼女の腹に顔を擦り付ける。ああ、そう、と苦笑したイレーネは、ひくひくと肩を揺らす恋人の髪を撫で、彼が落ち着くまでしばらくそうしていた。そうして一分か二分か、鼻をすすったステンレスが赤く腫らした目で見上げてきたとき、彼女は柔らかな笑みを浮かべて彼の額にかかった髪を一筋、後ろへと流してやった。

「よく頑張ったね」
「う…うわああ…」

それから数分の後、離れたがらないステンレスを追いたて、ドアの修理の手配までさせて再び仕事へと送り出した。今朝見送ったときは、まさか今日がこんな日になるとは思いもよらなかった。
よし、何か好物でも用意しておこう。吸いかけを灰皿に押し付け、イレーネは濡れた服を着替えて出掛けるために腰を上げた。

彼について知っていることはいくつもある。
手間暇かけて作られた凝った料理よりも、ハンバーグだとかカレーだとか、そういったものの方を好むこと。舌が子供なんだろうな、と彼自身も言っていた。今もグラタンを一口食べるたび、うまいうまいと何度も言って満面の笑みを浮かべている。
外では人一倍身だしなみに気を使うくせに、家の中では腹が出ていようが髪が乱れていようが構わないし、着ているものにすら頓着しない。だからたまに仕事中の姿を見かけると、まるで別人のようで驚かされるのだ。よく考えてみたら、出会った当時はあちらの顔だったのだけれど。
青色が好きなのに、あまり自分の持ち物には取り入れようとはしない。わけを尋ねたら「似合わないから」と答えられたが、傍から見ている分には特にそんなこともないように思える。その代わり、彼から贈られるものには青が多い。
それでもまだ、知らないこともある。
あの昼間の泣き顔。泣き出しそうな表情はしょっちゅう目にしていたけれど、本気で泣いたのは今日が初めてだった。泣きながら顔を擦り付けたものだから、鼻の頭も目尻も真っ赤になっていた。子供みたいで情けなくて、ほんとうにもう

「好きよ、ステンレス」
「おつるさんも…ん?」
「あんたがどんな男だろうと、とにかく私はあんたを愛する。これからもね」
「え…あ…」
「泣く前に全部食べちゃってね、洗い物ができないから」

食べ終わってから言えばよかった、とイレーネは笑い、ぼろぼろと色んなものをこぼすステンレスの顔を慣れた手つきで拭ってやった。

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