sleeping 2
自分にできることであればなるだけやろうというのが彼女との間に設けられたルールで、それは軍に属するものとしては身に染みついた習慣ではあったけれど、いかんせん得手不得手というものがあるのだからときには挫けてしまいそうにもなる。彼にとったら家事全般、それでも炊事と掃除は割とできる方ではあるのだけれど、このアイロンがけというのがどうにも苦手でいつも四苦八苦してしまう。洗濯も干すまではいい。下っ端の時分は部隊全員分の汚れ物を当番で片していたし、量が多い分面倒ではあったが、よく晴れた日にロープへ吊るした制服やらシーツやらを取り込むのは中々気分のいいものだった。しかし畳むところにくると途端に億劫になってしまう。袖だとか裾だとかをきちんと揃えて畳むのがなぜか上手くいかず、くちゃくちゃにしてしまっては結局籠に入れてそのままにしておき、次に着るときはよれよれの皺だらけになっている、ということが多々あった。だからシャツの襟や折り目に合わせてアイロンを当てるだなんて芸当は、彼にとっては苦行以外の何物でもなかった。こうしてアイロン台の前に座って十数分、まだ一枚目のだってできあがってはいやしない。あっちの皺を伸ばせばこっちに寄るし、肩のところのカーブはどうやったら当てられるんだ、そもそもなんでボタンがこんなについているんだと、癇癪のひとつも起こしてしまいそうになる。

「ギブアップする?」
「もうちょっと頑張る…」

背後からの可笑しそうな声に振り返ることはせず、ステンレスは目の前のシャツと格闘し続けた。言い出したのは自分なのだから最後までやり遂げる。例えどんなに時間がかかっても非効率的であっても、途中で投げ出すようなことはしたくなかった。元々自分の持ちものだ。それに、できるだけ彼女の手を煩わせたくないというのが本当のところだった。忍耐力を鍛えると意気込んだ彼に、今更アイロンがけで養われるとは思えないけれどとイレーネは笑ったけれど、こんなことで挫折していてはこれから先どうしていくんだと、妻が思っている以上に彼は真剣そのものだった。そんなステンレスの内心を知ってか知らずか、彼女は呆れたように苦笑し、さやから取り出した空豆をいくつもボウルに入れていく。

「じゃあ、それが終わったら残りは私がやってあげる」
「いいよ、おれやるから…」
「日が暮れるわよ」
「暮れてもやる」

案外頑固よねえ、と呟きかけたのがあくびで掻き消され、目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭ってイレーネは二、三度まばたきをした。単調な作業と、窓から吹き込む気持ちの良い風と、集中し過ぎで途切れがちな夫との会話に少しずつまぶたが重くなる。はじめの頃に比べればずっとよくはなっていたけれど、疲れやすいのは仕方のないことだった。もう一度両目をしばたかせ、目立ち始めた腹を左手で撫でながら今日はお豆のスープよとこころの中で語りかけ、残りの空豆に手を伸ばす。

「ね、ジョアナ先生が言ってたんだけど」
「…うん?」
「モモンガさんってインゲンがあんまり得意じゃないってほんと?」
「うーん…どうだったかな…」
「歯触りが苦手、とか?」
「かも…」

あんたたち海兵はなんでも食べそうなのに、と笑うと、大抵は食えるよと短く答える。そうしてまた口をつぐんでせっせと右腕を動かす彼を見て、ほんとうに日が暮れそう、とイレーネはあくび混じりのため息を漏らした。まだこんなにあるのにと、ステンレスの後ろに積まれた洗濯物と自分の手元を見つめ、それなのに段々と緩慢になる指先の動きと、頬を撫ぜる心地よい風にまぶたどころか頭まで重くなってきてしまう。

「…あとで、お風呂…」
「うん、洗っとく…」
「…ありがと……」

そうしてさらに何分か経った頃、ようやっと満足する仕上がりになったシャツを両手で広げて彼は満面の笑みを浮かべた。よく見ると詰めの甘いところもあるけれど、それでもうまくいった方だと表裏を何度もひっくり返して眺める。これなら彼女も褒めてくれるだろうとステンレスはぱっと振り返り、しかし上げていた両腕を下ろして彼は言葉を詰まらせた。
イレーネは眠っていた。それはそれは穏やかな寝顔だった。唇は緩やかな弧を描き、すうすうと寝息を立て、右手は頬杖をつき左手は腹を支えていた。それを彼はじっと見つめた。淡い日差しに照らされた彼女の薔薇色の頬も、風に揺れる栗色の髪も、気づいたらなぜか滲んで見えた。泣く必要はちっともないのに、どうしてか鼻の奥がつんとする。風、そう、風だ。そう呟きながら綺麗に仕上がったシャツをうっちゃり、ステンレスは膝立ちのまま身を伸ばしてそろりと窓を閉めた。大きな音を立てないように、彼女を起こしてしまわないように細心の注意を払いながら立ち上がり、近すぎるボウルと豆の袋とを遠ざける。その間、イレーネの呼吸のリズムが変わるたびに彼はピタリと動きを止めて彼女を見つめた。抜き足でダイニングを通り抜けて寝室から持ち出した毛布を手に、いやいやここじゃあ、と声には出さず、取りあえず肩に掛けたあとは躊躇いがちに腕を伸ばしてゆっくりと彼女を抱え上げる。

「…ん……」
「…っ…ごめ…」

身じろぎをしたイレーネにまた一切の動きを止め、しばらくそうしたまま彼は部屋の真ん中で突っ立っていた。彼女の呼吸が規則的になるまで息も止め、ちらりとドアを振り返り、この調子ではベッドに辿り着く前に起こしてしまうだろうと浅くため息をつく。結局、ステンレスは彼女を抱えたまますぐそこのソファに腰を下ろした。彼女だけを下ろさなかったのは、こうしてずっと抱きしめていたかったからだ。
近ごろ、気候や体調の所為もあるだろう、暑い暑いとしきりに呟き、触れようとするたびするりとすり抜けられてろくにこうすることができなかった。それで肩を落とせば仕方ないじゃない、と不機嫌そうに彼女は言ったが、あとになってごめんね、と気まずそうに言うのもまた彼女からだった。
顔にかかった髪を後ろへ流してやり、寝苦しそうな様子のないことに安堵してもう少しきつく抱きしめる。二人分の重さを、それでも驚くほど軽いくらいだったけれど、確かに感じながら柔らかい身体を腕の中に閉じ込めた。

気づいたときにはその重みはすでになく、シャツはすべて片付けられ夕飯はできあがり、掛けたはずの毛布を掛けられていたステンレスは、おはよう、と言われるにしてはおかしな時間に目を覚ましてイレーネに笑われた。勿体無いことをしたような、それでいてとても充実した休日のことだった。

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